三田市
さんだし 三田市 | |||
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国 | 日本 | ||
地方 | 近畿地方 | ||
都道府県 | 兵庫県 | ||
市町村コード | 28219-7 | ||
法人番号 | 8000020282197 | ||
面積 |
210.32km2 | ||
総人口 |
105,257人 [編集] (推計人口、2024年3月1日) | ||
人口密度 | 500人/km2 | ||
隣接自治体 |
神戸市、宝塚市、三木市、加東市、 篠山市、川辺郡猪名川町 | ||
市の木 | アカマツ | ||
市の花 | サツキ | ||
マスコット | キッピー | ||
三田市役所 | |||
市長 | 田村克也 | ||
所在地 |
〒669-1595 兵庫県三田市三輪二丁目1番1号 北緯34度53分22.4秒 東経135度13分31.4秒 / 北緯34.889556度 東経135.225389度座標: 北緯34度53分22.4秒 東経135度13分31.4秒 / 北緯34.889556度 東経135.225389度 | ||
外部リンク | 三田市ホームページ | ||
ウィキプロジェクト |
三田市(さんだし)は、兵庫県の市。本項では市制前の名称である三田町(さんだちょう)についても述べる。
概要
- 1958年に単独市制した阪神間で豊かな自然が残っている田園都市で三田城の城下町であり、旧摂津国が旧丹波国・旧播磨国と国境を接していた阪神地域の北側に位置している。神戸市や宝塚市などに隣接し、神戸牛の放牧場や農業地帯であったが、JR福知山線の複線電化や、阪神間のベッドタウンとして北摂ニュータウンが開発されたことにともない、1987年から1996年にかけて人口増加率日本一になるほど人口が急増したが、今は落ち着いている。[1][2]。
地理
兵庫県南東部、六甲山地の北側に位置する。かつては田園風景の広がる典型的な農村の様相を呈していたが、1980年代からの大規模住宅団地の開発と、JR福知山線の複線電化の利便性向上により大阪・神戸の衛星都市として急激な発展を遂げた。どちらかといえば大阪市との結びつきが強い。今日では農村と都市の二つの顔を併せ持つ田園都市となっている。瀬戸内海式気候に属すると言われるが、内陸部に位置するため気温の寒暖差は比較的大きい。市内に標高最高地点はは峰山の697m、最低標高地点は116mであり、市内の北部や東部は山岳地帯である。
山
- 有馬富士 374m
- 羽束山 528m
- 大船山 653m
- 虚空蔵山 592m
- 三国ヶ岳 648m
- 愛宕山 648m
- 千丈寺山 589m
- 峰山697m、
- 扶美ヶ岳 666m
- 峯ヶ岳 659m
- 愛宕山 648m
- 昼ヶ岳 595m
- 奥山 580m
- 烏ヶ岳 528m
河川・湖沼
人口
- 1958年10月1日に市制施行時に初めて統計を取った時の人口は32673人であり、兵庫県での市で一番人口が少ない自治体であった。市制施行後も人口は横ばいであり、1985年10月1日の調査まで3万人台で推移していた。しかし、大阪のベッドタウンとして、北摂三田ニュータウン開発が始まったことにより、人口が急激に増加し、1985年に4万人、1990年に6万人、1991年に7万人、1993年に8万人、1996年には10万人を突破し、右肩上がりに急激に増加し、兵庫県はおろか10年連続日本一の人口増加率を記録した[4]。1999年10月1日の調査では11万395人になったが、その後は人口増加率が緩やかになり、現在では11万4000人前後で推移している[4]。2004年に人口が増加から減少に転じたが、2008年からは増加に再び転じピークを迎えた。現在は人口が約11万5000人になり、その後は微減している[4]。また、ニュータウン内に市内の人口の半分以上が居住している[5][6][7]。
- 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.57%増の114,220人であり、増減率は県下41市町中8位、49行政区域中12位。
三田市(に相当する地域)の人口の推移 | |||
総務省統計局 国勢調査より |
面積
気象
三田の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 7.6 (45.7) |
8.3 (46.9) |
12.1 (53.8) |
18.6 (65.5) |
23.1 (73.6) |
26.4 (79.5) |
30.0 (86) |
31.6 (88.9) |
27.2 (81) |
21.4 (70.5) |
15.7 (60.3) |
10.3 (50.5) |
19.4 (66.9) |
平均最低気温 °C (°F) | −2.4 (27.7) |
−2.0 (28.4) |
0.9 (33.6) |
5.9 (42.6) |
11.2 (52.2) |
16.8 (62.2) |
21.3 (70.3) |
22.0 (71.6) |
17.8 (64) |
10.5 (50.9) |
4.2 (39.6) |
−0.6 (30.9) |
8.8 (47.8) |
降水量 mm (inch) | 39.4 (1.551) |
54.8 (2.157) |
96.8 (3.811) |
99.5 (3.917) |
136.9 (5.39) |
176.4 (6.945) |
155.1 (6.106) |
114.3 (4.5) |
150.9 (5.941) |
109.1 (4.295) |
67.1 (2.642) |
39.6 (1.559) |
1,239.9 (48.815) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 5.9 | 6.9 | 10.7 | 9.6 | 10.6 | 11.4 | 10.8 | 8.0 | 10.3 | 8.6 | 6.8 | 6.1 | 105.8 |
平均月間日照時間 | 125.4 | 120.2 | 145.4 | 173.3 | 170.3 | 136.1 | 148.6 | 189.9 | 144.2 | 158.6 | 140.4 | 135.5 | 1,781.5 |
出典:気象庁 |
広袤
国土地理院地理情報 によると三田市の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは19.3 km、南北の長さは17.8kmである[1][3]。 隣接している自治体・行政区大阪市への通勤率は13.8%、神戸市への通勤率は12.3%である(いずれも平成22年国勢調査)。 歴史古代三田盆地は旧石器時代から、人々が暮らした痕跡がある。2万5千年前の遺跡である広野地区の溝口遺跡からはナイフ形石器、石鏃などが発掘されている。ニュータウン開発で発見されたけやき台の有鼻遺跡や平方遺跡は弥生時代中期の遺跡で、ここからは畿内最古の鉄剣や鉄斧などの鉄器類や竪穴式住居跡などが発掘されている。古墳時代には武庫川と青野川が合流する流域は須恵器の産地となっていたようで、本庄地区の東仲古墳 、沢山1号墳など石室を持った古墳とともに須恵器の窯跡が発掘されており、「末(すえ)」という地名は今も残っている。これは三田市の北西に隣接する篠山市今田地区で生産されている立杭焼(丹波焼)の起源の一つと考えられている。また、青野川とともに青野ダムを形成する黒川沿いの小野地区にある伊勢貝遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての集落の遺構が発掘される複合遺跡である。このように市域には時代ごとに遺跡や古墳が多くあり、古代から連綿と人々の暮らしが続いていることがわかる。 中世現在の市街地エリアに町が形成されたのは7・8世紀頃からと考えられる。三田地区・三輪地区一帯は7世紀以前から日本最古の神社と言われる大和国一ノ宮である大神神社の荘園となっており、大和国城上郡の松山氏が荘官として管理し通称「松山の庄」と呼ばれていた。668年(天智天皇7年)に金心寺が建立されると武庫川より南西部に門前町が形成され、金心寺周辺を三田と呼ぶようになる。この「三田」という地名に関しては、金心寺の弥勒菩薩坐像の胎内から「当地一帯を松山の庄と号す。 これを金心寺三福田により三田と改む」という文字が見つかっており、そこに由来するといわれている。この三福田とは、「敬田(人を敬う心の田)」「恩田(恩を忘れない心の田)」「悲田(困っている人を助ける心の田)」のことといわれる。 北東部の三輪地区はその後も大神神社の荘園であったが、14世紀の松山彈正が荘官の時、荘園制度が崩れ武装の必要性が生じ、有馬郡の三輪明神信仰の聖地となっていた丸山に城を築くと同時に三輪神社の社殿を奉納する。これにより三輪地区でも門前町を形成していき、武庫川を挟んで金心寺と三輪神社の門前町が融合する形で有馬郡の中心地へと発展していく。 平安時代から鎌倉時代にかけて市域の各地には多くの荘園が作られ、地頭である豪族が桑原城、貴志城、大原城などの小さな山城を築いて統治していた。このように三田市にはいろいろな歴史が刻まれている 三田藩室町時代に播磨国守護だった赤松則村(円心)の四男・赤松氏範が有馬郡を領有し三田城(車瀬城)を築城する。その後も赤松氏を出自とする摂津有馬氏が領有していたが、戦国時代に織田信長の家臣だった荒木村重が摂津国を平定すると丹波国攻略のために三田を城下町として整備する。荒木村重が謀反を起こし織田信長に討たれると(有岡城の戦い)、信長の家臣・山崎堅家が近江国から2万3千石で入封したことで三田藩が成立する。江戸時代には志摩国鳥羽藩から九鬼久隆が3万6千石で入封し、廃藩置県までの約240年間、九鬼氏が三田藩を統治した。 なお、北部の高平地区は多田源氏の所領として多田荘に属し、江戸時代は現在の大阪府豊中市に本拠を置いていた麻田藩の青木氏1万2千石の所領で、1896年(明治29年)に有馬郡に移管されるまで川辺郡に属していた。 近代
現代
行政区画の変遷
行政歴代市長
立法市議会
※2015年(平成27年)10月23日現在。 兵庫県議会(三田市選挙区)
地域町名・大字名
但し、郵便番号669-1536は大字なしに付く [16] 文化施設
医療施設
経済団体経済産業
市内の主な企業
市内の主な商業施設
姉妹都市・提携都市日本国内 日本国外 教育大学
短期大学高等学校中学校
小学校
特別支援学校交通鉄道市の代表駅として中心的な役割を担っているのは、三田駅(西日本旅客鉄道・神戸電鉄)である。
バス優等路線としては、市の中心部や住宅地と新神戸駅・神戸三宮・神戸空港を高速道路経由で結ぶ特急三ノ宮線があり、神戸方面も短時間で結ばれている。朝ラッシュ時は10分間隔で運行されており、JR線や神戸電鉄線と競合関係にある。 道路
北摂三田ニュータウン三田市は1980年代からの北摂三田ニュータウン(フラワータウン・ウッディタウン・カルチャータウン・北摂三田テクノパークの4団地で構成)開発を軸に発展してきた。これらの都市開発は多摩や千里の問題点を改善して計画され、事業に長期間かけたのが特長である。開発面積の合計は1,200haにも及ぶ。さらに、これらの開発が呼び水となり市内では民間主導の開発が活発化した。ゴルフ場跡地やニュータウン近隣の山林造成などで宅地を開発するとともに、ニュータウンにならい○○タウンと称して分譲され、三田市が1988年から1997年まで10年連続で人口増加率日本一となる一因ともなった。2006年11月時点のニュータウンの人口は三田市人口のほぼ半数にあたる56,521人。2010年11月現在では58,721人となっている。 なお、北摂三田ニュータウンの既設4団地と、神戸市域の藤原台地区および北神戸第1〜3地区(神戸リサーチパーク)の4団地を足した計8団地は、総面積2,000haにおよぶ神戸三田国際公園都市と称される。 市内の主なニュータウン名所・旧跡・観光スポット
祭事・催事出身有名人
備考郵便番号は以下の通りである。
兵庫県の「三田」市と東京都の「三田」東京都港区には同じ漢字で三田(みた)と言う地名があるので、注意が必要である。三田市には東京三菱銀行三田支店、東京の三田にはUFJ銀行三田支店が存在したが、2006年1月の三菱東京UFJ銀行発足時、三田市の支店はひらがなの「さんだ支店」となった。三井住友銀行では東京の三田に所在する支店を「三田通支店」として重複を避けている。 その他
参考文献
脚注
外部リンク |