一錦周之助

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一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ、1924年5月20日 - 2012年7月20日)は、青森県東津軽郡横内村(現:青森市)出身で高嶋部屋所属の元大相撲力士。本名は鳴海 周之助(なるみ しゅうのすけ)。現役時代の体格は身長177cm、体重79kg。最高位は西十両7枚目(1951年5月場所)。得意技は突っ張り・右四つ・上手投げ魁将龍の祖父、巴潟の義弟、魁輝の義父。

経歴

17歳の時に高嶋部屋に入門し、1942年1月場所に初土俵を踏んだ。1946年11月場所には初土俵から所要9場所(当時は年2場所制)で十両に昇進した。しかし同場所を全休し、1場所で幕下に陥落。暫くは幕下に在位していたが、1949年5月場所に十両に復帰すると十両に定着した。突っ張ってからの右四つ相撲であったが、胃腸が弱いこともあり体重が増えず80kgにも満たない超小兵力士であったため十両の地位を維持するのが精一杯であった。1952年9月場所を最後に十両から陥落すると一度も土俵に上がることがなく、1953年5月場所限りで現役を引退した。 引退後は年寄安治川を経て8代友綱小結・巴潟)の夫人の妹と結婚し、8代友綱停年後は9代友綱に名跡変更して友綱部屋を継いだ。先代からの弟子であった魁輝を関脇に昇進させ、娘婿に取って自身の定年退職後に10代友綱として部屋を継承させた。在職中は、魁輝以外にも先代からの弟子である後に世話人に転身した王湖と直弟子で後にプロレスラーに転身した大刀光を関取に昇進させている。また、アメリカ出身の戦闘竜もスカウトし入門させた。さらに停年寸前に入門した古賀博之が大関・魁皇となっていることもあり、現役時よりも師匠として力を発揮したといえる。元十両の年寄が定年まで在職したのは一錦が5人目。また、一錦の退職後元十両の年寄は1997年7月場所に引退した元十両4・大竜大鵬部屋)が15代大嶽を襲名するまで途絶えた。

2012年(平成24年)7月20日、肺炎のため東京都内の病院で死去。88歳[1]

略歴

  • 1942年1月場所 初土俵
  • 1946年11月場所 新十両
  • 1953年5月場所 現役引退、年寄・安治川襲名
  • 1989年5月 年寄停年退職

主な成績

  • 通算成績:126勝124敗46休 勝率.504(29場所)
  • 十両成績:73勝92敗13休 勝率.442(12場所)
  • 各段優勝:なし

改名歴

  • 一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ)1942年1月場所 - 1947年6月場所
  • 三吉山 周之助(みよしやま -)1947年11月場所
  • 一錦 周之助(いちにしき -)1948年5月場所 - 1949年10月場所
  • 一錦 一輝(- いっき)1950年1月場所
  • 一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ)1950年5月場所
  • 一錦 周之輔(読み同じ)1950年9月場所
  • 日本錦 曻(やまとにしき のぼる)1951年1月場所 - 1951年5月場所
  • 日本錦 周(- しゅう)1951年9月場所
  • 一錦 周之助(いちにしき しゅうのすけ)1952年1月場所 - 1953年1月場所
  • 鳴海 周之助(なるみ -)1953年3月場所 - 1953年5月場所(引退)

年寄変遷

  • 安治川 嘉昭(あじがわ)1953年5月 - 1976年3月
  • 友綱 隆登(ともづな)1976年3月 - 1989年5月(停年退職)

関連項目

脚注

  1. ^ 先代友綱親方の鳴海周之助さん死去 - 朝日新聞デジタル、2012年7月21日。