レフェリー (プロレス)

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プロレスにおけるレフェリーReferee)は、プロレスの試合を裁く者を指す。

概要[編集]

正確な判定を下すことに徹するべきとされる一般スポーツの審判と異なり、盛り上がる試合運びの形成を目的として動くことが求められる立場である。

レフェリーとしてのライセンスは存在しない。例外として、かつてNWAにおいてオフィシャル制がとられていたことがあり、日本ではジョー樋口が選任されていた。プロレスのレフェリーの多くは、各プロレス団体に所属して各地で行われるプロレス興行に同行する。

たいていのレフェリーは、団体内の他の業務を兼任しており、外国人選手の世話役、選手のコーチ、会場設営のスタッフのほか、キャリアを積むとアングルを構成するマッチメイカーを兼任する場合もある。

プロレスラーや格闘技関係の有名人がレフェリーを担当する場合もある。このケースの場合は、特別レフェリーとしての参加である場合が多い。ただし、これらの元有名レスラーや他競技の有名人が、本格的にレフェリーに転向した例としてマイティ井上らがいる。

試合とレフェリー[編集]

プロレスのレフェリーは、試合に際して、白黒のTシャツに黒いズボンまたは、大会Tシャツ(もしくは色的には自由)を着用する。ただし、全日本プロレスでは、マークの入った白のワイシャツとなる。

プロレスにおけるレフェリーの最大の特徴は、原則としてルールはリング上のレフェリーのみによって監視されるという点である。このため、統一ルールが存在せず、エンターテイメント性を追求するところのあるプロレスの性格から、レフェリーは試合を盛り上げる他、試合を安全に進行させる役割を担うことになる。そのため、レフェリー個人の裁量あるいは力量が問われることが多く、それぞれのレフェリーによってカウントの速度や反則とみなす基準などで差異が生じる場合が多い。

また、ルールがリング上のレフェリーのみによって監視される原則は、レフェリーの監視の外における反則について原則として反則の裁定が取られることがないということになるため、これを利用してのセコンドタッグパートナーがレフェリーの注意を引いている隙に乱入や凶器攻撃などの反則行為を行う光景がヒールを中心に度々見られる他、わざと脇見等を行うことで反則を見なかったことにする、カウントを取るにあたって公平な速度でカウントを取らない等の偏ったレフェリングを行う極悪レフェリーのキャラクターづくりとして利用される場合がある。

なお、レフェリーが試合の攻防に巻き込まれて失神や負傷などで試合を裁くことが不可能になった場合、ルールを監視する者がいないということになるので、レフェリーの意識が回復するか控えのレフェリーに交替するまでの間はノールール状態となる。この状態では、選手がフォールの体勢に入ってもカウントは行われず、ギブアップの意思表示をしても試合は決着しない。また、反則によるカウントも発生しないため、通常の5カウントルールを超えた反則も許される状態となる。ただし、あまりにも悪質な反則行為や試合が収拾不可能となった場合は他のレフェリーやコミッショナーなどによってノーコンテスト(無効試合)の裁定が下るケースもあるが、明確な基準は存在しない。

その他[編集]

  • 試合中、プロレスラーに突き飛ばされたり、技を食らったりすることもあるため、プロレスラー経験のない者の場合は修行期間に相応の受身の練習が必須となる。団体によっては選手のスパーリングに参加させることもある。プロレスラー経験者であっても一定のトレーニングを継続することが多い。
  • 1980年代全日本プロレスでは、プロレスラー同士の戦いにレフェリーが巻き込まれて試合の決着になだれ込む、いわゆる「ジョー樋口失神ギミック」が多発した。巻き込んだプロレスラーの反則負け、収拾がつかない状態としてノーコンテストや両者反則、レフェリーのいない状態で戦っている間にレフェリーの体力が回復して普通に決着、などのパターンがあったが、1980年代後半から減少していき、平成に入りプロレス四天王の時代になると消滅した。
  • 台本の覚えの悪いプロレスラーが筋書きを忘れてしまった場合、試合終了の合図を送ることがある。
  • 流血試合の場合はレフェリーがカミソリカッターナイフの刃でプロレスラーの額などを切ることがある。
  • 試合中のプロレスラーの負傷等の予期せぬアクシデントや会場の雰囲気次第では、レフェリー独自の判断で収拾を図る場合がある。
  • 2010年の札幌プロレスフェスタでは5人のレフェリーが裁いた試合もあった。また、同年の年越しプロレスの1試合ではさらに多い7人で裁いたが、レフェリー同士で揉めて収拾が付かず和田京平が加わり、最終的には8人となった。

主なレフェリー一覧[編集]

所属はレフェリーになってからとして、プロレスラーからの転向に関しては各人の項を参照。

日本[編集]

現役レフェリー[編集]

全日本プロレス
新日本プロレス
プロレスリング・ノア
DRAGON GATE
ZERO1
WRESTLE-1
KAIENTAI DOJO
大日本プロレス
DDTプロレスリング
プロレスリングBASARA
パンクラス
アイスリボン
シアタープロレス花鳥風月
フリー
その他のプロレス団体

元レフェリー[編集]

アメリカ[編集]

レフェリーを務めたことがあるプロレスラー[編集]

奉納プロレスバトルロイヤルを担当。
国際プロレス女子部の試合を裁いた。
1975年に行われたアントニオ猪木対ルー・テーズ戦を担当。
現役としての一線を退いた後は、日本でしばしばレフェリーを務めた。
日本では1981年に、「一つ前のドリー・ファンク・ジュニアブルーザー・ブロディの試合がドリーのレフェリー暴行による反則決着となりジョー樋口が担当出来なくなったための臨時レフェリー」として、リック・フレアージャンボ鶴田NWA世界ヘビー級選手権を裁いたことがある。アメリカではニック・ボックウィンクルハルク・ホーガンAWA世界ヘビー級選手権も裁いている。
引退後、NWAフロリダ地区でレフェリーを担当。
1978年NWAリッキー・スティムボートリック・フレアーWWWFダスティ・ローデススーパースター・ビリー・グラハムなどの試合でスペシャル・レフェリーを担当した[1][2]1984年にも、ハワイで行われたシバ・アフィ&ラーズ・アンダーソンマーク・ルーイン&ケビン・サリバンのタッグマッチを裁いている(試合後はルーイン組と乱闘寸前に)。
ジャンボ鶴田ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級選手権試合(1984年2月23日蔵前国技館)を担当。
タイガー・ジェット・シン上田馬之助の遺恨対決を担当。ただし、最終的には両選手に二人がかりで攻撃されていた。
平成維震軍旗揚げ戦の越中詩郎対タイガー・ジェット・シン戦でも担当したが、試合途中でシンにスリーパー・ホールドをかけ、攻撃している。
また、グレート・ムタ小川直也戦ではムタからレフェリーに指名された。しかし、試合開始直前のボディチェック中に毒霧を受けてしまう。その後はサブレフェリーのタイガー服部が試合を裁いた。
第1回ヤングライオン杯の優勝戦を担当。
格闘技の祭典で4人のタイガーマスクタッグマッチブラック・タイガーをモチーフにしたマスクで担当。
アントニオ猪木対滝沢秀明エキシビションマッチを担当。
一時期、コーチを務めていたジャパン女子プロレスでレフェリング。試合後に当時、同団体の営業部員であった大仁田厚と乱闘事件(ギミックと言われる)を起こし試合で対戦してプロレスラー活動復帰への布石とした。
  • 外道(当時はブルドッグ・KT)
ブル中野アジャ・コング金網デスマッチを担当。アジャ寄りのレフェリングを行い、アジャの金網からのエスケープを成功させ、アジャの勝利に貢献、観客からの反感をかってしまう。その為か、両者の再戦ではレフェリーをしていない。
レッスルマニア20でのブロック・レスナービル・ゴールドバーグ。両者とも退団が決まっておりファンの不満は高く、それを抑える役割も担っていた。
1999年FMW横浜アリーナ大会と、2005年1月WWE「ニューイヤーズレボリューション」でのエリミネーション・チェンバー・マッチにて。
全日本女子プロレス時代に幾度かレフェリングをしており、自主興行「息吹」でも試合に出ない場合にはレフェリングをしていた。
闘龍門興行の女子プロレスマッチでレフェリングをしていたが、セクハラ三昧がお約束だった。
愛弟子である勝愛実林結愛のデビュー戦を担当。
引退後の2013年にWNCラジアントホール大会で特別レフェリーとなる。
DDT所属選手だが、アイスリボンではレフェリーとして参加、稀にDDTでも裁くことがあった。
ガッツワールド所属レスラーだが、世界プロレス協会ではレフェリーとして参加。

レフェリーを務めたことがある有名人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Rick Flair Says Andre The Giant Once Drank 106 Beers in 5 Hours!”. El Paso Sports Radio. 2018年9月12日閲覧。
  2. ^ WWWF Events Database”. Cagematch.net. 2018年9月12日閲覧。