中西清起

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中西 清起
阪神コーチ時代(2012年6月14日 阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県宿毛市
生年月日 (1962-04-26) 1962年4月26日(61歳)
身長
体重
180 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト1位
初出場 1984年6月3日
最終出場 1996年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 阪神タイガース (2004 - 2015)

中西 清起(なかにし きよおき、1962年4月26日 - )は、高知県宿毛市出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者、野球解説者。右投右打。現役時の背番号19

春・夏の全国大会で活躍した高知商業高校時代から、「中西球道」(水島新司の漫画「球道くん」の主人公)にちなんで、「球道(くん)」と呼ばれている。

来歴・人物

プロ入り前

高知商業高校では、1年夏、2・3年春、3年夏の4度にわたって甲子園に出場している。1年生時の1978年夏の選手権は、1年上のエース森浩二の控え投手として出場。決勝まで進むが、西田真二を擁するPL学園に惜敗、準優勝にとどまる[1]。この大会では2試合に登板した。1979年春の選抜右翼手、控え投手として出場。2回戦で牛島和彦香川伸行らのいた浪商に惜敗[2]、自身の登板機会はなかった。1980年春の選抜では、エース、四番打者としてチームを牽引、決勝で帝京高伊東昭光に投げ勝ち初優勝[2]。この大会では準々決勝で選抜通算200号にあたる大会第11号本塁打を放っている。同年夏の選手権は2回戦で箕島高に敗退[1]

高校卒業後にリッカーへ入社すると、当時社会人野球で活動していた硬式野球部に入部。東京都代表で出場した1981年都市対抗では、日本生命中本茂樹電電中国津田恒美協和発酵から補強)に投げ勝ち準々決勝に進出。東京ガスに敗退[3]するが、チームメイトの内野手・黒田光弘と共に、若獅子賞を受賞した。1982年大会では明治生命1983年大会では熊谷組の補強選手として出場[3]。社会人野球の公式戦では、通算で38勝を挙げた。

1983年のドラフト会議阪神タイガースに1位指名され入団。この年までエースとして活躍した小林繁から、背番号19を引き継いだ。担当スカウトは、今成亮太の実父である今成泰章。

プロ入り後

1984年には、一軍公式戦33試合に登板。ジュニアオールスターゲームにも、ウエスタン・リーグの選抜メンバーとして出場した。一軍では救援を中心に起用されたが、1勝6敗、防御率5.35という成績で、同じ社会人出身・同期入団の池田親興(9勝6敗)ほどの活躍に至らなかった。

1985年には、「バックスクリーン3連発」で知られる4月17日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(阪神甲子園球場)で、9回表無死から登板。ウォーレン・クロマティ原辰徳からの2者連続本塁打で1点差に迫られた福間納の後を受けての登板だったが、後続の打者を2者連続奪三振を含む三者凡退に抑えたことで、一軍初セーブを挙げた。この試合を機に、従来からのクローザー山本和行との「ダブルストッパー」として活躍。山本がアキレス腱の断裂で戦線を離脱した9月以降は、1人でクローザーの重責を担った。10月16日ヤクルト戦(神宮球場)では、同点の延長10回裏に登板。チームが勝つか引き分けるかで21年振りのセントラル・リーグ優勝が決まるという状況で、ヤクルト打線を完璧に抑えると、最後の打者・角富士夫をピッチャーゴロでアウトに仕留めて「胴上げ投手」になった。結局、レギュラーシーズンでは11勝19セーブの好成績を挙げた末に、リーグ最優秀救援投手のタイトルを獲得した。

1986年1987年には一軍公式戦61試合、1988年には46試合に登板。1986年・1988年に8勝を挙げるなど、引き続きクローザーとして活躍した。1987年・1988年には、チームが低迷する状況でオールスターゲームへの出場を果たしている。

1989年には、シーズンの途中から先発に転向。一軍公式戦通算で10勝5セーブを記録するとともに、先発投手として2試合で完封勝利を挙げた。

1990年には、初めて一軍の開幕投手を任されると、開幕戦で完封勝利を収めた。しかし、シーズン途中に右足首の故障で戦線を離脱した影響で、通算では5勝6敗に終わった。

1992年からはクローザーに復帰。1995年まで、一軍公式戦で4年連続30試合以上に登板した。3試合の登板にとどまった1996年に、球団から戦力外を通告されると共に、投手コーチへの就任を打診。阪神での最終登板になった10月9日の対中日ドラゴンズ戦(甲子園)では、この試合を最後に現役を引退する木戸克彦とのバッテリーで、先発投手として中日打線を14球で三者凡退に抑えた。中西はこの時点で現役続行を希望していたため、コーチへの就任要請を固辞したうえで、シーズン終了後に横浜ベイスターズ福岡ダイエーホークスの入団テストに参加。しかし、いずれのテストでも入団に至らなかったことから、現役を引退した[4]

現役引退後

1997年から2003年まで、朝日放送野球解説者日刊スポーツ野球評論家として、阪神の地元・関西地方を拠点に活動した。

現役時代の主力打者だった岡田彰布が阪神の一軍監督に就任した2004年に、一軍投手コーチとして同球団に復帰。高校の後輩・藤川球児セットアッパーとして大成させたほか、ブルペン担当コーチとして、JFKウィリアムス、藤川、久保田智之)やSHE桟原将司橋本健太郎江草仁貴)と称されるリリーフ投手陣の整備で大きな成果を残した。その実績を買われて、2009年からは、二軍投手コーチとしてファーム投手部門の強化に尽力した[5]。ただし、二軍で熱心に指導していた高卒入団投手の多くは、在任中に芳しい成績を残せなかった。

2013年から阪神の一軍投手コーチに復帰。大阪桐蔭高校からドラフト1巡目指名で入団した藤浪晋太郎を一軍の主力投手に育て上げながら、チームの2014年クライマックスシリーズ初突破と日本シリーズ進出に貢献した。しかし、レギュラーシーズンのチーム防御率・失点がいずれもセントラル・リーグ5位に低迷。二軍コーチ時代から指導してきた若手投手の伸び悩みや、救援陣刷新の不備などが顕著に表れた2015年限りで、コーチを退任した[6]

2016年からは、日刊スポーツ野球評論家や、朝日放送野球解説者としての活動を再開している。

プレースタイル

  • 平均球速は130km/h前半、最速も143km/hとストッパーとしては大して直球のスピードが無かったが、スローカーブスライダーシュートパームボールなどを多用し、直球を速く見せる技術で打たせて取る投球術で活躍した。しかし、好不調の波が激しく、1986年以後は、それまで2点台を維持していた防御率が3点台後半、4点台と下がっていき、最終的に引退までに2点台には戻せなかった。一方で中西が現役として在籍していた当時は投手難な年が多く、先発・中継ぎ・抑えと全てのポジションをこなせる故に最優秀救援投手のタイトル獲得し通算100SPは記録したものの、便利屋的なポジションを担う羽目になった。

人物

  • 現役時代には、中西・平田勝男木戸克彦の3人で「NHKトリオ」と呼ばれていた。この3人は、現役引退後も長らく、阪神のコーチとして顔を揃えていた。
  • 趣味は、釣りマリンスポーツスノーボード。また、ひょうきんな性格で、大酒飲みとしても知られる。その一方で、以下の騒動を引き起こしている。
    • 阪神の新人投手として「虎風荘」(当時甲子園球場の東隣にあった初代の独身寮)に住んでいた1984年5月には、ナゴヤ球場で中日とのウエスタン・リーグ公式戦を終えて帰阪すると、甲子園口駅付近の居酒屋で飲酒。門限が午後10時だったため、いったん寮に戻って寮長の梅本正之から点呼を受けた。他の寮生が全員就寝した午後11時頃に、再び飲みに出かけようと、中庭の窓から境界線のコンクリートの塀を伝って「門限破り」を試みた。しかし、すでに泥酔していたせいで、塀から足を踏み外して落下。空き瓶の入ったビールケースで顔面を強打した。物音に気付いた梅本が駆け付けたところ、顔面血まみれの中西が顔を洗っていたため、梅本はすぐに最寄りの消防署へ救急車の出動を要請。中西は、「騒ぎを大きくしたくない」梅本の配慮によって、サイレンを鳴らさない救急車で虎風荘付近の救急病院に搬送された。翌日から神戸市の東部にある病院に転院したが、「ドラフト1位で入団したばかりの選手が泥酔事故で選手生命を絶つことになったらさすがにまずい」という理由から、球団代表・岡崎義人の方針で球団広報・本間勝(いずれも当時)は報道陣に対して「腰痛と風邪で入院した」と発表。当の中西は、額を数針縫っただけで済んだものの、球団から10万円の罰金を課された[4][7]
    • 淡路島へ釣りに出掛けていた2015年10月25日から27日にかけて、同居中の家族と連絡が取れなくなった。このため、地元紙の『神戸新聞』では、27日の午前11時頃に「阪神元コーチ 中西氏が所在不明に 家族と連絡取れず」という記事をインターネット向けに配信。阪神のコーチを退任した直後の出来事であったことや、この記事がYahoo!ニュースに転載された直後に神戸新聞社が記事を取り消したことから、自宅や管轄の警察署に報道陣が集結するほどの騒動に発展した。結局、27日の午後に阪神球団の幹部が携帯電話で中西の消息を確認したため、中西は滞在先の警察署に保護された[8][9]
  • 現役時代の1989年1月には、「ファンの女性に対して暴力を振るった」として書類送検を受けた。中西の自宅へ押しかけたり、無言電話を繰り返したりするなどのストーカー行為を繰り返したことに、中西自身が立腹したことによる。
  • 前述したように、阪神を退団してから、コーチとして復帰するまで8年を要した。そのため、コーチへの就任後は、投球による肩や肘への負担を最小限にとどめる方向で投手を指導。投手から引退の時期を相談されるようなコーチを目指していたという。
    • 一軍投手コーチへの就任当初は、ブルペンでの指導を任されていた。阪神への入団以来故障の影響で伸び悩んでいた藤川については、2004年春季キャンプの第1クールで右肩の異常を訴えたことを機に、潜在能力を最大限に発揮できる投球数、投球イニング、登板間隔などを多角的に分析。その結果を踏まえて、チームが中盤までに勝ち越した試合の7回に、1イニング限定でセットアッパーに起用する構想を打ち立てた[10]。藤川自身も、山口高志二軍投手コーチによる投球フォームの改造を機に、この年の後半から一軍に定着。フォーム改造で故障のリスクが減ったこともあって、同年のシーズン終了後に、前述の構想を藤川へ伝えた。ちなみに藤川は、2013年から活躍の場をMLBへ移した後に、中西の退団と入れ替わる格好で2016年から阪神に復帰している。
    • 2005年以降は、前年まで春季キャンプの初日から投げ込みに徹していた藤川にスロー調整を命じた[11]ほか、一軍の救援陣に徹底的な体調管理や投げ込み制限を課した。その結果、チームは2005年にセントラル・リーグで優勝。救援陣も、藤川を中心に、安定した投球で数年にわたってチームを支え続けた。
    • 2009年から4シーズンにわたって二軍投手コーチを務めた後に、2012年8月からゼネラルマネジャーとして阪神に復帰した現役時代のコーチ・中村勝広からの強い要請で、2013年から一軍投手コーチへ復帰。復帰と同時に一軍監督へ就任した現役時代のチームメイト・和田豊の下で、救援陣の管理を山口に委ねながら、一軍投手陣の起用に関する全権を任された。中西自身は、コーチを退任した後に、「(高校から直接入団した)秋山拓巳岩本輝歳内宏明を二軍で一人前の投手に育てたかったから、(2012年の9月に)中村から酒席に誘われた際に、一軍投手コーチへの復帰要請を3回断った。しかし、中村から酒の勢いで『お前を一軍に戻すことが、(ゼネラルマネジャーとしての)俺の初仕事だ。断るならタイガースを辞めろ』と言われたため、やむなく要請を受けた」と明かしている[10]
    • 一軍投手コーチへの復帰後は、和田の希望を受けて、藤浪を入団1年目から一軍に帯同させなから3年計画で育成。球団内に藤浪のプロジェクトチームを設けたこと[10]を背景に、1年目に限って、レギュラーシーズンの規定投球回(144イニング)を投球イニングの上限に設定した。藤浪は1年目に、137回3分の2イニングを投げて10勝を挙げたが、左足が三塁側に踏み出す投球フォーム(インステップ)の影響で左打者に苦戦。そのため中西は、1年目の秋季キャンプから、左打者への対策として投球中の藤浪の歩幅を縮めさせた[12]。2014年から2年間クローザーを務めていた呉昇桓に対しても、2015年シーズン中盤にインステップ気味のフォームで右腕が横に振れる傾向が見られたため、腕を縦に振れるようなフォームへの改造を指示[13]。その結果、呉は2015年に、NPB外国人投手のシーズン最多セーブ記録(41セーブ)をいち早く達成した[14]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1984 阪神 33 9 0 0 0 1 6 0 -- .143 304 67.1 79 10 31 4 0 50 3 0 44 40 5.35 1.63
1985 63 0 0 0 0 11 3 19 -- .786 445 107.2 92 10 31 7 4 83 3 0 38 32 2.67 1.14
1986 61 0 0 0 0 8 9 5 -- .471 387 95.0 86 9 20 6 3 73 1 0 38 31 2.94 1.12
1987 61 0 0 0 0 6 8 14 -- .429 439 103.2 105 15 29 8 5 56 5 0 52 45 3.91 1.29
1988 46 2 1 0 0 8 9 15 -- .471 391 91.0 91 10 26 3 6 54 3 0 49 45 4.45 1.29
1989 34 18 7 3 0 10 10 5 -- .500 608 139.2 156 14 36 6 7 74 4 0 67 62 4.00 1.37
1990 17 14 4 2 1 5 6 0 -- .455 405 89.2 117 10 25 1 4 50 1 0 52 49 4.92 1.58
1991 16 8 0 0 0 2 4 0 -- .333 236 50.1 70 3 13 0 2 18 2 0 47 42 7.51 1.65
1992 31 1 0 0 0 2 5 3 -- .286 188 39.2 46 5 18 6 4 32 1 0 24 21 4.76 1.61
1993 33 10 0 0 0 3 3 11 -- .500 357 82.0 103 6 12 2 5 54 1 0 37 33 3.62 1.40
1994 46 3 0 0 0 3 9 3 -- .250 335 79.0 79 3 22 7 3 57 1 0 32 29 3.30 1.28
1995 33 1 0 0 0 4 2 0 -- .667 170 38.0 48 6 12 4 1 29 0 0 28 28 6.63 1.58
1996 3 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 3.2 5 2 0 0 0 3 0 0 4 4 9.82 1.36
通算:13年 477 67 12 5 1 63 74 75 -- .460 4281 986.2 1077 103 275 54 44 633 25 0 512 461 4.21 1.37
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 19 (1984年 - 1996年)
  • 71 (2004年 - 2015年)

関連情報

解説者としての出演番組

阪神のコーチ時代にも、プロ野球オフシーズンには、在阪テレビ・ラジオ局制作の番組へたびたびゲストで出演していた。

脚注

  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ a b 【10月9日】1996年(平成8年) あの感激は再現せず…阪神優勝バッテリーそろって引退スポーツニッポン 2008年10月9日
  5. ^ 阪神中西投手コーチを二軍に配置転換日刊スポーツ 2008年10月22日
  6. ^ 阪神大刷新 中西、山口投手コーチら5人の退任発表 日刊スポーツ 2015年10月16日、同11月14日閲覧。
  7. ^ 「本間勝交遊録」27人目 中西清起 八十五年、歓喜の胴上げ投手の不思議な思い出月刊タイガース 2011年10月・11月号
  8. ^ 元阪神コーチ・中西氏失跡騒動の顛末 情報飛び交い一時ヤフーニュースのトップにZAKZAK 2015年10月28日
  9. ^ 失踪騒動の中西元阪神コーチ「淡路島で釣り」だった東京スポーツ 2015年10月28日
  10. ^ a b c 『日刊スポーツ』大阪本社発行版2016年1月25日付2面に掲載のコラム「中西清起の球道回想記」第1回を参照
  11. ^ 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』(2008年、ワニブックス)pp.161 - 162「万全のシーズン開幕」
  12. ^ “阪神・藤浪、インステップする癖を直すも…感覚や制球にズレ”. Sanspo Web (サンケイスポーツ新聞社). (2014年3月26日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20140326/tig14032604050003-n1.html 2014年4月21日閲覧。 
  13. ^ “呉昇桓にフォーム改善指令 “横振り”直し復活だ!”. nikkansports.com (日刊スポーツ). (2015年7月24日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1512066.html 2016年1月24日閲覧。 
  14. ^ 実際には、阪神のレギュラーシーズンの全日程終了後に、当時東京ヤクルトスワローズに在籍していたトニー・バーネットも41セーブを記録。呉・バーネットとも、2016年から活躍の場をMLBに移している。

関連項目