下町
下町(したまち)は、市街地の一部を区分して言う言葉で、複数の意味を有する。
概要
通常は下の二つの意味を同時に持つ言葉として用いられる。
地形的特性としての下町
第一の語義には地形的な特徴によって区分した「下町」があげられ、市街地中の海や川に近い低地の部分を示す。
この意味での下町は、東京では、山の手(武蔵野台地東端部分)の周辺をなす崖線より下側の地域がこれにあたる。大阪では、舌状に伸びる上町台地の西麓や大川北岸の地域がこれにあたる。江戸=東京についてはこの意味の下町と対をなす言葉は山の手であるが、通常は「山側」を意味する山手が対語となる。
大阪については下町という言い方はあまり用いられず、船場、島之内、堀江、下船場、中之島、堂島、天満など、川や堀で区切られたブロック毎の固有名称が一般的で、下町の対語となる上町(うえまち)がよく用いられる。
社会的特性としての下町
江戸のような都市では、軍事上の有利性から軍事拠点となる大名屋敷、大身旗本屋敷、大寺院は幕府の近くの台地におかれることもあった。また、水運の便の良かった川沿城下町、陣屋町などにも見られる。
大阪の地理的高低差は、江戸のような社会的棲み分けとの関連性は弱く、市街地の時間的変遷との関連性が強い。
東京における下町
東京旧市街地、城下町
東京では、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)で、高台の地域を「山の手」と呼び、低地にある町を「下町」と呼称されたという。東京における下町の代表的な地域は日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川であるが、「山の手」のイメージで語られがちな旧小石川区や旧牛込区、旧芝区にも下町地域は存在する。
徳川家康は江戸城入城後、台地に屋敷を造ったのち、低湿地帯を埋め立てて職人町等を造ることにし、平川の河口から江戸城に通じる道三堀を造ったのを手始めに、掘割が縦横に走る市街地の下町を造成していった。芝居小屋や遊郭などの遊び場も栄え、江戸文化が花咲いた。[1]
東京の下町は運河や小河川が縦横にあり、橋を渡らないと隣町に行けないところという見解がある。この地域には道路や川を越した先を「むこうがし(向こう河岸)」という表現がある。
今日では地名を整理統合する動きが進行しており、「下町」「山の手」の区分が不明瞭になっている。
東京郊外部、その他
東京23区郊外部で「新市街(町)」という意味合いで「下町」と言われる例もある。歴史的に旧東京市の外側に含まれる葛飾区の柴又、他に大田区や品川区の海や川沿いなどである。山手に属するエリアでも古い街区をよく残すエリアを下町に含めて考えることもある。そのため混在していて厳密には区別出来ない場所も多々存在する。
大阪における下町
豊臣時代は武家地、町人地とも上町(うえまち)を中心に展開しており、下町は開発途上であった。徳川時代に入って下町の開発が進み、町人地の中心が上述の下町、とりわけ船場へ移ったが、上町にも上本町、谷町などの町人地が残った。武家地については、大坂城代や大坂町奉行の屋敷地は基本的に城内および上町に置かれたが、一部は天満の北縁や川口といった下町に置かれ、天下の台所と称された都市の性格上、各藩の大名屋敷(蔵屋敷)はもっぱら堂島や中之島といった水運に利する下町に置かれた。
大阪においても下町のイメージがよく用いられる新世界、天下茶屋、天王寺や駒川の駒川商店街といった地域はもともとの大阪市域ではない。また、玉造、空堀商店街界隈、寺町群といった天王寺区域は上町台地上に位置している。今日的な下町のイメージのうち本来の下町である地域は天満の天神橋筋商店街界隈ぐらいである。
外国における下町
ダウンタウン(英:downtown)は都心、中心街、繁華街を指す言葉である。単語の成立に際し地形的な上下が影響した点を除き(ただしdowntownの場合は高低ではなく南北、en:Downtownを参照)、日本語の下町との関連性はない。対義語はアップタウン。
下町文学
独特の気質や美意識を持つ下町は、多くの文学者に愛され、下町を描いた近代文学作品は数多い。代表的な作家に、幸田露伴、久保田万太郎、舟橋聖一、円地文子、永井龍男、芝木好子、田久保英夫、吉村昭、川口松太郎、池波正太郎、長谷川時雨、樋口一葉、永井荷風、安岡章太郎、泉鏡花、川端康成、江戸川乱歩、佐多稲子らがいる[1][2]。また、西洋的な視座から隅田川河岸の江戸趣味を楽しむ文人の集まり、「パンの会」も一時結成された[2]。
舞台にした作品
※発表順
脚注
- ^ a b 「東京と文学(1)-近代化過程における相互の関連について-」高木利夫法政大学教養部紀要、1994-2
- ^ a b 東京と文学(2) -近代化過程における相互の関連について- 高木利夫法政大学教養部紀要、1995-2