中村福助

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中村 福助(なかむら ふくすけ)は、歌舞伎役者の名跡屋号は、東京の福助は成駒屋大阪の福助は高砂屋

「福助」は、三代目中村歌右衛門の幼名・福之助に由来する。名跡も同様に、当初は「歌右衛門」の前に襲名する前名だった。

明治になって「福助」が二系統に割れると、東京では「歌右衛門」と「芝翫」双方の前名となり、大阪では「梅玉」の前名となって定着した。

解説

「中村福助」という名跡は極めて異質な側面を持った名跡で、かつてはそのこと自体の方がその名跡を名乗る役者よりも有名だった。明治の初年から昭和の中頃にかけて、実に100年間ものあいだ、この「中村福助」を名乗る役者は東京と大阪に常に一人ずつおり、それぞれの福助はもう一方の存在を認めないという異常な状態が続いたからである。これでただでさえ「福助」を名乗る役者が倍になったのに加え、東京では「福助」の襲名頻度が通常の倍というもう一つの変則的事態がつづいた。数が多い分「中村福助」を名乗る役者は相対的に印象薄にならざるを得なかったのである。

ことの起こり

慶應3年 (1867) 夏、折から大坂に来演中の二代目中村福助が、数え29歳の若さで急死した。ただでさえ客足が遠退きがちな暑い夏の盛り、二代目福助の人気を頼みの綱にしていた興行主は、あてが外れて弱ってしまった。そこで窮余の策で白羽の矢を立てたのが、二代目福助の門人・四代目三桝他人(みます たにん)という役者だった。

四代目他人は大坂出身の役者で、当時は五代目三桝大五郎の養子となっていた。来坂した二代目福助はこの四代目他人の素質を認め、あらためて自らの門人としたうえで側に置くようになっていた。門人といっても福助より2歳ほど年下なだけで、しかもその芸はなかなかしっかりしていかにも堂に入った様子だった。そこでこの興行主は四代目他人を口説き落しにかかる。亡き二代目福助はあなたに一目置いていた、次の福助を襲名するのはあなたを置いて他にはいないではないか、と持ち上げて、とうとう彼をその気にさせてしまったのである。

ところが東京には、留守居に残してきた二代目福助の高弟・二代目中村政次郎(なかむら せいじろう)がいた。この「中村政次郎」という名跡は、二代目福助の前名だった由緒ある名跡である。師匠の前名を頂くぐらいだから、衆目が一致する高弟には違いなかった。大坂の動きなどは知ろうはずもない政次郎は、師匠の法要がひとまず済むとこちらも三代目福助を襲名する準備にとりかかっていたのである。翌慶應4年(明治元年)、この両者はほぼ同時期に東京と大坂でそれぞれ三代目中村福助を襲名する。こうして東西の舞台には二人の中村福助があい並び立つことになった。

旅先で看板役者が客死する。するとその役者に従っていた門弟と、留守を預かっていた兄弟子の双方が、故き師匠の名跡を共に襲名してしまう。実は江戸時代にはこのような事態がしばしば起こった。しかしほとんどの場合は後になって、先に死去した方を次代、長生きした方を次次代とし、双方ともその名跡の代々に加えることが多かった。わだかまりが後々まで尾を引かないように工夫したのである。

ところがこの「中村福助」に限っては話がこじれにこじれ、その結果以後100年間にわたってこの名跡を名乗る役者が東京で6代、大阪では3代、それぞれ続くという状態が続いたのである。

こうして東京と大阪にそれぞれ同じ名で、しかも代数まで同じ(三・四・五代目)中村福助が並び立つようになると、世間ではそれぞれの福助に各々の屋号を冠して、東京の福助は成駒屋中村福助(なりこまや なかむら ふくすけ)、大阪の福助は高砂屋中村福助(たかさごや なかむら ふくすけ)と呼んで区別するようになった。しかし当の本人たちは当然のことながら、自らが正真正銘の「中村福助」であるといって譲らなかったのである。

東西の福助

「中村福助」の名跡がかくも長きにわたって分裂しつづけた理由の一つに、東西の三代目福助の器量の差があげられる。大阪の三代目福助は傑出した役者だった。時代物世話物を特に得意として、早くから風格のある芸風を見せていたが、これが後に関西歌舞伎の屋台骨を背負う大看板となり、大正の末年まで舞台に立ち続けて81歳の大往生を遂げた名優・二代目中村梅玉である。

一方東京の三代目福助はというと、実は大阪の福助よりもさらに6歳も年下だった。二代目福助の「高弟」というのも、実は以前に初代福助の養子となったが後に離縁されたという経緯があるからで、芸の方も和事実事敵役女方と幅広くこなしたが、今ひとつ際立った芸に欠けていた。

明治14年 (1881) には業を煮やした宗家の初代中村兒太郎に意見されて「福助」の名跡を彼に譲らざるを得なくなり、自らは中村壽蔵と改名したが、鳴かず飛ばずで失意のうちに数年後43歳で早死にしてしまった。

事実上三代目に圧力をかけるかたちで「福助」の名跡を奪い取った初代兒太郎改メ四代目福助こそ、やがて「東西随一の女形」と謳われる大役者となった五代目中村歌右衛門である。彼はそもそも初代福助の高弟で、その養子にまでなっていた。ところが初代福助の跡を襲ったのはその実弟で、しかもその跡は二代目の高弟が継いだことから、兒太郎は宗家とはいえ一時は傍系に近い立場にあった。やがて大阪の三代目福助に比べて東京の三代目福助が年を追って見劣りするようになると、兒太郎は「宗家の立場」で意見してこの逆転劇を成功させたのである。同じ門弟あがりでも、宗家の養子になっているのといないのとでは、発言力にこれほど大きな違いがあった。

こうした事情もあって、東京の四代目福助はこの「福助」の名跡にひとかたならぬ愛着をもっていた。しかしそれを執着であったがごとく見なして「福助の名跡は一瞬たりとも空白にすべからず」云々と遺言したというのは、後年になって広まった伝説の域を出ない。東京ではたしかに大阪の倍の福助が生まれたが、これは四代目福助が四代目芝翫を襲名したのち五代目歌右衛門を襲名したため、以後東京の「成駒屋福助」は「芝翫」と「歌右衛門」両方の前名になってしまい、使用頻度が倍増したからに他ならない。

さて大阪の福助は、さすがに「歌右衛門」を襲名することまではできないので、三代目歌右衛門が俳名として使っていた「梅玉」をあらたに名跡として独立させて「高砂屋」をたて、いずれそれを止め名として襲名する名跡に落ち着いた。高砂屋の三代目福助が二代目梅玉を襲名すると、その養子がすぐに高砂屋四代目福助を襲名、これが二代目梅玉の死去後に三代目梅玉を襲名し、その養子がまたすぐに高砂屋五代目福助を襲名。こちらも「福助」の名を絶やすことはなかったのである。

しかし昭和44年 (1969)、その高砂屋五代目福助が死去すると、高砂屋では家系が絶える。ここで遺族はあえて高弟を養子に取ったりなどはせずに、そろそろ潮時と「中村福助」の名跡をこの際成駒屋に返上することを申し出た。

これをうけて六代目中村歌右衛門は、自らの養子・二代目加賀屋福之助をいったん成駒屋の八代目中村福助としたうえで、これを平成4年 (1992) に高砂屋の四代目中村梅玉とした。ここに100年以上にわたって分裂していた「中村福助」の名跡は統合され、「中村梅玉」の名跡も屋号こそ違うものの事実上成駒屋の傘下に組み込まれることになったのである。

成駒屋中村福助代々(東京)

成駒屋祇園守
成駒屋裏梅

屋号は成駒屋定紋は成駒屋祇園守、替紋は成駒屋裏梅。

  • 六代目 中村福助
    • 成駒屋五代目の弟、1917–2001。戦後を代表する立女形。
    • 三代目中村兒太郎 → 六代目中村福助 → 六代目中村芝翫 → 六代目中村歌右衛門
  • 七代目 中村福助
    • 成駒屋五代目の子、1928–2011 。
    • 四代目中村兒太郎 → 七代目中村福助 → 七代目中村芝翫
  • 九代目 中村福助
    • 七代目の長男、1960– 。当代。
    • 五代目中村兒太郎 → 九代目中村福助

高砂屋中村福助代々(大阪)

祇園守
祇園銀杏

屋号は高砂屋。定紋は祇園守、替紋は祇園銀杏。

  • 高砂屋四代目 中村福助
    • 高砂屋三代目の養子、1875–1948。
    • 二代目中村政治郎 → 高砂屋四代目中村福助 → 三代目中村梅玉

関連項目

外部リンク