ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1761-1829)

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ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
Luise von Hessen-Darmstadt
ヘッセン大公妃
在位 1806年8月14日 - 1829年10月24日

出生 (1761-02-15) 1761年2月15日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ヘッセン=ダルムシュタット方伯領 ダルムシュタット
死去 (1829-10-24) 1829年10月24日(68歳没)
ヘッセン大公国の旗 ヘッセン大公国ベンスハイム
配偶者 ヘッセン大公ルートヴィヒ1世
子女 ルートヴィヒ2世
ルイーゼ
ゲオルク
フリードリヒ
エミール
グスタフ
家名 ヘッセン=ダルムシュタット
父親 ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
母親 マリア・ルイーゼ・アルベルティーネ・ツー・ライニンゲン=ダークスブルク=ファルケンブルク
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ルイーゼ・ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットLuise Henriette Karoline von Hessen-Darmstadt, 1761年2月15日 - 1829年10月24日)は、ドイツヘッセン=ダルムシュタット方伯家の侯女で、ヘッセン大公ルートヴィヒ1世の妻。

生涯[編集]

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の弟ゲオルク・ヴィルヘルムと、ライニンゲン=ダークスブルク=ファルケンブルク伯クリスティアン・カール・ラインハルトの娘でブロイヒ(Herrschaft Broich)の女領主であるルイーゼの間の三女として生まれた。

1770年、フランス王ルイ16世に嫁ぐマリー・アントワネットの輿入れに際して、随員に加えられた。これが縁となり、マリー・アントワネット王妃とは1792年まで文通を続けていた。1777年2月19日、従兄の方伯家世子ルートヴィヒと結婚した。夫は1790年に方伯位を継いでルートヴィヒ10世を称したが、1806年にはヘッセン大公国の創設に際して大公ルートヴィヒ1世と名乗った。

ルイーゼは学識深く、領民に慕われる親切なお妃として知られ、その宮廷やサロンにはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテフリードリヒ・シラーが出入りしていた。ナポレオン・ボナパルトは、美しくかつ当時のヨーロッパで最も才能豊かな女性の1人だった彼女に魅了され、彼女に王妃の地位を与えると約束したと言われる。

子女[編集]

  • ルートヴィヒ2世(1777年 - 1848年) - ヘッセン大公
  • ルイーゼ・カロリーネ・テオドーラ・アマーリエ(1779年 - 1811年) - 1800年、アンハルト=ケーテン公子ルートヴィヒと結婚
  • ルートヴィヒ・ゲオルク・カール・フリードリヒ(1780年 - 1856年)
  • フリードリヒ・アウグスト・カール(1788年 - 1867年)
  • エミール・マクシミリアン・レオポルト(1790年 - 1856年)
  • フェルディナント・グスタフ・ヴィルヘルム・フリードリヒ(1791年 - 1806年)

参考文献[編集]