レアル・サラゴサ
レアル・サラゴサ | ||||
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原語表記 | Real Zaragoza, S.A.D. | |||
愛称 | Blanquillos(白)、Maños(アラゴン人) | |||
クラブカラー | 白と青 | |||
創設年 | 1932年 | |||
所属リーグ | リーガ・エスパニョーラ | |||
所属ディビジョン | セグンダ・ディビシオン | |||
ホームタウン | サラゴサ | |||
ホームスタジアム | エスタディオ・デ・ラ・ロマレーダ | |||
収容人数 | 34,596 | |||
代表者 | クリスティアン・ラペルタ | |||
監督 | ランコ・ポポヴィッチ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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レアル・サラゴサ(Real Zaragoza)は、スペイン・アラゴン州サラゴサに本拠地を置くサッカークラブチーム。2015-16シーズンはリーガ・エスパニョーラ、セグンダ・ディビシオンに所属している。
1932年3月18日に設立され、それ以来ほとんどの期間をプリメーラ・ディビシオン(1部)で過ごしている。リーガ・エスパニョーラ創設以来の勝ち点を合計したラ・リーガ通算順位表では9位に位置する。プリメーラ・ディビシオンでの優勝経験はないが、コパ・デル・レイでは6度(6位)の優勝回数を誇る。欧州カップ戦ではインターシティーズ・フェアーズカップ(UEFAカップの前身)、UEFAカップウィナーズカップで1度ずつ優勝している。伝統的にホームゲームでは白いシャツとソックス、藤紫色のパンツを着用し、アウェーゲームでは黒色と黄色のユニフォームを着用する。ホームスタジアムはエスタディオ・デ・ラ・ロマレーダであり、34,596人を収容する。
歴史
サラゴサ市にはイベリアSCとレアル・サラゴサCDという2つのクラブが存在していた。激しいライバル関係にあった両クラブは1932年に財政難に陥り、「マリア様の奇跡」と呼ばれる合併をして新しいチーム、サラゴサが設立された[1]。リーガ・エスパニョーラに参戦していたが、スペイン内戦によって発展を妨げられた。1951年にチーム名をレアル・サラゴサに変更した[1]。1957年9月8日、最初のスタジアムであるトーレロを離れ、現在のスタジアムであるエスタディオ・デ・ラ・ロマレーダに移った。
黄金時代
1960-61シーズンを始まりとして、レアル・サラゴサは黄金時代に足を踏み入れた。当時のスペインで最も優秀な選手たちの数々がプレーし、ロス・マグニフィコス(Los Magníficos、偉大なチーム)と呼ばれる彼らはいくつものタイトルを獲得した。リーグ優勝こそできなかったが、1960-61シーズンから1968-69シーズンまでの8シーズンは3位、4位、5位、4位、3位、4位、5位、5位とすべて5位以内に入った。1961-62シーズンにはフアン・セミナリオが30試合で25得点を挙げ、ピチーチ賞(得点王)のタイトルを獲得した。
1963-64シーズンにはコパ・デル・レイで初優勝し、同シーズンにはインターシティーズ・フェアーズカップ(UEFAカップの前身)でも優勝した。攻撃陣にはカナリオ、エレウテリオ・サントス、マルセリーノ・マルティネス、フアン・マヌエル・ビジャ、カルロス・ラペトラなどがおり、守備陣にはセベリーノ・レイハやホセ・ルイス・ビオレタなどの名選手がいた。コパ・デル・レイでは1962-63シーズンから4シーズン連続で決勝に進出し、1965-66シーズンには2度目の優勝を飾ったが、次のタイトルは1980年代半ばまで持ち越された。
70年代から20世紀末
1970年代からの30年間は浮き沈みの激しい時期であった。1970年代初頭には再びリーグ優勝に近付き、1973-74シーズンには3位、1974-75シーズンには2位となったが、最終節に敗れてレアル・マドリードにタイトルを明け渡している。1977-78シーズンにはセグンダ・ディビシオンのプレーも経験したが、1985-86シーズンには3度目のコパ・デル・レイ優勝を果たした。1990-91シーズンは良くないシーズンであり、昇降格プレーオフ圏内でシーズンを終えたが、レアル・ムルシアとのプレーオフはファーストレグが0-0、セカンドレグが5-2となり、プリメーラ・ディビシオン残留を果たした。1992-93シーズンはコパ・デル・レイで準優勝し、1993-94シーズンには4度目の優勝を飾った。
1994-95シーズンのUEFAカップウィナーズカップではフェイエノールトやチェルシーFCなどヨーロッパの強豪を撃破し、パリのパルク・デ・プランスで行われた決勝ではアーセナルFCと対戦した。90分を終えて1-1と決着がつかず、延長戦にもつれ込んだが、ハーフウェイラインをわずかに過ぎた場所からナジムが撃ったハーフボレーシュートがデヴィッド・シーマンを超えてネットに突き刺さり、延長終了間際にレアル・サラゴサが優勝を決めた。
21世紀
2000-01シーズンにはコパ・デル・レイ決勝でセルタ・デ・ビーゴを3-1で破って5度目の優勝を果たした。2001-02シーズンには最下位でセグンダ・ディビシオンに降格したが、1シーズンでプリメーラ・ディビシオンに再昇格を果たした。
2006年5月後半、アガピト・イグレシアスはアルフォンソ・ソランから会長の座を受け継ぎ、スペインやヨーロッパでもっとも強いチームのひとつを作り上げることを約束した。2006年夏には中盤の補強として移籍金1100万ユーロでパブロ・アイマールを獲得した。2006-07シーズンは攻撃サッカーの信奉者であるビクトル・フェルナンデス監督の下、アイマール、アンドレス・ダレッサンドロ、アルベルト・サパテル、エベルトンなどの攻撃陣がアウェーゲームでも攻撃的なサッカーを展開し、ディエゴ・ミリートはヨーロッパ・ゴールデンシュー3位となる23得点を挙げた。6位という素晴らしい成績でUEFAカップ出場権を獲得した。
2006-07シーズンからほとんど選手の変更はなかったにもかかわらず、2007-08シーズンはクラブの歴史でもっとも失望の残るシーズンとなった。UEFAカップでは1回戦で敗退し、ダレッサンドロの造反などもあって、2008年を迎える頃にはリーグ戦でも順位表を転げ落ちた。2008年1月、求心力が低下したビクトル・フェルナンデス監督は解任され、アンデル・ガリターノ、ハビエル・イルレタ、マノロ・ビジャノバと、1シーズンに3度も監督が代わる混乱ぶりであった。最終節を迎えるまでにアウェーゲームで勝ち点8しか稼げず、最終節のRCDマジョルカ戦は勝利が必須であったが、リカルド・オリヴェイラの2得点もむなしく2-3で敗れ、18位でセグンダ・ディビシオン降格となった。
2008年夏には智将マルセリーノ監督を招聘し、チーム編成などに大きな権限を与えたが、アイマール、ペテル・リュクサン、マツザレム、セルヒオ・ガルシア、D・ミリート、セサル・サンチェスなど攻守に多くの選手がチームを去った。2008-09シーズン開幕から数試合は不満の残る成績だったが、しり上がりに調子を上げ、後半戦には16戦不敗という記録を作った。ラーヨ・バジェカーノとの最終節を残し、1シーズンでのプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした。
2011-12シーズンは開幕から不調が続き、シーズンの半分近くを最下位で過ごした。一時は残留は絶望的で降格候補筆頭と見られていたが、残り12試合で8勝1分3敗、勝ち点25を積み上げ、最終的には勝ち点43の16位として奇跡の大逆転残留を果たした。
2011年6月8日、倒産法に基づく法的整理を申請した[2]。2012年6月、アガピトは会長を退任した。
2015年7月には日本人選手の長谷川アーリアジャスール獲得した。
ライバルと親交
レアル・サラゴサがダービーマッチとみなしているのはCAオサスナとの対戦である。それぞれ隣り合うアラゴン州とナバーラ州で最も規模の大きなサッカークラブであり、CAオサスナの本拠地であるパンプローナとサラゴサは145kmの距離にあり、両者の対戦の際には多くのサポーターがアウェースタジアムに駆けつける。
SDウエスカとの対戦はアラゴン・ダービーと呼ばれる。仲の良いダービーマッチであるのか、思想が激しくぶつかり合うダービーマッチであるのかは意見が分かれるところであり、もっともな理由で判断が分かれている。両者が同じディビジョンに所属したのはわずか2シーズン(直近は2008-09シーズン)しかないし、試合の外では良好なビジネス関係を築き、過去に多くの選手が両クラブの間で移籍しているからである。
レアル・サラゴサはCDヌマンシアとも良好な関係を築いている。これはCDヌマンシアの本拠地であるカスティーリャ・イ・レオン州ソリア県ソリアとサラゴサが比較的近いことも関係していると思われる。[要出典]
タイトル
国内タイトル
- セグンダ・ディビシオン : 1回
- 1977-78
- コパ・デル・レイ : 6回
- 1963-64, 1965-66, 1985-86, 1993-94, 2000-01, 2003-04
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1回
- 2004
国際タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回
- 1994-95
- インターシティーズ・フェアーズカップ : 1回
- 1963-64
成績
近年の成績
シーズン ディビジョン 順位 試合数 勝 分 敗 得点 失点 勝ち点 コパ・デル・レイ 欧州カップ 備考 1997-98 1部 13位 38 12 12 14 45 53 48 準決勝敗退 1998-99 1部 9位 38 16 9 13 57 46 57 3回戦敗退 1999-2000 1部 4位 38 16 15 7 60 40 63 ベスト16 2000-01 1部 17位 38 9 15 14 54 57 42 優勝 UEFAカップ 1回戦敗退 2001-02 1部 20位 38 9 10 19 35 54 37 1回戦敗退 UEFAカップ 2回戦敗退 降格 2002-03 2部 2位 42 20 12 10 54 40 72 2回戦敗退 昇格 2003-04 1部 12位 38 13 9 16 46 55 48 優勝 2004-05 1部 12位 38 14 8 16 52 57 50 2回戦敗退 UEFAカップ ベスト16 2005-06 1部 11位 38 10 16 12 46 51 46 準優勝 2006-07 1部 6位 38 16 12 10 55 43 60 準々決勝敗退 2007-08 1部 18位 38 10 12 16 50 61 42 ベスト16 UEFAカップ 1回戦敗退 降格 2008-09 2部 2位 42 23 12 7 79 42 81 2回戦敗退 昇格 2009-10 1部 14位 38 10 11 17 46 64 41 ベスト32 2010-11 1部 13位 38 12 9 17 40 53 45 ベスト32 2011-12 1部 16位 38 12 7 19 36 61 43 ベスト32 2012-13 1部 20位 38 9 7 22 37 62 34 準々決勝敗退 降格 2013-14 2部 14位 42 13 14 15 49 53 53 2回戦敗退
過去の成績
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記録
- 58シーズン プリメーラ・ディビシオン
- 16シーズン セグンダ・ディビシオン
- 4シーズン テルセーラ・ディビシオン
最多試合出場者
試合数 名前 期間 473試合 シャビエル・アグアド 1990-2003 471試合 ホセ・ルイス・ビオレタ 1963-1977 382試合 フアン・マヌエル・ビジャ 1962-1971
最多時間出場者
出場時間 名前 期間 33,480分 シャビエル・アグアド 1990-2003 29,042分 ホセ・ルイス・ビオレタ 1963-1977 26,984分 フアン・アントニオ・セニョール 1981-1990
最多得点者
得点数 名前 期間 117得点 マルセリーノ・マルティネス 1959-1970 113得点 ホアキン・ムリージョ 1957-1964 112得点 ピチ・アロンソ 1977-1982
個人タイトル受賞者
- 1961-62シーズン フアン・セミナリオ : 24得点
その他
- プリメーラ・ディビシオン最高位 : 2位 (1974-75シーズン)
- ラ・リーガ通算順位表 : 9位
- 1シーズン最多得点者 : エベルトン (28得点)
- 外国人最多試合出場者 : グスタボ・ポジェ (239試合)
- 最多退場者 : シャビエル・アグアド (18回), ルイス・カルロス・クアルテロ (8回), アルベルト・ベルスエ (6回)
- ホームでの最大得点差勝利 : 1978-79シーズン RCDエスパニョール戦 (8-1), 1987-88シーズン セビージャFC戦 (8-1)
- アウェーでの最大得点差勝利 : 1960-61シーズン エルチェCF戦 (7-2)
- ホームでの最大得点差敗北 : 1987-88シーズン レアル・マドリード戦 (1-7), 2011-12シーズン レアル・マドリード戦 (0-6)
- アウェーでの最大得点差敗北 : 1951-52シーズン アスレティック・ビルバオ戦 (1-10)
現所属メンバー
- 2015年7月25日時点
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍選手
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代監督
- ルシアン・ミュラー 1976-1977
- アルセニオ・イグレシアス 1977-1978
- ヴヤディン・ボシュコヴ 1978-1979
- マノーロ・ビジャノバ 1979-1981
- レオ・ベーンハッカー 1981-1984
- エンツォ・フェラーリ 1984-1985
- ルイス・コスタ 1985-1987
- マノーロ・ビジャノバ 1987-1988
- ラドミル・アンティッチ 1988-1990
- イルド・マネイロ 1990-1991
- ビクトル・フェルナンデス 1991-1996
- ビクトル・エスパラド 1996-1997
- ルイス・コスタ 1997-1998
- チェチュ・ロホ 2001-2002
- ルイス・コスタ 2002
- マルコス・アロンソ 2002
- パコ・フローレス 2002-2004
- ビクトル・ムニョス 2004-2006
- ビクトル・フェルナンデス 2006-2008
- アンデル・ガリターノ 2008
- ハビエル・イルレタ 2008
- マノーロ・ビジャノバ 2008
- マルセリーノ・ガルシア・トラル 2008-2009
- ホセ・アウレリオ・ガイ 2009-2010.11
- ハビエル・アギーレ 2010.11-2011.12
- マヌエル・ヒメネス 2011.12-2013
- パコ・エレーラ 2013-2014
- ビクトル・ムニョス 2014
- ランコ・ポポヴィッチ2014-
歴代所属選手
GK
- ホセ・ルイス・チラベルト 1989-1992
- オットー・コンラード 1997-1999
- セサル・サンチェス 2005-2008
- ハビエル・ロペス・バジェホ 2007-2010
- ロベルト・ヒメネス 2010, 2011-2013
DF
- アンドレアス・ブレーメ 1992-1993
- ルイス・カルロス・クアルテロ 1993-2009
- カフー 1994-1995
- キケ・サンチェス・フローレス 1996-1997
- デリオ・トレド 2002-2006
- ガブリエル・ミリート 2003-2007
- アグスティン・アランサバル 2004-2007
- チュス・エレーロ 2005-
- カルロス・ディオゴ 2006-2011
- フアンフラン 2006-2008
- ジェラール・ピケ 2006-2007
- ハビエル・パレデス 2007-
- ロベルト・アジャラ 2007-2010
- フランシスコ・パボン 2007-2010
- マルコ・バビッチ 2009-2010
- イヴァン・オブラドヴィッチ 2009-
- マッテオ・コンティーニ 2010-
MF
- フランク・ライカールト 1987-1988
- キリ・ゴンザレス 1996-1999
- レオナルド・ポンシオ 2003-2006, 2009-2012
- サヴィオ 2003-2006
- アルベルト・サパテル 2004-2009
- ホセ・マリア・モビージャ 2004-
- アルベルト・セラーデス 2005-2008
- パブロ・アイマール 2006-2008
- アンドレス・ダレッサンドロ 2006-2008.1
- ガビ 2007-2011
- アンデル・エレーラ 2009-2011
- ジャーメイン・ペナント 2009-2010
- アベル・アギラール 2009-2010
- エリセウ 2010.1-2010.5
- イジー・ヤロシーク 2010.1-2011
FW
- ホルヘ・バルダーノ 1979-1984
- ラウル・アマリージャ 1980-1985
- フェルナンド・モリエンテス 1995-1997
- サボ・ミロシェビッチ 1998-2000, 2002
- マテ・ビリッチ 2001-2002
- ダビド・ビジャ 2003-2005
エンブレム
1932年の合併時、エンブレムは赤い盾の中にサラゴサ市の紋章であるレオン王国の獅子がある図案を採用した[1]。1951年、チーム名に「レアル」が加わった事に伴い、盾の上に王冠のデザインが追加され、何度かのマイナーチェンジはあるが基本的にこのエンブレムが使われている[1]。
2007年にチーム創立75周年を記念して獅子の絵柄が変更されたがソシオには不評だった。そこで2011年6月からソシオ加入者への人気投票を開始した。9月の締め切り時、総ソシオ23309人中7739人が投票し、6961人が以前のデザインを支持した。そのため暫定的に元のエンブレムに戻す事になったが、シーズン中だったためユニフォームは変更できなかった。ただし投票したソシオ数が少なかったため2012-13年シーズン開幕前まで再投票が行われる事になったが、ここでも旧エンブレムの支持が高い[1]。
脚注
- ^ a b c d e エンブレムの世界 サラゴサ『サッカーマガジン』2012年6月12日号、ベースボール・マガジン社、斉藤健仁、2012年、雑誌23882-6/12, 083頁。
- ^ “スペインのプロサッカー「レアル・サラゴサ」が法的整理を申請”. 不景気.com. (2011年6月10日) 2011年10月12日閲覧。