ワスコ郡 (オレゴン州)
オレゴン州ワスコ郡 | |
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設立 | 1854年1月11日 |
郡庁所在地 | ザ・ダルズ |
面積 - 総面積 - 陸 - 水 |
6,204 km2 (2,395 mi2) 6,167 km2 (2,381 mi2) 37 km2 (14 mi2), 0.60% |
人口 - (2000年) - 密度 |
23,791人 10人/km2 (26人/mi2) |
ウェブサイト | co |
ワスコ郡(ワスコぐん、英: Wasco County)は、アメリカ合衆国オレゴン州にある郡の一つ。郡の名称は、ワスコと呼ばれるコロンビア川南側で生活していたチヌーク系部族の名に由来する。2000年の時点での人口は23,791人。郡庁所在地は、ザ・ダルズ。
歴史
コロンビア川のセライロの滝は、古くからワスコ族、パイユート族、ウォーム・スプリングス族などの先住民が集まる場所だったため、民族間の主要な貿易中心として栄えた。フランス系カナダ人の毛皮商たちは、この渓流を Le Grand Dalles de la Columbia (コロンビアの大滝)と名付けた。
ザ・ダルズは当初、ウィラメット渓谷へ向かう移民者達の道の途中駅であった。カスケード山脈を越える開拓者道路の建設(1845年)や、Donation Land Claim Act (1850年)により、この地に定住する家庭が多くなった。その後、ワスコ郡は河川交通や陸上交通の要所として栄えた。
1854年1月11日、オレゴン準州議会によりクラカマス郡、レーン郡、リン郡、マリオン郡の一部分離させてワスコ郡が発足。発足当初、ワスコ郡は340,000 km2(130,000 mi2)の面積を有し、アメリカ合衆国で最大の郡であった。ワシントン準州や他のオレゴンの郡が発足していくに従って、ワスコ郡は現在の面積まで縮小した。郡成立時に郡庁がダ・ダルズに置かれた。
コロンビア川の河川交通は、マルトノマ郡のボンネビル・ダム(1935年)、ワスコ郡のザ・ダルズ・ダム(1957年)の建設により、大きな影響を受けた。
ワスコ郡が国際的に注目されたのは1980年代、バグワン・シュリ・ラジニーシがアメリカ合衆国に渡り、「ザ・ビッグ・マディ」(後のラジーニシプラム)と呼ばれた農場に数年間暮らした時のことである。当初から続いた区画規則や建築基準法に対する意見の不一致が、彼の信奉者とワスコ郡の住民との間だけでなく、オレゴン州全体を巻き込む論争にまでエスカレートした。「ラジニーシー」と称される信奉者たちは、アンテロープに集団で生活を始め、アンテロープ町議会議員の大半を選出できるようになった。ラジニーシの女性広報担当間だったマ・アナンド・シーラが放った敵対的ではなくとも辛辣なコメントの数々は、緊張を強めるだけで、ラジニーシの沈黙の誓いを反映したものではなかった。後に信奉者たちはアメリカ全土からホームレスの人々を集めてラジーニシプラムに住まわせたが、これは投票箱を利用して郡のコントロールを獲得させようとするものと広く考えられている。彼らによる最も奇妙な出来事は、ザ・ダルズのあるレストランのサラダバー(サルサバー)で発生したサルモネラ中毒が、ラジーニシーズの仕業であると発覚した事件(ラジニーシによるバイオテロ)である。この頃、シーラはラジニーシの業務のポストから降ろされている。
このワスコ郡の状態は、ラジニーシがアメリカ合衆国の亡命を試みて逮捕された1985年まで続いた。1985年10月23日、ポートランドの連邦大陪審はラジニーシ、シーラ、他6人の信奉者を入国犯罪でひそかに起訴していた。2日後、ワスコ郡大陪審はシーラと他の信奉者に対する起訴状を返し、彼女らをラジニーシの主治医スワミ・デバラジの殺人未遂で起訴した。ラジニーシ本人はAlford pleaに入り、アメリカ合衆国を離れることを条件に執行猶予を言い渡された。
今日、旧ラジニーシ農場はワイルドハウス・キャニオンとして知られ、キリスト教系組織ヤング・ライフ・ミニストリーズにより所有、運営されている。
経済
郡の経済は、農業(果樹、小麦、牧場)、伐木業、製造業、発電、交通、観光に頼っている。アルミニウムの生産はかつてこの地域の主要産業であったが、電気代の変動と世界規模でのアルミニウム価格の下落により、郡にあった多くのアルミニウム鋳造工場が閉鎖した。
地理
アメリカ合衆国国勢調査局によれば、ワスコ郡の総面積 6,204 km2(2,395 mi2)の内、6,167 km2(2,381 mi2)が陸地、37 km2(14 mi2)が水地である。
隣接郡
自治体
行政都市
非法人地域、国勢調査指定地域
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