ヴァレリー・トリールヴァイレール
ヴァレリー・トリールヴァイレール | |
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2012年撮影 | |
任期 | 2012年5月15日 - 2014年 |
元首 | フランソワ・オランド |
先代 | カーラ・ブルーニ |
個人情報 | |
出生名 | ヴァレリー・マソノ |
生年月日 | 1965年2月16日(59歳) |
出生地 | フランス・アンジェ |
居所 | エリゼ宮殿 |
署名 |
ヴァレリー・トリールヴァイレール(Valérie Trierweiler, 1965年2月16日 - )はフランスの記者。日本語報道ではバレリー・トリルベレールと表記される。
来歴[編集]
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フランス西部、メーヌ川河畔に位置するペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県のアンジェで、傷痍軍人の父とアイススケート場と花屋で働く母との間の5人目の子供として生まれた。家計は苦しく、中学校にあたるコレージュの時から苦学しながら学校に通い[1]、パリ第1大学卒業。2度の離婚を経験し、子供が3人いる。パリ・マッチの編集者で、2005年から2011年まで民放テレビ・ディレクト8の政治番組を司会していた。2006年に、フランソワ・オランドの民事連帯契約(ユニオン・リーブル)になったので、彼がフランス第五共和政の大統領に当選されたとき同国の大統領夫人の役割を果たしはじめ、事実婚の女性では初めてのファーストレディになる[2]。結婚はしていないので、アメリカのメディアなどは、ヴァレリー・トリールヴァイレールをファーストレディではなくファーストガールフレンドと呼んでいる[3]。
2013年6月には、オランドと共にファーストレディとして日本を訪問している[4]。のちの「回想録」において、メディアからの執拗な悪意ある記事、誹謗中傷に悩まされていたトリールヴァイレールにとって上皇后美智子と首相夫人の安倍昭恵から受けた気遣いや温かいもてなしは忘れがたく、オランドと共に訪れた国の中で最も素晴らしい思い出が残っている、と記している[5]。
2014年1月10日、オランドがジュリー・ガイエと密会していたことが発覚したため25日に関係を解消[6]。
フランス国内では、ファーストレディとしての人気はあまり高くなく、不人気であったとの評価もある。フランス人の70%は、この騒動で「大統領の評価に影響を及ぼすことはない」と回答している[7]。
オランドとの関係を解消後、トリールヴァイレールはエリゼ宮殿で過ごした日々を綴った暴露本を出版した。この本の出版は、フランスに大きな混乱をもたらしており、与野党、左派、右派を問わず、トリールヴァイレールは卑怯なやり方でオランドにダメージを与えようとしていると非難している[8]。この暴露本は、庶民派として若者や労働者層を支持基盤としてきたオランドにとって打撃となっており、オランドは本の内容について「私を傷つけるウソ」であると反論した[9]。
エリゼ宮を離れた後はジャーナリスト活動と並行してフランス自由=ダニエル・ミッテラン財団などで人道支援活動を行っている[10]。
栄典[編集]
- 2013年5月31日 - 宝冠大綬章
脚注[編集]
- ^ 『知られざる皇室外交』西川恵 角川新書 p145-146
- ^ “フランスに学ぶ 愛のために結婚しないという選択”. オールアバウト (2012年6月20日). 2012年6月21日閲覧。
- ^ Sylvie MALIGORNE (2014年1月11日). “「不倫」疑惑報じられた仏大統領、芸能誌に「法的措置も検討」”. AFPBB News 2014年1月12日閲覧。
- ^ “オランド仏大統領が来日、アベノミクスに「学びたい」”. AFPBB News. (2013年6月6日) 2014年1月26日閲覧。
- ^ 『知られざる皇室外交』 p147-149、p152
- ^ フランス大統領カップルが破局 密会報道後に別居 共同通信2014年1月26日
- ^ “追われる「妻」に冷たい仏世論 事実婚解消 オランド大統領には寛容”. 産経新聞. (2014年1月27日) 2014年3月25日閲覧。
- ^ DAVID GAUTHIER-VILLARS (2014年9月5日). “仏大統領の元パートナー暴露本、私事に寛容な国民も複雑”. ウォール・ストリート・ジャーナル 2014年9月5日閲覧。
- ^ 三井美奈 (2014年9月14日). “「回想録はウソ」仏大統領、元「妻」に反論”. 読売新聞 2014年9月14日閲覧。
- ^ 『知られざる皇室外交』p150
外部リンク[編集]
- Valerie Trierweiler (@valtrier) - X(旧Twitter)