中院通富
中院 通富(なかのいん みちとよ[1] / みちとみ[2]、1823年2月18日(文政6年9月23日)- 1885年(明治18年)6月19日[1])は、幕末の公家、明治期の華族。伯爵。
経歴
山城国京都で内大臣・徳大寺実堅の二男として生まれ、侍従・中院通繁の養子となる[1][2]。天保8年3月25日(1837年4月29日)に元服し昇殿を許される[3]。天保12年8月29日(1841年10月13日)右近衛権少将に任じられ、右近衛権中将、兼参議、権中納言を経て、慶応4年2月2日(1868年2月24日)権大納言となった[3]。
安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・正親町実徳・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・八条隆祐・橋本実麗・野宮定功と共に、案文の変更を求めた[4][5]。万延元年7月(1860年)儲君祐宮(後の明治天皇)の三卿に就任[2]。その後、七次にわたって議奏加勢を務める[2]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、林和靖間詰並御内儀口向等取締に就任[6]。同年閏4月、桂宮祗候に転じ、その後、殿掌などを務めた[2]。
親族
脚注
参考文献
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。