ヴァイッド・ハリルホジッチ
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名前 | ||||||
愛称 | Coach Vahid(ヴァイッド先生) | |||||
ラテン文字 | Vahid Halilhodžić | |||||
セルビア語 | Вахид Халилхоџић | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
フランス ボスニア・ヘルツェゴビナ | |||||
生年月日 | 1952年5月15日(71歳) | |||||
出身地 |
ユーゴスラビア ボスニア・ヘルツェゴビナ ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県ヤブラニツァ | |||||
身長 | 182cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1968-1971 | ヴェレジュ・モスタル | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1981 | ヴェレジュ・モスタル | 207 | (103) | |||
1971-1972 | → ネレトヴァ (loan) | ? | (?) | |||
1981-1986 | ナント | 163 | (92) | |||
1986-1987 | パリ・サンジェルマン | 18 | (8) | |||
代表歴 | ||||||
1975-1978 | ユーゴスラビア U-21 | 12 | (12) | |||
1976-1985 | ユーゴスラビア | 15 | (8) | |||
監督歴 | ||||||
1990-1992 | ヴェレジュ・モスタル | |||||
1993-1994 | ボーヴェ | |||||
1997-1998 | ラジャ・カサブランカ | |||||
1998-2002 | リール | |||||
2002-2003 | レンヌ | |||||
2003-2005 | パリ・サンジェルマン | |||||
2005-2006 | トラブゾンスポル | |||||
2006 | アル・イテハド | |||||
2008-2010 | コートジボワール | |||||
2010-2011 | ディナモ・ザグレブ | |||||
2011-2014 | アルジェリア | |||||
2014 | トラブゾンスポル | |||||
2015- | 日本 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ヴァヒド・ハリルホジッチ[2](Vahid Halilhodžić, 1952年5月15日 - )は、ユーゴスラビア(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身の元・サッカー選手、サッカー指導者(現・フランス国籍)である。名字の由来は「親友(ハリル)」「指導者の子孫(ホジッチ)」[3]。
生い立ち
6人兄弟の第4子として出生。近所にあったサッカースタジアムがヴァイッド少年の遊びの場となる。14歳時、将来エンジニアとしての電気工学修学目的でモスタルに移住し、地元フットボールクラブ「ジュニオール・ヴェレジュ・モスタル」に加入。18歳時、進路の決定を迫られFKヴェレジュ・モスタルの契約選手として報酬を得る道を選択。
選手として
選手時代のポジションはフォワード。FKヴェレジュ・モスタル、FCナント、パリ・サンジェルマンFCなどに在籍、ヴェレジュ・モスタル時代は11年間に渡りプレーを続け、通算207試合出場、103ゴールを挙げ、ナント時代には2度のフランスリーグ得点王に輝いた。PSG時代、実母の死没と時を同じくしてプロ選手活動を終え、帰郷。
1978年、この年から開始したUEFA U-21欧州選手権に旧ユーゴスラビア代表として出場(ハリルホジッチは26歳だったが当時は2名までのオーバーエイジ選手が認められていた)し、決勝戦では旧東ドイツ代表を相手に1stレグ、2ndレグで合わせて4得点を挙げる活躍を見せた。この大会では6得点を記録し得点王となり、チームを同大会の初代優勝へと導いた。また、初代最優秀選手賞を受賞した[4]。
ユーゴスラビア代表には1976年から1985年まで招集され、15試合に出場して8ゴール[5]を挙げた。1976年欧州選手権、1982年ワールドカップに出場した。
横浜F・マリノスの監督、エリク・モンバエルツとは、パリ・サンジェルマン時代での選手・指導者という間柄で、現在も交流があるという。
監督として
選手時代の蓄えを元手に母国にて飲食店、衣料品店などの事業に出資するもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にて資産が消滅。その後、古巣のヴェレジュ・モスタルで初めて監督となる。しかし、紛争が激化した影響でサッカーどころではなくなり、フランスへ移住。自宅の前で起きた銃撃戦に巻き込まれ重傷を負った事もあったという[3]。1995年にフランス国籍を取得している。1997年から1998年まで監督を務めたモロッコのラジャ・カサブランカでは、国内リーグを2連覇、1997年のCAFチャンピオンズカップを制しアフリカチャンピオンに導いた。
1998年から2002年まで監督を務めたフランスのLOSCリール・メトロポールでは、1999-00シーズンに2部リーグ優勝、2000-01シーズンは昇格1年目ながら3位に食い込み、その手腕が評価され同年の年間最優秀監督に選ばれた。この間の監督歴は、下記の指導歴を参照。
2008年、コートジボワール代表監督就任。同年5月24日、キリンカップサッカー2008で日本代表(監督・岡田武史)と対戦[6]。当時、日本でリハビリ中だったサッカー日本代表前任監督イビチャ・オシム氏が試合観戦に訪れ会話を交わす。 2010年2月27日、アフリカネイションズカップ2010準々決勝敗退の責任をとる形で代表監督解任[7]。2010年8月にクロアチアリーグのディナモ・ザグレブ監督に就任。同リーグで優勝するが、翌2011年5月に契約問題によって退団する。
2011年6月にアルジェリア代表監督に就任。2014 FIFAワールドカップではアルジェリアを史上初のベスト16に導いた。ワールドカップ後にトルコ・スュペル・リグのトラブゾンスポルに復帰したが、2014年11月にクラブと双方合意の下、契約解除した。2015年3月12日、日本サッカー協会の要請を受諾して日本代表監督に就任[8][9]。
指導スタイル
- 2008年から率いたコートジボワール代表では史上稀に見る攻撃的なチームを作り上げたが、大本命とされたアフリカネイションズカップ2010で準々決勝敗退となり、解任された。アルジェリア代表では、北アフリカのチームらしく綺麗にパスをつなぐスタイルだったチームにタイトな守備と鋭い速攻を植え付け、W杯ベスト16となった。対戦相手に応じてシステムを変えながら、機能させる手腕をもつ。同胞の大先輩である元日本代表監督イビチャ・オシムとも親交が深く[10]、オシムとの関係については「親友」と述べている[11]。
- 2014 FIFAワールドカップでアルジェリア代表を率いて優勝国ドイツ代表を延長戦まで追い詰め[12]、敗戦後選手と抱き合って号泣したシーンは「男泣き監督」として世界中のサッカーファンの心を掴んだ[13]。また、対戦相手によってフォーメーションを変える采配で、アルジェリア代表では「4-2-3-1」、「4-3-3」、「5-4-1」などを使い分けた。
- 「ルール、規律、練習」をモットーとし、ロナウジーニョやディディエ・ドログバといったスター選手だろうと妥協を許さぬスタイルとされる[14][15]。
- 日本代表監督就任から3ヶ月程度は帰国なしで国内組視察を行う[16]。本田圭佑[17]や香川真司[18]はハリルホジッチについて「覚えてない。印象も全然ない」「イメージがない」などと述べているが、岡崎慎司は「印象に残っていたチームを率いていた監督が日本に来る。すごい偶然」と好印象を語った[19]。
- チームの全責任は監督にあるという信念を持ち、日本滞在時は日本サッカー協会に常駐する[20]、記者会見などではより多くの質問に答えようとする[21]など、積極的にスタッフやメディアとの交流を持とうとしている。一方、合宿中の選手取材に対しては従来よりも厳しい規制をかけた[22]。
選手経歴
- FKヴェレジュ・モスタル 1971-1981
- → ネレトヴァ 1971-1972 (loan)
- FCナント 1981-1986
- パリ・サンジェルマンFC 1986-1987
指導者経歴
- FKヴェレジュ・モスタル 1990-1992
- ASボーヴェ 1993-1994
- ラジャ・カサブランカ 1997-1998
- LOSCリール・メトロポール 1998-2002
- スタッド・レンヌ 2002-2003
- パリ・サンジェルマンFC 2003-2005
- トラブゾンスポル 2005-2006
- アル・イテハド 2006
- コートジボワール代表 2008-2010
- GNKディナモ・ザグレブ 2010-2011
- アルジェリア代表 2011-2014
- トラブゾンスポル 2014
- 日本代表 2015-
タイトル
- 選手
- UEFA U-21欧州選手権:1978(ユーゴスラビア代表)
- ユーゴスラビアカップ:1981(ヴェレジュ・モスタル)
- クープ・ドゥ・フランス:1983(ナント)
- フランスリーグ得点王:1982-83、1984-85(ナント)[23]
- 最優秀外国人選手:1984、1985(ナント)[24]
- 指導者
- CAFチャンピオンズリーグ:1997(ラジャ・カサブランカ)
- モロッコリーグ:1997、1998(ラジャ・カサブランカ)
- クープ・ドゥ・フランス:2004(パリ・サンジェルマン)
- 2部年間最優秀監督:1999(リール)[24]
- 年間最優秀監督:2001(リール)[24]
栄典
- リール市民栄誉賞【フランス、2002年】[25]
- レジオンドヌール勲章 騎士(シュヴァリエ)【フランス、2004年】[25]
- モスタル市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[25]
- ヤブラニツァ市民栄誉賞【ボスニア・ヘルツェゴビナ、2011年】[25]
脚注
- ^ 日本サッカー協会による表記はこれで統一されている。
- ^ ForvoでのVahid Halilhodžićの発音例
- ^ 知ってた?ハリルホジッチ監督、「あの大会」の初代MVPだった qoly 2015年6月18日
- ^ ハリルホジッチ日本代表新監督の人物像――頭脳明晰な激情家サッカーダイジェストWeb 2015年3月12日
- ^ なお、この時に「日本にもコートジボワール人選手がいた」という理由で、当時は柏レイソルからJリーグ2部の徳島ヴォルティスにレンタル移籍中だったドゥンビア・セイドゥを緊急追加招集し、日本戦に起用した。当時20歳のドゥンビアは代表初招集で、当時は日本向けのファンサービスという見方もあったが、同年6月にスイスリーグのBSCヤングボーイズに移籍したドゥンビアは同リーグで2年連続得点王になり、代表でもW杯南アフリカ大会出場やアフリカネイションズカップ2015優勝などを果たすなどの成長を見せた。詳しくは同選手の項目を参照。
- ^ 【ハリル新監督独占激白3】独裁者のイメージ、私じゃないからねスポニチ 2015年3月13日
- ^ ハリルホジッチ氏の日本代表監督就任が正式決定、コーチ2人も内定ゲキサカ 2015年3月12日
- ^ SAMURAI BLUE(日本代表) 新監督にヴァイッド・ハリルホジッチ氏を招聘日本サッカー協会発表、2015年3月12日付
- ^ 【識者の眼】代表監督に推したい気鋭の名将ハリルホジッチ。多彩な戦術を持つ情熱家。W杯の実績も十分フットボールチャンネル 2015年2月8日
- ^ オシム氏は「親友」…ハリルホジッチ監督「日本に来て試合を見てほしい」 サッカーキング 2015年3月14日
- ^ 【ハリル新監督独占激白2】尊重する精神、勤勉さは気に入っているスポニチ 2015年3月13日
- ^ サッカー日本代表監督・ハリル氏は山下真司・松岡修造ばりに一緒に戦い泣いてくれる熱い男AOLニュース 2015年3月3日
- ^ 最後の救世主となるか?/名将ハリルホジッチ、ディナモ新監督に就任sportsnavi 2010年8月19日
- ^ 【ハリル新監督独占激白1】本田も特別扱いなし「ベンチ置くの恐れない」スポニチ 2015年3月13日
- ^ ハリル新監督無休J視察 帰省封印3カ月ベッタリ日刊スポーツ 2015年3月15日
- ^ 本田 W杯ハリル氏VSドイツ戦「覚えてない。印象も全然ない」スポニチ 2015年3月1日
- ^ 香川、ハリルホジッチ新監督には「全くイメージない」フットボールチャンネル 2015年3月15日
- ^ 岡崎、“ハリルサッカー”印象的「全員が精根尽きるまで走り切っていた」サンスポ 2015年3月16日
- ^ ハリル監督が接触事故!JFAに運転中タクシーと日刊スポーツ 2015年8月24日
- ^ 東アジア杯メンバー発表、ハリルホジッチ監督会見要旨ゲキサカ 2015年7月23日
- ^ ハリル監督 選手への規制を強化東京スポーツ 2015年6月9日
- ^ “France - Topscorers”. RSSSF. 2007年9月24日閲覧。
- ^ a b c “France - Footballer of the Year”. RSSSF. 2007年9月24日閲覧。
- ^ a b c d ヴァイッド・ハリルホジッチ氏、ロシアW杯に向かう日本代表監督に決定! Legends Stadium 2015年3月12日閲覧