中嶋一貴

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中嶋一貴
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県岡崎市
生年月日 (1985-01-11) 1985年1月11日(39歳)
F1での経歴
活動時期 2007-2009
所属チーム '07-'09 ウィリアムズ
出走回数 36
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 9
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 2009年アブダビGP
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中嶋 一貴(なかじま かずき、1985年1月11日 - )は、日本レーシングドライバー愛知県岡崎市出身。

父は元F1ドライバーの中嶋悟、弟はレーシングドライバーの中嶋大祐

プロフィール

初期の経歴

ジュニアフォーミュラ

父のレースを幼少時から見て育ち、1997年カートレースにデビュー。1999年には鈴鹿選手権シリーズICAクラスでシリーズチャンピオンとなる。その後、父親の七光りと言う評判が付くことを嫌い、ホンダ系ドライバーであった父親とは違い[1]トヨタが運営するフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を2002年に受講し、スカラシップを獲得した。2003年は、そのスカラシップでエントリーしたフォーミュラ・トヨタにて、見事シリーズチャンピオンに輝いた。

F3/SUPER GT/スーパー耐久

2004年全日本F3選手権にステップアップし、いきなり開幕ラウンドで2連勝し、父中嶋悟のDNAを受け継ぐ者として周囲に印象付けた。しかしその後は苦戦し、シリーズ5位に終わる。2005年も引き続き全日本F3に参戦しシリーズ2位となる。この年はマカオグランプリに挑戦するも6位に終わる。かねてから指摘されている、父と同じく予選での速さの不足及び不慣れなサーキットの攻略の遅さが表面化した形となった。また2005年はSUPER GT・GT300クラスにフル参戦し、スーパー耐久・ST-5クラスにも第3戦と第5戦にスポット参戦した。SUPER GTではスポーツランドSUGOで行われたシリーズ第4戦でクラス初優勝を果たし、スーパー耐久では第5戦富士スピードウェイでパートナーの黒澤琢弥と共に優勝を飾った。

2006年平手晃平とともに、F3ユーロシリーズトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)から参戦した(所属はManor Motosport、マシンはダラーラF305 メルセデス[2])。第2ラウンド・ユーロスピードウェイで行われた第4戦において優勝するも、シーズンを通しては成績が伸び悩みシリーズ7位に終った。決勝ではレースをうまくまとめており、課題はやはり予選の速さである。なお、引き続きマカオグランプリにも参加し、予選7位・決勝リタイヤに終わる。

GP2

2007年シーズンはTDPドライバーとしてDAMSからGP2に参戦した。初戦となったバーレーンから第2戦スペイン・レース1まで3レース連続で1ポイントを獲得。第5戦イギリス・レース1で3位となり初表彰台。第7戦ハンガリー・レース1ではシーズン最上位の2位に入り、5戦連続表彰台。最終戦バレンシアではP.P.を獲得(決勝レース1は3位・レース2は7位)したが、レース1のチェッカーを受ける直前に前を走っていた車に接触し、フロントウィングを失った。最終的にシーズン44ポイントでシリーズ5位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

F1での経歴

2007年

2006年11月8日ウィリアムズより「2007年シーズンのテストドライバー契約を中嶋との間で締結した」との発表があり、2006年11月16日富士スピードウェイで開催された「トヨタ・モータースポーツ・フェスティバル 2006」において、ウィリアムズのF1カーであるウィリアムズ・FW28を初ドライブした。

2007年シーズンは、GP2を戦いながらウィリアムズチームの第3ドライバーを兼務した。これはTDPの「参加ドライバー」として、初めてF1チームとの契約ドライバーになることであった。このことについては「2007年からウィリアムズのエンジンサプライヤーとなったトヨタの推薦を元に、チームオーナーであるフランク・ウィリアムズが自ら面接を行い決断したものである」と共同オーナー兼エンジニアリングディレクターであるパトリック・ヘッドが明かしている。ドライバーとしての能力は当然として、英語が堪能であることも契約に至る判断材料になったものとされる。

F1の開催がGP2と重ならないレースでは、第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走しているが、F1とGP2が併催されるレースではリザーブドライバーとして登録されている。なお、ハンガリーGPではそれまで通りウィリアムズのリザーブドライバーとしての登録と同時に、トヨタのリザーブドライバーとしても重複エントリーされた。これは本来のトヨタのリザーブドライバーであるフランク・モンタニーがトレーニング中の怪我のため、サーキットに来られなかったことによる珍事であった。

デビュー戦ブラジルGPフリー走行にて

GP2閉幕後の中国GPではシーズンで5度目となる第3ドライバーを務めていたが、アレクサンダー・ヴルツが中国GP限りでの引退を発表したことにより、最終戦ブラジルGPでF1デビューが決定、日本人としては17人目のF1ドライバーが誕生した。また、アジア人では初めての親子2代のF1ドライバーである。このドライバー選考については、GP2最終戦のバレンシアの予選において、ポール・ポジションを獲得したことや、中国GPのフリー走行で9番手タイムを叩き出したことが大きく影響したと考えられており、「ブラジルGPの結果は、2008年シーズンのウィリアムズチームにおけるドライバー選考に大きな判断材料にはならない」と、フランク・ウィリアムズ代表は記者会見で表明した。また、ディレクターのパトリック・ヘッドはエンジンサプライヤーであるトヨタの支援が明確に影響した事を後日認めた(この事との関連は不明だが、中嶋のレーシングスーツの胸の部分にはトヨタの赤いロゴがあるが、ロズベルグの胸にはない)。

F1デビュー戦となった2007年ブラジルGPでは、予選においてはタイヤを上手く使いきれず19位に終わった。決勝では、31周目、1回目のピットイン時に、ブレーキングのミスによって停止位置をオーバーランし自らのチームのピットクルーに接触して脚を負傷させるという失態を犯した。また63周目には第1コーナーで9位走行中のデビッド・クルサードをアウト側からオーバーテイクしたが、クルサードの進路を塞ぐという問題のあるライン取りであったため、クルサード車に接触しスピンさせるなど、未熟さが露呈したレースだった。10位で完走し、シリーズ22位の結果を残した。また、レース中のファステストラップは5番手のタイムで、チームメイトのニコ・ロズベルグを0.043秒上回った(ロズベルグはファステストラップ7位、決勝順位4位だった)。

2008年

2008年シーズンはウィリアムズとレギュラードライバー契約し、日本人8人目のフルタイムドライバーとして参戦することが決まった。一方でクルサードをはじめ、F1ドライバーとして参戦するのは時期尚早ではないかとする意見もあった。

しかしこの評判を跳ね除けるかのように、第1戦のオーストラリアGPは7位で完走した。さらに6位フィニッシュのルーベンス・バリチェロの失格(ピットアウト時の赤信号無視)により繰り上がり、6位に入賞した(チェッカーフラッグを受けたドライバー中の最下位)。またこのレースでは、セーフティカー走行中の48周目に第15コーナーでBMWザウバーロバート・クビサに追突し自身フロントウィングを失うとともに、クビサをリタイヤに追い込んだ。この行為により、第2戦マレーシアGPでは10グリッド降格の処分を受けた。予選は14位(ティモ・グロックの降格により13番手スタート)、レース中のファステストラップは14番手だった。

第4戦スペインGPではここまでの自己最高位の予選12位で通過し、初めてチームメイトのロズベルグを上回った。また決勝レースでも初めてトップと同一周回で完走し、7位2ポイントを獲得した。

2008年モナコGP

第6戦モナコGPでは、序盤は雨という荒れたレースであったが、安定したドライビングで最後まで走りきり7位フィニッシュ、モナコGPにおける日本人ドライバー初のポイントを獲得した。

第15戦シンガポールGPでは、未知のナイトレースで予選で自身初となるQ3に進出し、予選10番グリッドを獲得する。決勝では序盤に順位を落としたものの、最後は見事8位入賞を果たし1ポイントを獲得する。

初の母国GPとなった第16戦日本GPでは、フリー走行では好調な結果だったものの、Q3進出はならず、予選14番グリッドを獲得する。決勝では1周目でクルサードに追突し、フロントウイングを破損しピットイン。完走はしたものの、最下位の15位フィニッシュ。

フル参戦初年度でクラッシュなども目立ったほか、予選で一発の速さを見せられないなどの課題もあったが、チームメイトのロズベルグを度々上回り、9ポイントを獲得し翌年のシートを得た。

2009年

2009年シーズンも引き続きウィリアムズのレースドライバーとして参戦。 第1戦のオーストラリアGPでは、スタートの混乱をうまく避けて一時は4位を走行していた。しかし、単独でクラッシュし、リタイアした。

第7戦トルコGPでは終盤まで入賞圏内を走り、このまま行けば2ポイント確実と言われた状況で、最後のタイヤ交換にピットクルーが手間取ったため時間がかかるというまさかのトラブルで12位に終わってしまった。

第8戦イギリスGPの予選では、自己ベストの5位を獲得した。決勝ではスタートで4位に上がったものの、軽い燃料搭載量であったため他のドライバーより早い1回目のピットストップで、なおかつまたピットクルーがタイヤ交換に手間取ったため順位を落とした。また予選ですべてのソフトタイヤを使ったため決勝に新品のソフトタイヤが余っておらず、ハード-ハード-ソフトのタイヤチョイスとなり気温の低いイギリスでハードでのタイムが伸びず、11位でレースを終えた。

第16戦ブラジルGPでは、ティモ・グロックの代役としてF1デビューを果たした小林可夢偉にスタート後の3コーナーでオーバーテイクされ、抑え込まれた。皮肉にも同じコーナーにて、第2スティントでピットアウト直後の小林をオーバーテイクしようとして追突してレースを終えた。その後もポイント圏内に入る事が出来ず、今年度はノーポイントだった。そしてウィリアムズとの契約更新も出来ず今年度をもってチームから放出された。

2008年シーズンでの課題である予選での速さの改善が見られた。しかし、決勝レースでは、ピットクルーの度重なるトラブルや自身のクラッシュなど、うまくかみ合わないままシーズン最高位が9位になり、ノーポイントでシーズンを終えた。なお、名門チームであるウィリアムズでフルシーズン参戦でノーポイントだったのは長い歴史の中でアレッサンドロ・ザナルディと中嶋のみである。

2010年

ウィリアムズを離脱し、移籍チームの発表がないまま2010年を迎えたが、同年2月には旧トヨタF1の施設やスタッフを受け継ぐ形で同年からのF1参戦を目指しているチームである、セルビアステファンGPが既に契約済みであることが明るみに出た[3]。ステファンGPのF1参戦が実現すればF1参戦できるはずだったが、3月3日に発表された2010年F1エントリーリストにステファンGPは載っておらず、F1継続参戦もついえた。結局この年は一度もレースに参戦することがなく、いわゆる「浪人」生活に終始した。

国内レース復帰

2010年11月25日、この月の29日、30日に富士スピードウェイで行われるフォーミュラ・ニッポンの合同テストにトムスから参加することが発表された。

2011年

2011年は全日本F3時代に所属していたトムスに復帰し、フォーミュラ・ニッポン及びSUPER GT・GT500クラスに参戦する(チームメイトは共にアンドレ・ロッテラー)。この年は弟の大祐も、父・悟が率いるNAKAJIMA Racingからフォーミュラ・ニッポンに参戦するため、初の兄弟・父子対決が実現した。

5月15日のフォーミュラ・ニッポン開幕戦は予選14位から追い上げ、表彰台となる3位を獲得した。第2戦オートポリスでは、予選13位からスタートすると、チーム戦略がピタリとはまり、自身もそれを完璧に遂行し、大逆転でトップフォーミュラ初優勝を飾ったほか、全レースで3位以内に入り、チームメイトのアンドレ・ロッテラーに次ぐシリーズ2位となった。

2012年

2012年は引き続きトムスからSUPER GT及びフォーミュラ・ニッポンに参戦する一方で、同年よりトヨタがル・マン24時間レース及びFIA 世界耐久選手権(WEC)へ参戦するのに伴いレギュラードライバーに起用され、ハイブリッドカートヨタ・TS030 HYBRIDを駆ることになった。

初参戦となったル・マン24時間レースでは、ドライバー交代直後に日産・デルタウイングと接触して同車をクラッシュさせてしまい自車もその周回でピットイン。マシントラブルの修理を経てコースに復帰したものの、結局エンジントラブルによりリタイヤとなった。

所属するトヨタの凱旋レースとなるWEC第7戦富士6時間レースでは、予選のアタッカーを担当しポールポジションを獲得。決勝でもファステストラップを記録、耐久レースにも関わらずアウディ・R18との激しい僅差のバトルを制し、日本人としては20年ぶりの世界耐久選手権の優勝となった。中でも中嶋はチームメイトよりも安定かつ速いラップを刻み、レース終盤連続で3.5スティント走るという極めてハードな任務を託されたにも関わらず大きなミスも無く逃げ切りに成功、母国凱旋レース優勝に大きく貢献した。 フォーミュラ・ニッポン開幕戦では予選3位から優勝を飾った。SUPER GTではチームメイトとなったロイック・デュバルが1戦欠場したため最終戦までウエイトを積む苦しい展開となったが、フォーミュラ・ニッポンでは常にランキング首位を守る活躍をみせた。迎えた最終戦鈴鹿では2レース制の第1レースで下位に沈むも、第2レースでは得意の1周目ピットインを成功させ予選9番手から優勝。2012年チャンピオンを獲得し、自身初の全日本戦タイトル、名前が変わる前のフォーミュラ・ニッポンとして最後のチャンピオンに輝いた。

2013年

2013年はスーパーフォーミュラ、SUPER GT、WECに参戦するという体制は基本的に前年と変わらないが、WECと国内レースの日程のバッティングの際に国内レースを優先する体制のため、WECはフルエントリーではなく、7号車の第3ドライバーとして数戦に参戦する形になった。

2014年

2014年の参戦体制は基本的に前年と変わらず。ル・マン24時間レースでは、予選では日本人初のポール・ポジションを獲得、決勝レースでもトップを快走していたが、不測のマシントラブルでリタイアを余儀なくされた。

スーパーフォーミュラでは、開幕戦鈴鹿でこそセーフティーカー時のピットインのタイミングを逃す不運で6位に終わったものの翌第2戦富士ではレース1で2位、第3戦で待望のシーズン初勝利に輝く。その後も全戦でポイントを獲得する安定感を見せ、第7戦鈴鹿ではレース1で2位、レース2で勝利し、フォーミュラ・ニッポン時代を含めれば自身2度目の年間チャンピオンに輝いた。

レース戦績

F1デビュー以前

  • 1997年 - 鈴鹿選手権シリーズ・RSOクラス
  • 1998年 - 鈴鹿選手権シリーズ・ICAクラス
  • 1999年 - 鈴鹿選手権シリーズ・ICAクラス(シリーズチャンピオン)
  • 2000年 - 鈴鹿選手権シリーズ・FAクラス
  • 2001年 - 全日本カート選手権・FAクラス
  • 2002年
    • 全日本カート選手権・FAクラス
    • フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール(FTRS)受講・スカラシップ獲得
  • 2003年 - フォーミュラトヨタシリーズ(TOM'S #8 ウルトラフロースカラシップFT/FT30)(シリーズチャンピオン・3勝)
  • 2004年
    • 全日本F3選手権(TOM'S #8 FTRS トムス F304 /ダラーラF304 3S-GE)(シリーズ5位・優勝2回)
    • バーレーンスーパープリ(トムス)(決勝7位)
  • 2005年
    • 全日本F3選手権(TOM'S #37 TDP トムス F305/ダラーラF305 3s-GE)(シリーズ2位・優勝2回)
    • F3マカオGP(トムス)(決勝6位)
    • SUPER GT・GT300クラス(APEXERA with apr→吉兆宝山 with apr #31 APEXERA→吉兆宝山MR-S/ZZW30 3S-GTE)(シリーズ8位・優勝1回)
  • 2006年
    • F3ユーロシリーズ(Manor Motorsport)(シリーズ7位・優勝1回)
    • F3Ultimate Masters(Manor Motorsport)(26位)
    • F3マカオGP(Manor Motorsport)(決勝DNF)
  • 2007年
    • GP2シリーズ(DAMS)(シリーズ5位・PP1回、最上位2位)

SUPER GT

色の意味はこちらを参照→key

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2005年 吉兆宝山 with apr トヨタ・MR-S GT300 OKA
4
FSW
5
SEP
5
SUG
1
TRM
Ret
FSW
7
AUT
Ret
SUZ
7
8位 52

GP2

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
2007年 DAMS BHR
FEA

17
BHR
SPR

6
ESP
FEA

15
ESP
SPR

7
MON
FEA

10
FRA
FEA

17
FRA
SPR

6
GBR
FEA

3
GBR
SPR

3
EUR
FEA

3
EUR
SPR

3
HUN
FEA

2
HUN
SPR

Ret
TUR
FEA

6
TUR
SPR

Ret
ITA
FEA

DSQ
ITA
SPR

18
BEL
FEA

Ret
BEL
SPR

9
VAL
FEA

3
VAL
SPR

7
6位 42

F1

(2009年終了時)

所属チーム car-No. ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数 FL獲得回数
2007年 ウィリアムズ 17 22位 0 10位・1回 0回 19位・1回 0回
2008年 8 15位 9 6位・1回 0回 10位・1回 0回
2009年 17 20位 0 9位・2回 0回 5位・1回 0回

※2007年は最終戦ブラジルGPのみ出走

チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 WDC ポイント
2007年 ウィリアムズ FW29 AUS
TD
MAL
TD
BHR ESP MON CAN
TD
USA
TD
FRA GBR EUR HUN TUR ITA BEL JPN CHN
TD
BRA
10
23位 0
2008年 FW30 AUS
6
MAL
17
BHR
14
ESP
7
TUR
Ret
MON
7
CAN
Ret
FRA
15
GBR
8
GER
14
HUN
13
EUR
15
BEL
14
ITA
12
SIN
8
JPN
15
CHN
12
BRA
17
15位 9
2009年 FW31 AUS
Ret
MAL
12
CHN
Ret
BHR
Ret
ESP
13
MON
15
TUR
12
GBR
11
GER
12
HUN
9
EUR
18
BEL
13
ITA
10
SIN
9
JPN
15
BRA
Ret
ABU
13

20位 0

太字ポールポジション 斜字ファステストラップ

F1引退後

SUPER GT

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2011年 LEXUS TEAM PETRONAS TOM'S レクサス・SC430 GT500 OKA
4
FSW
4
SEP
6
SUG
9
SUZ
6
FSW
15
AUT
4
TRM
8
8位 39
2012年 LEXUS TEAM PETRONAS TOM'S レクサス・SC430 GT500 OKA
5
FSW
4
SEP
13
SUG
2
SUZ
Ret
FSW
4
AUT
15
TRM
8
7位 40
2013年 LEXUS TEAM PETRONAS TOM'S レクサス・SC430 GT500 OKA
12
FSW
1
SEP
11
SUG
10
SUZ
3
FSW
12
AUT
1
TRM
5
3位 60
2014年 LEXUS TEAM PETRONAS TOM'S レクサス・RC F GT500 OKA
13
FSW
AUT
SUG
4
FSW
5
SUZ
1
BUR
1
TRM
10
5位 60

フォーミュラ・ニッポン,スーパーフォーミュラ

チーム 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
2011年 PETRONAS TEAM TOM'S SUZ
3
AUT
1
FSW
3
TRM
3
SUZ
C
SUG
3
TRM1
2
TRM2
2
2位 42
2012年 PETRONAS TEAM TOM'S SUZ
1
TRM
3
AUT
5
FSW
2
TRM
4
SUG
5
SUZ1
12
SUZ2
1
1位 46
2013年 PETRONAS TEAM TOM'S SUZ
5
AUT
12
FSW
8
TRM
1
INJ
C
SUG
Ret
SUZ1
Ret
SUZ2
1
4位 24
2014年 PETRONAS TEAM TOM'S SUZ
6
FSW1
2
FSW2
3
FSW
1
TRM
7
AUT
6
SUG
2
SUZ1
2
SUZ2
1
1位 46
2015年 PETRONAS TEAM TOM'S SUZ
2
OKA
FSW
2
TRM
2
AUT
1
SUG
4
SUZ1
4
SUZ2
2
2位 45.5

世界耐久選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2012年 トヨタ・レーシング トヨタ・TS030 HYBRID LMP1 SEB SPA LMN
Ret
SIL
2
SAO BHR FSW
1
SHA 13位 44
2013年 トヨタ・レーシング トヨタ・TS030 HYBRID LMP1 SIL SPA
Ret
LMN
4
SAO COA FSW
1
SHA BHR
Ret
12位 37.5
2014年 トヨタ・レーシング トヨタ・TS040 HYBRID LMP1-H SIL
2
SPA
3
LMN
Ret
COA
FSW
2
SHA
2
BHR
SÃO
8位 71
2015年 トヨタ・レーシング トヨタ・TS040 HYBRID LMP1 SIL
3
SPA
LMN
8
NÜR
5
COA
4
FSW
5
SHA
6
BHR
4
7位 75

ル・マン24時間

  • 2014年:ル・マン24時間レースで日本人初のポールポジションを獲得した[4][5]。中嶋が乗る7号車は本選で途中リタイア、もう1台の8号車が3位入賞。

エピソード

  • 平手晃平小林可夢偉とともに、中嶋はTDP三銃士と呼ばれていた。小林可夢偉と中嶋は共にネットラジオの『タイムマシン部』に出演している。
  • F1デビュー戦は、父、悟と同じブラジルGPであったが、サーキットは父がジャカレパグア、中嶋はインテルラゴスと別である。
  • ヘルメットのカラーリングデザインは父のものを踏襲している。デビュー時は父と同じく、赤をベースに白文字で「NAKAJIMA」と書かれていたが、現在は白をベースにした赤文字で書かれている。
  • イギリス「Times(タイムズ)」紙が行った、2008年ベストドライバー投票において、6500票を超える投票数の中で、得票数1で最下位となった[2]。ウィリアムズというイギリスチームからの参戦にも拘わらず、同年わずかに4戦しか出走していない佐藤琢磨アンソニー・デビッドソンの2票を下回る結果となった。
  • 2005年に放送されたフジテレビのドラマ『エンジン』では、F3レース中における木村拓哉の代役を務めた。
  • 2010年にフジテレビ系列の特番『スーパーアスリートが夢の対決!!ジャンクCUP2010』内の「バランストレイン」というゲームに出場し、他スポーツのトップアスリート8人と、各駅で発進・加減速・停車する列車の中を小さい足場からいかに落ちないかを競い、最後は中嶋含め4人が終着駅まで到達したが、終点で停車した瞬間にライバル3人が一斉に足場から落ちる劇的な幕切れで見事優勝した。
  • 2011年の国内レース復帰以降、父・悟が運営するナカジマレーシングのサイトでは所属ドライバーとして扱われている[6]

脚注

  1. ^ ただし中嶋悟は、F1参戦以前にトヨタ系チームのトムスからル・マン24時間レースWEC-JAPAN等に参戦しており、ホンダ一辺倒だったわけではない。
  2. ^ トヨタの育成ドライバーにも関わらずメルセデスエンジンを使うという異例の形だったが、当時のF3で使われていたトヨタ・3S-GEはメルセデスに比べ戦闘力が大きく劣っていたため、ドライバーの成績を優先させるというトヨタとしては苦渋の決断を行った。
  3. ^ ステファンGP、ドライバーとマシンを語る - F1-gate.com・2010年2月19日
  4. ^ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」
  5. ^ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!
  6. ^ [1]

関連項目

外部リンク