ルキウス・リウィウス・アンドロニクス

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ルキウス・リウィウス・アンドロニクス
誕生 紀元前280年
タレントゥム
死没 紀元前200年
民族 古代ギリシア
所属 共和政ローマ
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ルキウス・リウィウス・アンドロニクスラテン語: Lucius Livius Andronicus, 紀元前280年 - 紀元前200年頃)は、共和政ローマ時代の劇作家詩人。数多くの古代ギリシアの文芸作品をラテン語に翻訳、古代ローマの劇作およびラテン(ローマ)文学の父と呼ばれる。歴史家であるティトゥス・リウィウスと混同しないこと。喜劇が3作、悲劇が9作残っており[1]ホメロスの『オデュッセイア』を翻訳したことで知られる[2]

略歴[編集]

コグノーメンからギリシア人奴隷であると考えられ、シビュラの書管理十人委員の一人、マルクス・リウィウス・サリナトルに買われて南イタリア(マグナ・グラエキア)のギリシア人都市タレントゥムからローマ市へ渡り、そこで彼の息子たちの家庭教師となって後に解放された[1]。恐らく紀元前272年にローマがタレントゥムを占領した時の捕虜であろう[2]

彼はおそらくローマで最初のギリシア語教師であった。またアンドロニクスはローマでの最初の叙事詩を書いた詩人であり、紀元前240年、まだ文化が洗練されていないローマ人に形式化された演劇、すなわちギリシアの劇を見せたと言われる。古ラテン語のサティルヌス文体で『オデュッセイア』を翻訳している。

キケロは、アンドロニクスの初演はエンニウスが生まれる前の年、紀元前240年とする説と、紀元前209年とする異説も紹介している[3]。前240年は、ローマが第一次ポエニ戦争に勝利した頃で、恐らく主人のサリナトルの影響力によって、ルディ・ロマニ(ローマ大祭)で行うラテン語の演劇を制作、監督した[1]

ティトゥス・リウィウスによると、当時の他の作家と同じく、アンドロニクスも自作の戯曲を演じてもいたが、アンコールに応じすぎて声が嗄れてしまい、奴隷に代わりに歌わせ、自身は演技に集中するようになったという[4]

紀元前207年第二次ポエニ戦争中に凶兆が相次ぎ、ティトゥス・リウィウスによると、9人の処女からなる3つの集団が、歌いながら町中を巡る清めの儀式を行うよう、神祇官によって決定されたが、この歌を作曲したのがアンドロニクスだという[5]。その後、メタウルスの戦いでローマは勝利し、フェストゥスによれば、アンドロニクスの功績を讃えて、アウェンティヌスにあるミネルウァ神殿で、作家や役者を集めて奉献する権利が与えられたという[6]。この年のコンスル(執政官)は、マルクス・リウィウス・サリナトル(上記サリナトル本人もしくはその息子)であるが、そのコネではなく、実力で国家から委託を受けたと考える学者もいる[7]

この頃までに、ローマのルディ(祝祭)で行われる演劇のために、作家や役者のコッレギウム(組合)が出来上がり、ギリシア演劇の技術が取り入れられ、ギリシアのプロ集団と同じように、ラテン語での演劇も洗練されたものになっていったと思われ、プラウトゥスの後期作品である『カシナ』や『プセウドルス』では、高度な演出や演奏が必要とされている[8]

出典[編集]

  1. ^ a b c Goldberg, p. 28.
  2. ^ a b 毛利, p. 103.
  3. ^ キケロ『ブルトゥス』72
  4. ^ リウィウス『ローマ建国史』7.2
  5. ^ リウィウス『ローマ建国史』27.37
  6. ^ Goldberg, p. 29.
  7. ^ Goldberg, p. 31.
  8. ^ Goldberg, pp. 29–30.

参考文献[編集]

  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 
  • Sander M. Goldberg (1995). Epic in Republican Rome. Oxford University Press. ISBN 978-0195093728 
  • リウィウス 著、毛利晶 訳『ローマ建国以来の歴史』 3. イタリア半島の征服(1)、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、2008年。ISBN 9784876981762