中村邦夫

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中村 邦夫(なかむら くにお、1939年7月5日 - )は、パナソニック(旧・松下電器産業)前会長

人物

滋賀県立彦根東高等学校から大阪大学経済学部に進学。松下電器産業(現・パナソニック)を根底から180度改革した人物として有名であり、2008年10月に社名を「パナソニック株式会社」へ変更する礎を築き「旧来の幸之助神話を壊した男」の異名を取る。

2000年6月、中村社長体制スタート時、松下幸之助の孫・松下正幸副社長が副会長に就任し、事実上、松下家による世襲は崩壊したと言われる。2009年度から義務付けられた役員報酬の開示制度では、2009年度の役員報酬が1億2200万円、2012年度の役員報酬が1億3300万円であった[1]

経歴

  • 1939年 7月5日 滋賀県に生まれる
  • 1962年 3月 大阪大学経済学部を卒業
  • 1962年 4月 松下電器産業株式会社へ入社
  • 1985年 11月 同社家電営業本部首都圏家電総括部 東京商事営業所 所長に就任
  • 1989年 4月 アメリカ松下電器株式会社(現・パナソニック ノースアメリカ株式会社) パナソニック社 社長に就任
  • 1992年 6月 イギリス松下電器株式会社(現・パナソニック イギリス株式会社) 社長に就任
  • 1993年 6月 松下電器産業株式会社取締役に就任、米州本部長(兼)アメリカ松下電器株式会社 会長
  • 1996年 6月 松下電器産業株式会社常務取締役に就任
  • 1997年 6月 同社専務取締役、AVC社 社長に就任
  • 2000年 6月 同社社長に就任
  • 2006年 6月 同社会長に就任
  • 2008年 10月1日 パナソニック株式会社会長に就任
  • 2011年 4月1日 三洋電機株式会社を完全子会社化。その後パナソニックとの重複部門の売却及びリストラの敢行(白物家電部門は中国ハイアール社へ売却)
  • 2012年 6月27日 同社会長を退任し相談役に。

中村改革

  • 2000年6月、松下電器産業の社長に就任した中村は、「破壊と創造」をスローガンに、聖域無き松下電器の構造改革に取り組んだ。
  • 2001年4月、国内家電営業体制の改革に続き、松下電器が創業以来初めて組織名に「マーケティング」の名を冠した「パナソニックマーケティング本部」と、「ナショナルマーケティング本部」を設置(現在は、「デジタルAVCマーケティング本部」、「アプライアンス・ウェルネスマーケティング本部」の2本部体制)し、本部を情報の集積地・東京(現在は2本部とも御成門に集約)に置く。また、同時期にかつてフィリップス(蘭)との合弁会社であった「松下電子工業株式会社(現・パナソニック(株)セミコンダクター社・ライティング社)」を吸収合併する。
  • 2002年~2003年に、「松下通信工業株式会社」「九州松下電器株式会社」「松下寿電子工業株式会社」「松下精工株式会社」と、非上場の「松下電送システム株式会社」の5社を株式交換により完全子会社化させる。その後、松下通信工業株式会社は、パナソニック モバイルコミュニケーションズ株式会社の他、松下電器産業株式会社のパナソニックオートモーティブシステムズ社・パナソニックシステムソリューションズ社・ヘルスケア社(後にパナソニック四国エレクトロニクス株式会社に統合)などに分割。九州松下電器株式会社と、松下電送システム株式会社はパナソニック コミュニケーションズ株式会社へ統合、松下寿電子工業株式会社は2005年4月に、パナソニック四国エレクトロニクス株式会社へ社名変更(2007年4月に松下電器産業株式会社ヘルスケア社を統合)、松下精工株式会社は松下エコシステムズ株式会社(現・パナソニック エコシステムズ株式会社)へ社名変更を行い、重複事業の効率化を図った。
  • 2002年9月、松下グループの総合情報受発信拠点としての役割を果たすべく、東京都江東区有明に「パナソニックセンター」を設立(後に「パナソニックセンター東京」へ改称)。
  • 2003年4月1日 系列店制度を大改革。幸之助が築き上げた共存共栄を180度覆し、全てのパナソニックショップ(旧・ナショナルショップ)1万8千店を一律平等に支援せず、売り上げを増やす意欲のある店のみに絞って(厳選・抽出のうえ)販促支援する「スーパープロショップ(SPS、現:スーパーパナソニックショップ)」制度を立ち上げる[2]
    • 同年5月、グローバルブランドを「Panasonic」に統一し、ブランドスローガンを「Panasonic ideas for life」とした第二の創業に踏み出す。この時点で「National(ナショナル)」は地域特定ブランドとして存続していた。
  • 2004年4月、長い間、兄弟会社としてライバル関係にあった松下電工株式会社をTOBにより連結子会社化する。その後松下電工は2008年10月にパナソニックとともにパナソニック電工に商号変更、2011年4月にパナソニックがTOBと株式交換により完全子会社化、2012年1月パナソニックに吸収合併され解散した。
  • 2006年8月、子供たちの理数離れに危機感を抱き、工業国ニッポンとしての産業の衰退を避けるため、子供たちに理数の楽しさをアピールするべく「パナソニックセンター東京」内に「リスーピア」を設立させる。
  • 現在、パナソニック株式会社相談役の他、日本経団連副会長、道州制推進委員長、新日本様式協議会理事長などを務める。次期日本経団連会長候補の筆頭と目されている。
  • 2000年6月の社長就任以来、代表取締役社長および会長として構造改革に継続して取り組んだが、「聖域なき構造改革」を謳いながら、韓国サムスンなどとの競争激化や地デジ化完了により需要が大きく落ち込むことが予想されたテレビ事業には「付加価値によって競争力は十分確保できる」などとして長期間手を付けず、兵庫県尼崎市に大規模なプラズマディスプレイ工場を新設するなど過剰な設備投資を行った。また商品開発や改良に必要な研究費までも設備投資に回されたことによって技術者が大量流出、技術力の後退も招いた。2011年10月の2012年3月期第2四半期決算発表の席上でようやく尼崎プラズマディスプレイ工場の大幅縮小などテレビ事業の構造改革が発表されたが、既に通期赤字が予想されていたところに構造改革費用を積み増したことで損失が膨らみ、2012年3月期決算はパナソニック(松下電器)創業以来最大となる7200億円の赤字となった。改革初年度にあたる2001年3月期の赤字額を大幅に上回るが、業績回復を次期経営陣に丸投げする形で相談役に退いた。社長、会長時代に、自らの意に沿わない役員を徹底排除した結果、周囲がイエスマンだらけになったことがこれほどの凋落を生み出した原因であるとも言われている[3]
  • パナソニックは2012年から2年連続で計1兆5,000億円近くの最終赤字を計上しており、一部からは「戦犯中の戦犯」「人間として劣化した経営者」との批判がされている[4]

関連項目

関連書籍

  • 中村邦夫「幸之助神話を壊した男」森一夫著 日経ビジネス人文庫
  • これからのリーダーに知っておいてほしいこと 中村邦夫述 松下政経塾 PHP研究所共編 PHP研究所刊

参照

  1. ^ 「社員も知らないパナソニック-1 創業4代目がぶつかる“国内弁慶企業”の壁」
  2. ^ 「SPS(スーパーパナソニックショップ)」及び「N&E(ネットワーク&エコ)ハウス」という称号は一度新規認定されれば永久に続く仕組みでは決してない。当該店がそれら称号を維持しSPS検索画面へも継続掲載されるためには「常に売り上げを増やし(SPS認定基準を上回る業績を上げ)、かつ顧客へのサービス向上を図る努力」を自らしなければならない。SPS各店の業績は(当該店所在地区を管轄する)PCMC(パナソニック コンシューマーマーケティング)各支社の営業担当者による店舗監査で定期的にチェックされ、そちら(店舗監査での業績チェック)で「売り上げ不振(業績がSPS認定基準を大きく下回る状態)が長期化し、これ以上種々の販促支援や助言をしても当該店は業績回復見込み無し」という判断が下されれば、当該店は当初のSPS認定を取り消されSPS検索画面より削除される(その通知は口頭では行われないので、当該店が当初のSPS認定を取り消された旨はスタッフが「うちの店がSPS検索画面から消えた」のをHP上で見て初めて知る形となる)。
  3. ^ 「家電の王様」テレビでの凋落 イエスマンだらけの採用が仇に msn産経ニュース 2013年1月25日付記事
  4. ^ “人間として劣化した経営者が後を絶たない電機業界の悲劇”. 現代ビジネ. (2013年6月11日). http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36089 2013年6月11日閲覧。 
先代
森下洋一
松下電器産業社長
第6代:2000年 - 2006年
次代
大坪文雄