一柳直末

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一柳直末
時代 戦国時代-安土桃山時代
生誕 天文15年(1546年
死没 天正18年3月29日1590年5月3日
改名 直末、末安
別名 市助(市介)[1]
戒名 大通院殿天叟長運大禅定門
墓所 静岡県三島市山中新田の宗閑寺[2]
官位 従五位下伊豆守[1]
主君 豊臣秀吉
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直高
兄弟 直末、女(小川祐忠室)、直盛直道
心誉黒田職隆の娘、黒田孝高の妹)
黒田松寿丸徳永昌重室、松野重元
養嗣子:一柳直盛 (実弟)
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一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣氏の家臣。

生涯

天文15年(1546年)、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市西野町)の土豪・一柳直高の子として誕生[1]

元亀元年(1570年)より織田氏の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えた[1]天正8年(1580年)、父の死により遺領を相続[1]。各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となった[1]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの際に、秀吉が織田信雄配下・不破広綱竹ヶ鼻城を水攻めによって落城させると(竹ヶ鼻城の水攻め)、直末が城主として入った。天正13年(1585年)には田中吉政中村一氏堀尾吉晴山内一豊らとともに秀吉の甥・豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国大垣城に3万石を領した。さらに天正17年(1589年)には軽海西城に転封となり、6万石に加増された(『寛政重修諸家譜』によれば、天正13年(1585年)に美濃国で6万石を領し、浮見城に住したとある[1])。また、天正13年(1585年)には従五位下伊豆守に叙せられた[1]

天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した[1][2]享年45。山中城三の丸跡の宗閑寺に墓が現存している[2]。『寛政重修諸家譜』によれば駿河国長久保村(現在の駿東郡長泉町)に葬られたという[1]

直末の死後、妻心誉と子女は義兄弟の黒田孝高(官兵衛・如水)に引き取られた。その年に生まれた男子は孝高の子・長政の幼名と同じである松寿丸(しょうじゅまる)と名付けられた。博多聖福寺に葬られ、墓所が現存している。なお、直末と共に兵庫県小野市の磐代神社にも後世祀られた。

人物・逸話

  • 武勇に秀でていたことから「」の異名をとった。
  • 秀吉にとても信頼されていた武将である。小田原の陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。家督は弟の一柳直盛が継ぎ、尾張国葉栗郡西部に黒田城を中心として3万5,000石を与えられた。また、母らくにも直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられた。この際の所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがなで構成されている(『一柳文書』)。
  • 岐阜県関市にある一柳城は直末が築城・改修し、一柳の名をつけた城である。

家族・親族

寛政重修諸家譜』に、妻子についての記載はなく、弟妹として、女(小川祐忠室)、直盛直道(五郎兵衛)が掲げられている。末弟の直道は、天正18年(1590年)7月9日、小田原攻めの陣中で没した[1]

福岡市博多区臨済宗聖福寺の古文書に、一柳直末の家族に関する記録が残る。直末正室の黒田職隆の娘、心誉の供養塔が京都、金戒光明寺にあり、一柳一族の子孫、小野藩一柳末礼の建立。また、孝高の家臣が塔頭の安中院を建立したとある。

一柳家は次弟の一柳直盛が継ぐ。直盛は関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築き、最終的に伊予西条藩6万8,000石の主となった。直盛の遺領は3人の子で分割されたが、そのうち2家が明治維新まで大名として生き延びた。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第六百三
  2. ^ a b c 戦国時代”. 三島アメニティ大百科. 三島市. 2014年4月14日閲覧。

参考文献

外部リンク