中島みゆきのオールナイトニッポン

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中島みゆきのオールナイトニッポン
ジャンル バラエティ
放送方式 生放送
放送期間 1979年4月2日~1987年3月30日
放送時間 月曜深夜(火曜未明)1:00~3:00
放送局 ニッポン放送
ネットワーク NRN
パーソナリティ 中島みゆき
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中島みゆきのオールナイトニッポン(なかじまみゆきのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送深夜番組オールナイトニッポン」の月曜1部で1979年4月2日1987年3月30日まで放送されていたラジオ番組

概要[編集]

歌唱で見せる凛とした印象とは180度違う、軽快で明るい語り口が好評だった。内容や登場人物のキャラクターによって声の質を変えながらはがきを読んでいた[1]。そして番組中に読んで気に入ったはがきは中島自ら自宅へ持ち帰っていたという[1]

放送前の中島のイメージはそれまでの楽曲が影響して、素の彼女を知らない一般人からは「暗い人」と思われていた。このため初期の頃は同番組を聞いたリスナーたちから「これがあの中島みゆきか?」と驚かれた[1]。それまでの歌唱時に見せる表情とは正反対の「ガハハ」と笑う中島の意外な一面、お茶目でありながら温かい語りにリスナーたちは魅了された。また、このキャラクターがリスナーにウケたことで、歌手・中島みゆきにとって新たなファン層の獲得にも繋がったという[1]

その後ラジオの深夜放送の黄金期と呼ばれる1980年代でも、当番組はニッポン放送の看板番組の一つとなった[1]。中島がオールナイトニッポンを担当した8年間は、終了当時のオールナイトニッポンとしては歴代3位にあたり、女性パーソナリティでは「松任谷由実のオールナイトニッポン」、「AKB48のオールナイトニッポン」に次いで歴代3位。

中島の当番組出演のきっかけ[編集]

本作放送前の1978年の秋、中島は大阪MBSラジオの『MBSミュージックマガジン』金曜日のパーソナリティを担当していた。それを当時ニッポン放送制作部に所属していた亀渕昭信が聴き、その語り口と歌とのギャップに感銘を受けたことが当番組への起用のきっかけとされている[2][3]。亀渕は「中島に直接会って依頼した」と回顧しているが、中島自身はそのことを憶えていないという[3]

ちなみに、中島は自身の著書『伝われ、愛 -月曜のスタジオから-』において、前任者の松山千春から電話によって依頼されたと記述している[注釈 1]。なお、『ミュージックマガジン』の構成担当であった寺崎要を、当番組でも構成に起用している[4]

番組エピソードなど[編集]

第1回の1979年4月2日の放送は、当時放映していたTBSドラマ「たとえば、愛」の登場人物である九条冬子の語りと、三橋美智也の「達者でナ」の一節で始まった[5]。一曲目は甲斐バンドの「東京の一夜」。ちなみにこの放送において中島は、松山千春について「臨月のため北海道に戻っておりますので、いい子を産んでいただきたい」といじったトークをしていた[6]

ペンネームを読む際は、リスナーの希望でエコーをかける事が通例となっており、「○○エコー希望」と称し様々な種類のエコーがかけられた。3通に1通の割合で「エコー希望」と書かれていた統計があったという[7]。番組内で中島がリスナーのハガキの住所が書かれた表面から本題が書かれた裏面を読むためひっくり返す時、その音をわざとマイクの前で起こしていた[注釈 2]

毎回最後に読むハガキとエンディング曲は、中島自身がかなり吟味して選んでいたという。一部のスタッフからは、「番組のエンディングをきれいにまとめるのはみゆきさんの美学」とも言われていた[1]。ディレクターには事前に中島が選んだエンディング曲を伝えられ、毎回曲の長さを計算に入れて本番に臨んだ。本番では中島が最後のハガキを読み終える直前にスタッフが曲のイントロを流し始め、曲の終了からきっかり3秒後に午前3時の時報が鳴るようにしていたという[1]

放送期間中に一度だけ、中島が最後のハガキで悩みを相談してきたリスナーの名前だけ紹介して内容を読まなかったことがあるという[1]。その時中島は、「あなたのお悩みは私には大きすぎて簡単にはお答えできません」とだけ言った。中島は手紙を出してくれたリスナーに安易な助言をせず、正直な自分の気持ちを伝えたという[注釈 3]

中島の本業の歌手活動との兼ね合い[編集]

スケジュールの都合などで中島の公演先から当番組の生放送を行ったこともある。例として1981年1月6日STVラジオ1984年3月26日南海放送1985年6月2日ラジオ沖縄1986年4月4日KBCラジオのそれぞれから、またその他数回地方局から放送を行った[8]

1986年の全国コンサートツアー中に沖縄での録音放送になった時には、この年の4月まで本番組の直後の月曜2部パーソナリティだった上柳昌彦ADの役割で、月曜の夜に沖縄から東京のニッポン放送に帰って録音テープを届けるなど収録の手伝いに行ったことがあった[1]

また1985年8月12日は公演のため、この日は録音放送の予定だったが、この日日本航空123便墜落事故が発生し、中島側もこの日の放送をどうするか対応に追われたが、報道特別番組に切り替わったため、録音した放送はお蔵入りになった[9]。これを含め、8年の放送期間中に番組が休みになったのは2回だけだった[1]。この日は2部は通常通り生放送だったために局内にいた上柳がそのまま4時間担当して搭乗者の名前などを読み上げた。

番組終了[編集]

番組終了を発表したのは1987年2月23日。「自分は器用ではない」として、音楽とラジオ両方をやり続けるのは難しく今後は音楽活動に専念したいという理由だった[1]。同年3月30日深夜最終回の中で「いくつものことをてきぱき話せない。24時間という限られた時間を音楽に費やしたいと思った」など番組終了の理由を説明した[1]

そしてこの日は番組終了の約20分前という早めの時間にエンディングの提供クレジットが読み上げられ、残りを最後のフリートークの時間として割かれた[10]。「中島みゆきは、今夜でディスクジョッキーを中退します。これからもずっと、あなたの望んでいる通りになってとは祈れないけれども、あなたにとって一番幸せな方へ行くように祈っています。“幸”せと言う字は、“辛”いと言う字の上についているちょっぴりの点を“十”に変えると“幸”せになるんです。十分辛くて、初めて人は幸せになるんです。くじけないで頑張って下さい。じゃ、今から数えて10秒後に、私は音楽に走ります。10、9、8、7、6、5、4、3、2、1…。こんばんは、中島みゆきです。」と言うラストメッセージ[11]と、ラストナンバー『白鳥の歌が聴こえる』(アルバム『36.5℃』収録、流れたのはミックス違いのanother Mix version)で終了した。

当日、ニッポン放送局舎前には1000人を超すリスナーが全国から集まり、リスナーたちもラストナンバーを合唱して番組を見送った。番組終了後には中島が玄関前に立ってリスナーにあいさつ[12]、そして局の玄関から敷かれたレッドカーペットの上を手を振りながら静々と歩いて出迎えのリムジンに乗車し局を後にした[1]。そして、裏番組『渡辺美里のスーパーギャング』(TBSラジオ)もこの時、敬意を表しエールを送る形で中島の曲『時代』を流した[12]

パーソナリティ[編集]

放送時間[編集]

主なコーナー[編集]

初期[編集]

  • 今日も元気だ、男がうまい (1979年4月 - )
    中島が会ったり喋ったりした男性有名人たちを、リスナーの投書を交えて色々“お味見”していたコーナー。最初は世良公則&ツイスト谷村新司NSP所ジョージ松山千春の5組の話題から始まった[6]
  • 中島みゆきのでっかいどー、北海道 (1979年4月 - )
    北海道を美しく盛り立てていこうというコーナー[13]
  • 噂のみゆき(1979年4月 - )
    学校などで挙がった中島の噂話の内容などを募集していた[14]
  • ニューミュージック楽屋話 (1981年頃 - )[15]
  • 世の中無駄な物 (1981年7月 - )
  • 家族の肖像 (1981年頃 - )[15][16][注釈 4]
    家族のユニークなエピソードを紹介[1]
  • 大嫌いだ (1982年 - 1985年1月)[18]
    リスナーが不満に感じたことなどを投稿。最後は「○○なんか大っ嫌いだー」などといった台詞で締めるのが主で、この台詞のところでエコーがかかった[1]
  • わたしは知っている(1982年頃)[19]
  • 給食ですよ (1983年 - )
  • 男子禁制の部屋[20]

後期[編集]

  • 吾輩は猫である (1985年頃 - )
  • ひとり上手 (1985年頃 - )
    中島のシングル曲『ひとり上手』に掛け、“ひとり上手”だと思った自画自賛話、他人のひとり上手話などを募集[21]
  • めんねの日記 (1986年頃 - )
    謝りたい話などを募集。最後に「ごめんね」の意味で「メンネ~」と付けるのが通例だった[22]
  • 定刻の逆襲 (1986年頃 - )[23]
  • 有楽町の母 (1986年頃 - )[24]
  • ありソでなさソなもの[25]
  • 何の意味もないハガキ[26]
  • あたいのメロディー[24]
  • 思えば遠くへ来たものだ[27]

ノベルティーグッズ[編集]

ポロシャツ[編集]

月光の手鏡[編集]

  • 1984年秋の『月光の宴コンサート記念』で制作された。

みゆきのあくしゅ券[編集]

  • この券を使えば中島みゆきと握手してもらえる[28]。一部メディアでは、「このノベルティ欲しさに、番組には毎週6,000通ものハガキが送られてきた」とも言われている[1]

過去のゲスト[編集]

1979年
1980年
  • 1月28日小室等
  • 5月19日谷山浩子
  • 6月9日松任谷由実
    なぜユーミンはハンドマイクで歌うのかと言う話では「デビューした頃は女のシンガーソングライターは顔を隠すように髪が長くて、ピアノやギターを弾き語りするような影の部分を前面に出しているのが多かったが、私は華やかなのが好きなので、ハンドマイクで歌うのに抵抗は無かった」と話し、中島に「あの時歌謡曲って言われてたの?」と言われた時には「当たり前でしょう」と返した。この他話は、ユーミンの北海道公演の時に台風で機材が届かなかったときには「これは中島みゆきの怨念だ」と思ったこと、ユーミンが「バストが形良い」、フランス料理のデザート「アントルメ」の話などに及んだ[29]
  • 6月30日南こうせつ
  • 10月13日所ジョージ
1981年
1982年
1983年

1984年
1985年
1986年
  • 1月13日尾崎豊
  • 2月17日:甲斐よしひろ
    アルバム「REPEAT & FADE」のプロモートを兼ねてゲスト入り。年の女(中島)と年の男(甲斐)の関係の話などを展開[30]
  • 2月24日小泉今日子
  • 4月7日三田寛子
  • 6月2日糸井重里春風亭小朝
    コンサートツアー『五番目の季節』最終地である沖縄にて、ラジオ沖縄(JOXR)の協力の元、生放送されたが、この回は「半」生放送と言える。当時、週刊文春に連載中の「糸井重里の萬流(まんりゅう)コピー塾(家元:糸井重里、番頭:春風亭小朝)」とのコラボレーションであった。その時のお題は(糸井重里が、独身である中島みゆきに合わせて)「独身のすすめ」である。放送時間のほぼ半分を占め、オープニングのCMブレイクから数えて5回目のCMブレイク後の「ひとり上手」コーナーにて「萬流コピー塾」の部分は、糸井重里、春風亭小朝の都合により東京にて収録され、ラジオ沖縄のミキシングコンソールのテープレヴュー(逆回し)により録音放送である事を明かし「あー、話したかったー!」と嘆いていた。尚、オープニングで放送スタッフとしてニッポン放送(JOLF)のディレクターである入江たのしとアナウンサーである上柳昌彦(その時は皿回し(DJ))が沖縄入りしており、入江たのしのいじりは西表(いりおもて)たのし(浜辺で肌をこんがり焼いたと言う暗喩と思われる)、上柳昌彦のいじりは、沖縄入り恒例の手拍子である「あ、うえやなぎ! あソ~レ、うえやなぎ! よ~べば出てくるうえやなぎ!」と手拍子で囃し、本人がミキシングコンソールから「人がいなくてね、も~俺がいないと...」と口上を述べながらスタジオへ登場した。そして、中島みゆき『専属』カメラマンと認識されていた田村仁(たむら じん。通称:たむじん)、ダブル構成(通称:ポチとラスカル)、マネジャーの二人(通称:長老とししゃも)等が紹介され、「ひとり上手」のコーナーからは、打ち上げで酔っ払ったツアーメンバーがスタジオに乱入した。エンディングでは読んだハガキの計量大会が行われており、(「目方でポン」と言う気の抜けたネーミングの企画で、一週間分のパーソナリティの読んだハガキの総重量を当てると言うもの)当てたリスナーには、豪華賞品として、当時は高価であったCDプレイヤー(想定で6~8万円台の機種)を20名に進呈すると言うものである。尚、中島みゆきの回では73グラムであったが、「萬流コピー塾」で読まれたハガキの重量は加算されず、ブーイングしていた。因みにオープニングCMブレイク時の曲は、コンサートツアー『五番目の季節』で歌われていた新曲「あたいの夏休み」。エンディングの曲は、アルバム『おかえりなさい』の「この空を飛べたら」である。
  • 6月23日沢田研二
  • 7月14日杉山清貴
  • 7月28日THE ALFEE
  • 9月8日渡辺美里
    当時、裏番組の『渡辺美里のスーパーギャング』(TBS)を担当中であったが、中島が直接TBSに乗り込み、突然といった形でスーパーギャングのスタジオに入り、裏番組同士の両番組による同じ放送が実現した[1]
  • 11月10日:谷山浩子
  • 12月1日玉置浩二
  • 12月22日杉本和世
1987年

レギュラー終了後の復活[編集]

1991年[編集]

1991年10月14日に「オールナイトニッポン」25周年記念の一環として、特別に復活放送が行われた(他にも、タモリビートたけし笑福亭鶴光など)。

行われたコーナー[編集]

  • Maybe
  • 大嫌いだ
  • ひとり上手
  • めんねの日記
  • 家族の肖像

2006年[編集]

2006年12月15日には「オールナイトニッポン」40周年を記念し、15年ぶりに放送が行われた。この時は上柳(当時は平仮名の「うえやなぎまさひこ」名義)がパートナーとしてスタジオに入った。中島は2年前まで上柳と『中島みゆき ほのぼのしちゃうのね』に出演していたが、ライブドアによるニッポン放送買収騒動が勃発した際に中島が同局への出演を拒否したために、2005年以後ニッポン放送への出演が途絶えていた。

コーナーへの投稿は、アルバムララバイSINGER』に封入された専用はがきのみで受け付けられたが、約1万通の投稿が寄せられた。

オールナイトニッポンのジングルはレギュラー末期の1987年当時のものが使用された。

行われたコーナー[編集]

  • 平仮名四重奏
  • 人生の叫び「ただ○のためにだけ!!」
  • 漕ぎ手の名人
  • お水のみゆきさん ベスト10
  • 「とろ」との遭遇(ネタは募集されたが、時間が足りなくなったため放送はされなかった)

2013年[編集]

2013年2月23日27時-28時にオールナイトニッポン45時間スペシャルの一環として放送され、番組内で、重大発表が行われ、2013年4月から月1回日曜日27時-29時に「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」としてレギュラーが復活することになり、第1回は4月14日に放送[31][32]。なお、リスナーからのコーナー投稿(真夜中の告白・真夜中のつや話)は葉書で行われた[33]

スタッフ[編集]

番組書籍[編集]

  • 中島みゆきオールナイトニッポン 編『LOVE』扶桑社、1987年5月29日。ISBN 9784893531360 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 番組本「LOVE」207ページにもこの旨の記述あり
  2. ^ 中島の『ANN』のすぐ後枠の番組である『ANN』月曜第二部を務めた上柳昌彦は後年、「恐らくみゆきさんは、『私はあなた(リスナー)のハガキをちゃんと手に持っています』ということを伝えるために音をさせたのだと思います。彼女はファンの心をつかむ天才。僕も番組(月曜第二部)ですぐ真似しました」と回想している[1]
  3. ^ ヘビーリスナーだった朱川湊人(後に直木賞作家となった)は、当時ラジオを聞きながら「リスナーにここまで真剣に向き合うみゆきさんは、なんて誠実な人なのだろう」と感動したとのこと[1]
  4. ^ 後に『ヒルビリー・バップスのオールナイトニッポン』(金曜2部、1989年10月 - 1990年3月)にて、本番組のリスナーだったヒルビリー・バップスのメンバーの川上剛の希望でこのコーナーがリメイク放送されていたことがある。このコーナーも、テーマ曲から中島の声によるタイトルコールまで全て同じに構成されていた[17]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 週刊現代 2021年11月27日号 p.142 - 145「中島みゆきの『オールナイトニッポン』を語ろう」
  2. ^ 落合真司「中島みゆきデータブック」青弓社刊、 p.49
  3. ^ a b 番組本 1987, pp. 206–207.
  4. ^ a b 番組本 1987, p. 43.
  5. ^ 番組本 1987, p. 38.
  6. ^ a b 番組本 1987, pp. 43–44.
  7. ^ 番組本 1987, p. 133.
  8. ^ 番組本 1987, pp. 88–92.
  9. ^ 番組本 1987, pp. 210–212.
  10. ^ ラジオブロス(川野将一・著、イースト・プレス刊 2016年11月17日発行)p.25 - 35「中島みゆきのオールナイトニッポン」
  11. ^ 番組本 1987, pp. 30–31.
  12. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1987年6月号 12ページ記事。
  13. ^ 番組本 1987, pp. 45–47.
  14. ^ 番組本 1987, pp. 48–49.
  15. ^ a b ラジオライフ』第2巻第2号、三才ブックス、1981年3月1日、68頁。 
  16. ^ 番組本 1987, pp. 218–223.
  17. ^ ラジオパラダイス 1990年1月号 特集「ロッカーの本音はラジオで聞け!!'90」p.15『ヒルビリー・バップスのオールナイトニッポン』のページ
  18. ^ 番組本 1987, pp. 12, 224–229.
  19. ^ 番組本 1987, pp. 157–160.
  20. ^ 番組本 1987, p. 110.
  21. ^ 番組本 1987, pp. 11, 109, 230–235.
  22. ^ 番組本 1987, pp. 60–61.
  23. ^ 番組本 1987, p. 8.
  24. ^ a b 番組本 1987, p. 100.
  25. ^ 番組本 1987, p. 9.
  26. ^ 番組本 1987, pp. 20, 100.
  27. ^ 番組本 1987, pp. 236–239.
  28. ^ 番組本 1987, pp. 41–43.
  29. ^ 番組本 1987, pp. 65–76.
  30. ^ 番組本 1987, pp. 163–179.
  31. ^ ニッポン放送広報室公式ツイッター、2013年2月24日発信
  32. ^ 中島みゆきスタッフ公式ツイッター、2013年2月24日発信
  33. ^ 中島みゆき公式サイトより
  34. ^ a b 番組本 1987, p. 160.
  35. ^ 番組本 1987, p. 92.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

月曜1部
前担当
中島みゆきのオールナイトニッポン
月曜 25:00 - 27:00
次担当
1983年オールナイトニッポンパーソナリティ
曜日 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
月曜 中島みゆき
火曜 坂崎幸之助 高橋幸宏
水曜 タモリ 野村義男
木曜 ビートたけし
金曜 山口良一
土曜 笑福亭鶴光
1984年オールナイトニッポンパーソナリティ
曜日 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
月曜 中島みゆき
火曜 桑田佳祐
水曜 野村義男 THE ALFEE
木曜 ビートたけし
金曜 山口良一
土曜 笑福亭鶴光
1985年オールナイトニッポンパーソナリティ
曜日 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
月曜 中島みゆき
火曜 桑田佳祐 とんねるず
水曜 THE ALFEE 小峯隆生
木曜 ビートたけし
金曜 山口良一 サンプラザ中野
土曜 笑福亭鶴光 ABブラザーズ