ヴァルダス・アダムクス

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ヴァルダス・アダムクス
Valdas Adamkus


任期 2004年7月12日2009年7月12日

任期 1998年2月26日2003年2月26日

出生 (1926-11-03) 1926年11月3日(97歳)
リトアニアカウナス
政党 無所属
配偶者 アルマ・アダムキエネ

ヴァルダス・アダムクス(Valdas Adamkus、1926年11月3日 - )は、リトアニア政治家。リトアニア大統領(在任1998年から2003年、再任2004年から2009年)。

生い立ち

アメリカ移住まで

1926年11月3日、リトアニア・カウナスカトリックの一家に生まれる。父はリトアニア空軍学校の校長であった。学生時代にリトアニア独立派の活動家として、地下で青年を対象とした新聞を出版するなどした。独ソ戦では、ソ連軍に対する抵抗運動に参加する。その後形勢が不利になり、ソ連の侵略から逃れるため1944年ドイツに避難し、ドイツのミュンヘン大学で学んだ。終戦後の1949年、一家でアメリカに移住した。リトアニア語ポーランド語英語ロシア語ドイツ語に堪能であり、1950年代、アメリカ軍第5軍予備軍の軍事情報部門で上級下士官を務めた。

アメリカでの生活

シカゴに移ったのち、自動車工場や製図工として働きながらイリノイ工科大学で水力工学を学び、1960年に卒業。学業のかたわら、他のアメリカのリトアニア人とともに40,000人の署名を集め、ソ連によってシベリアへ連行されたリトアニア人の問題に関してアメリカ政府が取り組むよう政府に求めた[1]。この嘆願は、当時の副大統領リチャード・ニクソンに申し立てられた。リトアニアにおけるソ連政府の活動に対しても、1958年ダグ・ハマーショルド国連事務総長が、1962年ジョン・F・ケネディ大統領が示したのと同様に、アダムクスもまた懸念を示した[1]。こうした活動を通じアダムクスはリトアニア人団体の中で次第に重きを成すようになり、1967年、リトアニア移住者政治団体「サンタラ・シュビエサ」(協調と光)の会長に就任。

アメリカ環境保護庁での勤務

その後1970年の初め、環境問題の専門家としてアメリカ環境保護庁に勤務し始め、同局の五大湖地域副長官を歴任したのち、1981年には、ロナルド・レーガン大統領から五大湖地域長官に任命される。任命される以前にはオハイオ州シンシナティで勤務したこともあった。彼は、長官としてイリノイ州インディアナ州ミシガン州ミネソタ州、オハイオ州、ウィスコンシン州における公害問題に取り組んだ。1985年にはレーガン大統領から、連邦公務員に与えられるものの中では最高位にあたるDistinguished Executive Presidential Rank Awardが授与された。

1972年モスクワで開かれた環境会議に米国代表として派遣され、その際、およそ30年ぶりにリトアニアへの帰国を果たしている。また、ソ連がペレストロイカを実施して後は、より頻繁に母国を訪れることができるようになった。リトアニア独立回復後の1993年、独立回復後初めて行われた大統領選挙で、スタシース・ロゾライティス候補の選挙本部長に就任するも、ロゾライティス候補はアルギルダス・ブラザウスカス候補を相手に落選。

彼は16年間アメリカ環境保護庁の地域長官を務め、1997年、29年間務めた公務員を退職した。退職に際し、ビル・クリントン大統領から祝いの手紙が送られている。またこのほかにも、退職を機にさまざまな賞が授与された。彼は共和党員であったが、彼の誠実さは民主党員からも尊敬、評価されていた。

リトアニア帰国後

環境保護庁を退職後すぐ、アダムクスはリトアニアへ帰国。そして1998年大統領選挙への立候補を決意。海外生活が長かったことなどから、その後すぐにリトアニアの法廷で彼の立候補がふさわしいものかどうか争われることとなった。結果、アメリカの市民権を有していることを除けば大統領選に立候補することに支障はない、という判決が下され、彼はヴィリニュスのアメリカ大使館で市民権を放棄する手続をとった。その後、彼のアメリカでの経歴やアメリカ政府との繋がりなどが世間から評価され、大統領選で決選投票の末にアルトゥーラス・パウラウスカスを破り当選。在任中は、リトアニアのNATO及びEU加盟に奔走した。

2002年大統領選挙で再選を狙ったが、翌2003年1月の決選投票で自由民主党ロランダス・パクサスに敗北。しかし、同年10月、ロシアの国際犯罪組織とパクサス大統領との癒着を指摘するスキャンダルが発生。2004年3月に、憲法法廷が国家機密保持などについて大統領の行為を違憲と判断。同年4月に、リトアニア議会が大統領弾劾を可決成立させ、パクサス大統領は辞任。

辞任に伴い行われた2004年の大統領選挙では、6月13日の第1回投票では得票率 30 % でトップに立ち、6月27日に行われた決選投票でも、カジミラ・プルンスキエネを破り、再当選を果たした。その結果、7月12日に大統領職に復帰。なおこの選挙に関してリトアニア憲法裁判所はパクサス前大統領の立候補を認めていなかった。

松浦晃一郎ユネスコ事務局長はアダムクスの人柄を評価し、2003年、彼はユネスコ親善大使に就任した。

2009年7月、任期満了に伴い大統領職を辞した。

趣味

水泳ジョギングテニススポーツ観戦、クラシック音楽鑑賞、読書

関連項目

脚注

  1. ^ a b Simas Sužiedėlis, ed. (1970–1978). "Valdas Adamkus". Encyclopedia Lituanica. Vol. I. Boston, Massachusetts: Juozas Kapočius. p. 16.

外部リンク