三都主アレサンドロ

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三都主 アレサンドロ
名前
本名 (ブラジル名、帰化前名)アレサンドロ・ドス・サントス[1]
愛称 アレックス、アレ
カタカナ サントス アレサンドロ
ラテン文字 SANTOS Alessandro
ポルトガル語 Alessandro dos Santos
基本情報
国籍 日本の旗 日本
ブラジルの旗 ブラジル(二重国籍[2]
生年月日 (1977-07-20) 1977年7月20日(46歳)[1]
出身地 ブラジルの旗 ブラジル
パラナ州の旗 パラナ州マリンガ[3]
身長 178 cm
体重 69 kg
選手情報
在籍チーム ブラジルの旗 パラナ・サッカー・テクニカル・センター
ポジション MFDF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2003 日本の旗 清水エスパルス 198 (56)
2004-2009 日本の旗 浦和レッズ 100 (11)
2007 オーストリアの旗 レッドブル・ザルツブルク (loan) 20 (1)
2009-2012 日本の旗 名古屋グランパス 55 (0)
2013 日本の旗 栃木SC 25 (2)
2014 日本の旗 FC岐阜 18 (2)
2015 ブラジルの旗 マリンガ 4 (1)
2015 ブラジルの旗 グレミオ・マリンガ
2016- ブラジルの旗 PSTC
代表歴
2002-2006

日本の旗 日本

[4]
82 (7)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年1月1日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、Santos Alessandro, 1977年7月20日[1] - )は、ブラジルパラナ州マリンガ出身[3]サッカー選手[2]。元日本代表でキャップ数82[2]は歴代6位。2001年11月12日、日本国に帰化[1]現在はブラジルと二重国籍[2]。帰化以前の本名はアレサンドロ・ドス・サントス (Alessandro dos Santos) 、当時の登録名アレックス (Alex) 。

利き足は左。ポジションは左ウィングバック攻撃的MFとしての出場のほか、清水在籍時にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場した。

16歳のときにサッカー留学生として日本の明徳義塾高校に入学し、1997年に清水エスパルス入り。1999年に史上最年少の22歳でJリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。2004年に浦和レッズに移籍。2007年にはオーストリアのレッドブル・ザルツブルクでもプレーした。2008年に浦和に復帰後、2009年8月に名古屋グランパスに移籍。2013年からはJ2のFC岐阜栃木SCにそれぞれ1年ずつ在籍。2015年にブラジルへ戻りマリンガFCグレミオ・マリンガでプレーした。

2001年に日本国籍取得後、2002年から2006年までサッカー日本代表に招集されて82試合出場7得点。FIFAワールドカップに2回(2002年日韓大会2006年ドイツ大会)出場、2004年アジアカップに優勝した。

来歴

生い立ち

ブラジルパラナ州マリンガ[3]にてプロサッカー選手ウイルソン・ドス・サントスの長男アレサンドロ・ドス・サントスとして生まれる[3]。10歳から父親も在籍したグレミオ・マリンガの少年チームで育ち[5]、16歳のときには既にプロデビューを果たす[6]。1998年8月[7]、留学生獲得のためブラジルを訪れていた明徳義塾高校サッカー部の北村保夫部長とジョゼ・カルロス監督に練習試合でのプレーを高く評価され、1994年6月に明徳義塾高校に入学[6]。同校には三都主を含め4名の留学生が一緒に入学した[8][6]。高校時代は一度も県予選を突破できず全国大会には無縁だった[6]ため、ほとんど無名の存在だった。ポジションはブラジル時代はディフェンダー(センターバック[6])だったが、明徳在学中に徐々に前の方へと移っていった[6]

清水エスパルス

明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団[2]、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。「アレックス」という登録名は当時の清水の監督オズワルド・アルディレスによって付けられた[9]

入団当時、清水にはサントスオリバマーク・ボウエンと3人の外国籍選手がおり、三都主は第4の選手とみなされていた[9]。しかし他の選手に故障が相次いだこともあり[9]1年目からリーグ戦27試合に出場した。体力不足もあって1年目のリーグ戦フル出場は1試合のみにとどまった[9]。1997年5月28日の1stステージ第11節アビスパ福岡戦では、自陣からドリブルで約70メートルを突破して初ゴールを決めた[9]

清水加入当初は色々なポジションで起用されていたが、1999年に左アウトサイドに定着[10]。清水はこの年に2ndステージで優勝、また年間勝ち点では2位以下に大きく差を付けて1位となった。この年に大きくブレイクした三都主は清水躍進の原動力となり[10][11]、史上最年少の22歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞した。1999年12月11日に行われたジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では、相手選手を蹴りつけて35分に退場を命じられた[12][13]。チームは奮闘したものの最終的にPK戦で磐田に敗れた。清水の監督スティーブ・ペリマンは「11人で戦っていれば勝っていた」と試合後に振り返った[13][12]

また、アジアカップウィナーズカップ1999-2000第81回天皇杯優勝にも貢献した。セレッソ大阪との天皇杯決勝で三都主は1得点1アシストし、3-2の勝利に貢献した[9][14]。2001年9月3日に開催されたJOMO CUPでは、ワールド・ドリームス(外国籍選手選抜)のキャプテンマークを巻いた[9]。清水在籍最終シーズンとなった2003年にはチームキャプテンを務めた[15][11]

2000年シーズン終了後にはギリシャのパナシナイコスFCからオファーを受けていたが、契約には至らなかった[16]

2002年8月、プレミアリーグチャールトンに移籍金350万ドル(約4億2000万円[17]。または4億5000万円[18])、5年契約[17]で加入合意が伝えられたが[18]、イギリス政府から労働許可証が発行されなかったため白紙になった[19][20]

浦和レッズ

2004年1月、清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに完全移籍[11]。移籍金は1997年に横浜フリューゲルスからヴェルディ川崎に移籍した前園真聖を超えて、当時の国内最高額となる推定3億8000万円[11](または3億5000万円)[21]だった。

浦和では2004年のJ1 2ndステージ2006年のJ12005年度2006年度天皇杯に優勝した。

ザルツブルク

2007年1月30日から1年間、浦和からの期限付き移籍によりオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクでプレーした[22]。ザルツブルクでは加入した2006-07シーズンにリーグ優勝を経験。2007-08シーズン前半まで在籍し、リーグ戦通算11試合に出場した。移籍時には完全移籍や契約延長のオプション契約も含まれていたが、ザルツブルク側はそれらを行使しなかった[23]

浦和復帰

2008年1月、期限付き移籍期間満了により浦和レッドダイヤモンズに復帰[24]。2008年Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う[25]。第14節の柏レイソル戦にて復帰するが、出場わずか15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け[26]、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。

2009年、浦和の新監督にフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減。先発出場は8月までに2試合のみ[27]にとどまっていた。

名古屋グランパス

ドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け、2009年8月3日に名古屋グランパスへの完全移籍が発表された[28]。8月15日の川崎フロンターレ戦に左サイドバックとしてフル出場したのが名古屋でのデビュー戦となった[29]。名古屋では左サイドやセントラルのミッドフィールダーとしても出場[30]

名古屋がJ1リーグで優勝した2010年シーズンは、左サイドバックおよびアンカーをこなす貴重なバックアッパーとして25試合(先発は11試合)に起用された[31]

2012年シーズンをもって契約満了となり、クラブを退団した。

近年

2012年12月には合同トライアウトに参加[32][33]。2013年1月にJ2の栃木SCに完全移籍で加入[34]。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した[35]

2014年、J2のFC岐阜に完全移籍[36]。18試合に出場し2得点を挙げたが、2015年1月、契約満了による退団が発表された[37]

2015年2月、日本を離れて地元ブラジルのパラナ州選手権1部[38]マリンガFCへ移籍[39]。妻や子供をつれてブラジルの両親の元に戻り、日本での生活に終止符をうった。同年3月29日に行われたJ・マルセーリ・フチボウ戦で移籍後初ゴールを挙げた[40]。同クラブでは6月までプレーした[38]

2015年8月に古巣であるパラナ州選手権3部のグレミオ・マリンガ加入が発表され[41][42]、同年10月まで3ヶ月間プレーした[38]

日本代表

2001年11月に日本への帰化申請が認められると[6]フィリップ・トルシエによって日本代表に招集され、2002年3月のウクライナとの親善試合で代表デビューを果たす[6]2002 FIFAワールドカップの日本代表にも選出された[2]。同大会のグループリーグでは出番がなかったが、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦で先発出場。42分に「蹴った瞬間、『入った!』と思った」[43]というクロスバー直撃のフリーキックを放った[6]。前半終了後に交代させられたため、2002年大会は45分間の出場にとどまった[6]

2002年W杯後に就任したジーコからも招集され続けたが、当初は中村俊輔ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表がアルゼンチンに0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった服部年宏がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢[要出典]。レギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、2006年W杯の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)は「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか。左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と攻撃面を評価した[44]

2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。最終的には当時歴代4位となる82まで代表キャップ数を伸ばした[6]

人物

2001年3月に日本への帰化を申請[43]、2001年11月12日に帰化申請が認められ[1]、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している[45]

2003年12月に日本人と結婚。2005年9月に第1子(長男)誕生。

父親のウイルソンは主に右サイドバック[46][3]またはセンターバック[5][46]の選手として、グレミオ・マリンガゴイアスなど6つのクラブで14年間プレーし[3]、1977年にはグレミオ・マリンガでパラナ州選手権優勝の経験もある[47][3]。1983年に引退した後は繊維工場で運転手として働いた[48]

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 清水 23 J 27 3 2 1 3 0 32 4
1998 17 26 10 5 0 5 2 36 12
1999 8 J1 30 11 4 0 1 0 35 11
2000 30 4 5 0 5 4 40 8
2001 30 12 2 1 5 1 37 14
2002 29 9 2 2 3 0 34 11
2003 26 7 4 0 4 0 34 7
2004 浦和 16 27 2 1 0 2 1 30 3
2005 8 32 4 5 0 5 0 42 4
2006 34 5 0 0 1 0 35 5
オーストリア リーグ戦 リーグ杯オーストリア杯 期間通算
2006-07 ザルツブルク 8 ブンデス 9 0 - - 9 0
2007-08 11 1 - - 11 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2008 浦和 8 J1 1 0 0 0 0 0 1 0
2009 6 0 4 0 - 10 0
名古屋 38 14 0 - 6 1 20 1
2010 25 0 1 0 3 1 29 1
2011 11 0 1 0 5 0 17 0
2012 5 0 0 0 2 0 7 0
2013 栃木 44 J2 25 2 - 2 0 27 2
2014 岐阜 11 18 2 - 0 0 18 2
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2015 マリンガ パラナ州選手権1部
通算 日本 J1 353 67 36 4 50 10 439 81
日本 J2 43 4 - 2 0 45 4
オーストリア ブンデス 20 1 - - 20 1
ブラジル パラナ州選手権1部
総通算 416 72 36 4 52 10 504 86

その他の公式戦

  • 1999年
  • 2001年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2002年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2004年
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
  • 2006年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2002-03 清水 8 5 3
2009 名古屋 38 4 0
2011 3 0
2012 2 0
通算 AFC 17 3

その他の国際公式戦

チームタイトル

日本の旗 清水エスパルス
  • Jリーグ セカンドステージ 優勝:1999
  • 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2001
  • ゼロックススーパーカップ 優勝:2001
  • アジアカップウィナーズカップ 優勝:1999-2000
日本の旗 浦和レッズ
  • Jリーグ セカンドステージ 優勝:2004
  • Jリーグ ディビジョン1 優勝:2006
  • 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2005, 2006
オーストリアの旗 レッドブル・ザルツブルク
日本の旗 名古屋グランパス
  • Jリーグ ディビジョン1 優勝:2010

個人タイトル

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 82試合 7得点 (2002-2006)[4]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2002 9 1
2003 15 1
2004 22 2
2005 17 1
2006 19 2
通算 82 7

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2002年5月2日 日本神戸市 ホンジュラスの旗 ホンジュラス △ 3-3 キリンカップサッカー2002
2. 2003年12月7日 日本、さいたま市 香港の旗 香港 ○ 1-0 東アジアサッカー選手権2003
3. 2004年2月12日 日本、東京 イラクの旗 イラク ○ 2-0 親善試合
4. 2004年5月30日 イングランドマンチェスター アイスランドの旗 アイスランド ○ 3-2 親善試合
5. 2005年1月29日 日本、横浜市 カザフスタンの旗 カザフスタン ○ 4-0 キリンチャレンジカップ2005
6. 2006年8月9日 日本、東京 トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ ○ 2-0 キリンチャレンジカップ2006
7.

CM出演

関連書籍

  • 褐色のドリブラー 三都主物語 (著・北村保夫、2002年4月)
  • フォルツァ!アレックス (著・竹澤哲、2002年8月、文春ネスコ)

脚注

  1. ^ a b c d e 2001年(平成13年)法務省告示第527号「日本国に帰化を許可する件」
  2. ^ a b c d e f 朝日新聞 GLOBE『揺らぐ国籍』G-5ページ、2014年7月6日
    和気真也 (2014年7月6日). “[Part1]「だから僕は帰化した」/三都主アレサンドロ”. 朝日新聞 GLOBE. 朝日新聞社. 2015年12月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)
  4. ^ a b “三都主 アレサンドロ”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_sa/alessandro_santos.html 
  5. ^ a b 「三都主、現地独占取材②」『週刊サッカーマガジン』、2002年2月6日号 No.851、ベースボール・マガジン社、10-13頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 加部究「海を越えてきたフットボーラー 第42回 三都主アレサンドロ」
  7. ^ 竹澤 2002, p. 28.
  8. ^ 竹澤 2002, p. 33.
  9. ^ a b c d e f g 「ニッポンの希望/アレックスの現在・過去・未来」『週刊サッカーマガジン』、2001年9月19日号 No.831、ベースボール・マガジン社、6-9頁。
  10. ^ a b 「三都主アレサンドロ(日本代表)」『週刊サッカーマガジン』、2002年5月22日号 No.866、ベースボール・マガジン社、106頁。
  11. ^ a b c d 「左サイドの待ち人はアレックス/浦和」『週刊サッカーマガジン』、2004年2月10日号 No.959、ベースボール・マガジン社、100-101頁。
  12. ^ a b PK戦、磐田に女神 1999年 Jリーグ・チャンピオンシップ第2戦”. 朝日新聞 (1999年12月12日). 2015年12月12日閲覧。
  13. ^ a b 「アレックス/5年越しのリベンジへ」『週刊サッカーマガジン』、2004年12月14日号 No.1003、ベースボール・マガジン社、13頁。
  14. ^ 「現地独占取材①三都主インタビュー/日本にはアレックスがいる」『週刊サッカーマガジン』、2002年1月30日号 No.850、ベースボール・マガジン社、6-13頁。
  15. ^ 2015シーズン キャプテン・副キャプテン決定のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年1月26日). 2015年9月30日閲覧。
  16. ^ 「アレックス、プレミア上陸!」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月4日号 No.886、ベースボール・マガジン社、6-13頁。
  17. ^ a b 「連載「高野の7人プラス1」最新REPORT 完全移籍は実力で/アレックス(チャールトン)」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月11日号 No.887、ベースボール・マガジン社、97-99頁。
  18. ^ a b 三都主の移籍が決定 プレミアのチャールトン”. 47NEWS (2002年8月22日). 2014年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月28日閲覧。
  19. ^ 「2003右肩上がりの30人 foot06 アレックス」『週刊サッカーマガジン』、2003年1月22日号 No.905、ベースボール・マガジン社、16頁。
  20. ^ 三都主の移籍が白紙に 英当局、労働許可出さず”. 47NEWS (2002年8月28日). 2013年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月28日閲覧。
  21. ^ 三都主、最高額で浦和入り 安貞桓は横浜Mへ”. 47NEWS (2004年1月19日). 2013年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
  22. ^ 三都主アレサンドロ、レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)に期限付き移籍のお知らせ”. 浦和レッドダイヤモンズ (2006年12月21日). 2015年9月30日閲覧。
  23. ^ 三都主、浦和復帰が決定的に”. ゲキサカ (2007年10月30日). 2015年9月30日閲覧。
  24. ^ 三都主アレサンドロ、期限付き移籍から復帰”. 浦和レッドダイヤモンズ (2008年1月31日). 2015年9月30日閲覧。
  25. ^ 浦和三都主が左足けん断裂でJ前半戦絶望”. nikkansports.com (2008年3月5日). 2015年9月30日閲覧。
  26. ^ 三都主今季絶望、左太もも全治6カ月”. nikkansports.com (2008年7月2日). 2015年9月30日閲覧。
  27. ^ 三都主が涙の別れ。フィンケ監督にはリベンジ宣言も”. ゲキサカ (2009年8月5日). 2015年9月30日閲覧。
  28. ^ 名古屋が三都主の完全移籍を発表”. nikkansports.com (2008年8月3日). 2015年9月30日閲覧。
  29. ^ 三都主の名古屋デビュー戦は黒星/J1”. nikkansports.com (2009年8月15日). 2015年9月30日閲覧。
  30. ^ 『Jリーグ2009シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2009年、75頁。
  31. ^ 『Jリーグ2010シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2010年、14頁。
  32. ^ 三都主、J2栃木入り決定的”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2013年1月10日). 2015年12月13日閲覧。
  33. ^ 三都主、福田ら84選手がJリーグトライアウトに参加”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2012年12月11日). 2015年12月13日閲覧。
  34. ^ 三都主アレサンドロ選手  完全移籍加入のお知らせ”. 栃木SC公式サイト (2013年1月11日). 2013年1月11日閲覧。
  35. ^ 三都主アレサンドロ選手 契約満了お知らせ”. 栃木SC公式サイト (2013年12月13日). 2013年1月11日閲覧。
  36. ^ 三都主アレサンドロ選手、栃木SCより完全移籍加入のお知らせ”. FC岐阜公式サイト (2014年1月15日). 2014年1月15日閲覧。
  37. ^ 契約満了選手のお知らせ”. FC岐阜公式サイト (2015年1月11日). 2015年1月11日閲覧。
  38. ^ a b c 柴田真宏 (2015年12月8日). “(@マリンガ)三都主選手に聞く、ブラジルと日本の違い”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2015年12月13日閲覧。
  39. ^ 元日本代表MF三都主が故郷ブラジルのマリンガへ”. フットボールチャンネル (2015年2月23日). 2015年2月23日閲覧。
  40. ^ Maringá FC vence mais uma e enfrenta o Londrina nas quartas do Paranaense”. マリンガFC 公式HP (2015年3月29日). 2015年3月29日閲覧。
  41. ^ Grêmio Maringá anuncia o meia Alex Santos como reforço para o estadual”. Grêmio Maringá (2015年8月27日). 2015年12月13日閲覧。
  42. ^ Grêmio Maringá anuncia Alex Santos -”. Redação em Campo (2015年8月27日). 2015年12月13日閲覧。
  43. ^ a b 沢田啓明、サッカーダイジェストweb
  44. ^ 三都主、左サイドバック…オシム監督常識覆す「W杯で一番いいDF」 スポーツ報知[リンク切れ]アーカイブ 2006年11月14日 - ウェイバックマシン
  45. ^ 三都主アレサンドロ/名古屋グランパス(1/3)”. OCNスポーツ. 2013年9月21日閲覧。アーカイブ 2010年4月9日 - ウェイバックマシン
  46. ^ a b 竹澤 2002, p. 12.
  47. ^ 竹澤 2002, p. 13.
  48. ^ 竹澤 2002, p. 15.

参考文献

関連項目