万里小路宣房

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万里小路宣房
伝万里小路宣房像
(「後醍醐天皇像」の一部、大徳寺所蔵)
時代 鎌倉時代中期 - 南北朝時代
生誕 正嘉2年(1258年
死没 貞和4年/正平3年10月18日1348年11月9日)?
改名 通俊(初名)→宣房
官位 従一位大納言
主君 亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇
氏族 万里小路家
父母 父:万里小路資通、母:八幡検校宗清の娘
兄弟 宣房、経持、経円
藤房季房、娘(土御門親賢室)
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万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代公卿従三位万里小路資通の子。

生涯

父・資通が閑職にあったため、若年のうちは官職に恵まれなかった。大覚寺統後二条天皇に属して、五位蔵人弁官を経て蔵人頭参議を歴任するが、徳治3年(1308年)の天皇崩御後に参議を辞す。

文保2年(1318年)大覚寺統の後醍醐天皇即位を機に、権中納言に復帰。正中元年(1324年後醍醐天皇の討幕計画が発覚した正中の変においては、自ら鎌倉へ赴いて天皇に対する弁明を行い、その後権大納言に昇進する。元徳3年(1331年)の元弘の変では、2人の息子(藤房季房)が討幕に関与したとして六波羅探題に拘束されたが、翌年(1332年)4月には許されて、新帝である持明院統光厳天皇のもとに出仕するよう命じられた。

鎌倉幕府滅亡後の建武の新政下では、従一位に叙せられて雑訴決断所の頭人を務める。建武3年(1336年)1月には若年の千種忠顕とともに出家しており、新政への不満が集まる中での詰め腹を切らされたものと考えられている[1]。後醍醐天皇に従って吉野に赴くこともなく、次男・季房の遺児仲房[2]京都に残ったため、それまで大覚寺統の重鎮であった万里小路家は以後持明院統(北朝)方について活動することになった。

その後の宣房の消息は明らかでないが、玄孫時房日記である『建内記』の文安4年(1447年10月18日条に宣房の遠忌を修する記事が見えるので、貞和4年/正平3年(1348年)のこの日に没したと見られている[3]。享年91。

人物

後世、後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣として、同じく後醍醐天皇の近臣であった北畠親房吉田定房とともに「後の三房」と並び称された。

また、日記として『万一記(万里小路一品記・宣房卿記)』を残しており、写本が断片的に現存している。日記を記すことは、当時の公家が政務を円滑に行い、子孫が家名を維持するために必要不可欠な行動であったが、閑職に終わった父・資通が日記を残していないので、万里小路家の公家としての諸規範は宣房に由来するものとされ、宣房は歴代の万里小路家当主の崇敬の対象となった。

略譜

※日付=旧暦

和暦 西暦 月日 事柄
正嘉2年 1258年 生誕。
文永8年 1271年 1月5日 従五位下に叙位。
文永11年 1274年 3月22日 兵部少輔に任官。
3月24日 兵部権少輔に転任。
12月1日 院評定衆に加えられる。
建治3年 1277年 1月29日 従五位上に昇叙。
弘安2年 1279年 1月24日 越後を兼任。
10月23日 飛騨守を兼任、越後介を去る。
弘安6年 1283年 3月28日 正五位下に昇叙。時に名を宣房と名乗る。
永仁6年 1298年 8月28日 春宮権大進に遷任(春宮は邦治親王:のち後二条天皇)。
正安元年 1299年 6月6日 春宮大進に転任。
正安3年 1301年 1月21日 新帝(後二条天皇)昇殿。東宮践祚に伴い春宮大進を止む。
4月5日 五位蔵人に補任、兵部少輔を兼任。
正安4年 1302年 1月28日 右少弁に遷任、蔵人如元。
8月28日 権右中弁に転任、蔵人如元。
9月29日 従四位下に昇叙し、権右中弁如元。
12月26日 従四位上に昇叙。
12月30日 大蔵卿を兼任。
嘉元3年 1305年 3月8日 蔵人頭に補任、大蔵卿如元。
3月18日 権右中弁を兼任。
4月5日 左中弁を兼任。
4月19日 修理左宮城使に補任。
11月26日 参議に補任、大蔵卿如元。
嘉元4年 1306年 1月5日 正四位下に昇叙、参議・大蔵卿如元。
3月30日 出雲権守を兼任。
7月6日 父・資通の薨去により服解
11月27日 弾正大弼を兼任。
12月12日 左大弁を兼任。
徳治2年 1307年 3月2日 造東大寺長官に補任、参議・大蔵卿・左大弁・弾正大弼・出雲権守如元。
8月4日 大蔵卿を止む。
11月1日 弾正大弼を止む。
徳治3年 1308年 9月17日 参議・造東大寺長官を辞す、左大弁・出雲権守如元。
11月14日 従三位に昇叙、出雲権守如元。
延慶3年 1310年 出雲権守を去る。
文保2年 1318年 4月2日 正三位に昇叙。
12月3日 中納言に任官。
文保3年 1319年 3月9日 権中納言を辞任。
3月15日 従二位に昇叙、本座を許される。
6月6日 大宰権帥に任官。
元亨2年 1320年 1月3日 正二位に昇叙。
3月3日 大宰権帥を去る。
4月5日 権中納言に還任。
正中元年 1324年 10月29日 大納言に転任[4]
正中2年 1325年 12月12日 帯剣を許される。
正中3年 1326年 2月19日 権大納言を辞任。
嘉暦3年 1328年 7月20日 権大納言に還任。
9月10日 伊勢勅使に補任され、伊勢神宮に奉幣[5]
嘉暦4年 1329年 6月28日 権大納言を辞任。
元徳2年 1330年 10月21日 権大納言に還任。
元弘元年/元徳3年 1331年 2月1日 大納言に遷任。
8月25日 六波羅探題に拘束される。
10月12日 官爵停止により、大納言を辞任。
元弘2年/正慶元年 1332年 4月10日 光厳天皇より参朝を勅許される。
元弘3年/正慶2年 1333年 5月17日 大納言に還任。
6月12日 按察使を兼任[6]
建武元年 1334年 7月9日 大納言を辞任し、従一位に昇叙。
建武2年 1335年 4月7日 大納言に還任。
7月 大納言を辞任。
延元元年/建武3年 1336年 1月 出家
正平3年/貞和4年 1348年 10月18日 薨去か。享年91。

系譜

脚注

  1. ^ 佐藤(1974)pp.147-148
  2. ^ 長男の藤房は新政の政治姿勢に失望して遁世しており、季房は幕府滅亡の混乱の最中に流刑先の下野国で殺害されている。
  3. ^ 『万里小路家譜』は、出家した年の建武3年(1336年)に薨去とする。
  4. ^ 花園天皇宸記』による。『公卿補任』は正中2年(1325年)12月12日(帯剣勅許と同日)、『万里小路家譜』は元亨4年(1322年)4月27日とする。
  5. ^ 『伊勢勅使雑例』。
  6. ^ 師守記』康永4年6月22日条。

参考文献