ルイ4世アンリ (コンデ公)

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ルイ4世アンリ
Louis IV Henri de Bourbon-Condé
コンデ公・ブルボン公
在位 1710年 - 1740年

出生 (1692-08-18) 1692年8月18日
フランス王国ヴェルサイユ
死去 (1740-01-27) 1740年1月27日(47歳没)
フランス王国シャンティイ城
埋葬 フランス王国コルマール、サン=マルタン教会
配偶者 マリー・アンヌ・ド・ブルボン
  カロリーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
子女 ルイ5世ジョゼフ
家名 ブルボン=コンデ家
父親 コンデ公ルイ3世
母親 ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン
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ルイ4世アンリ・ド・ブルボン=コンデフランス語: Louis IV Henri de Bourbon-Condé)またはルイ・アンリ・ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデフランス語: Louis Henri Joseph de Bourbon-Condé, 1692年8月18日 - 1740年1月27日)は、フランスの貴族、政治家。第7代コンデ公。一般に「ブルボン公」の称号で知られ、同時代人には「公爵」(Monsieur le Duc)と呼ばれた。アンギャン公(duc d'Enghien)、ギーズ公、ベルガルド公(duc de Bellegarde)、サンセール伯(comte de Sancerre)の諸称号も保持していた。

ブルボン家の支流ブルボン=コンデ家の総帥として、死去する1740年まで宮廷で重きを成した。ルイ15世の幼少時、摂政会議議長を務め、摂政オルレアン公フィリップ2世の死後、1723年から1726年まで宰相になった。

生涯[編集]

1692年8月18日、コンデ公ルイ3世ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボンルイ14世モンテスパン夫人との間に生まれた非嫡出子)の第7子(夭折を免れた子の中では最年長)としてヴェルサイユに生まれる。コンデ公ルイ2世(大コンデ)の曾孫に当たる。1715年にルイ14世が逝去し、曾孫ルイ15世が即位するが、まだ5歳であったので、摂政にルイ14世の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が就任する。1723年にオルレアン公が死去すると、摂政会議議長であったブルボン公は宰相首相Premier Ministre、プルミエール・ミニストル)となる。

宰相としてのブルボン公はまず、王の婚約破棄にとりかかった。1724年当時のルイ15世は14歳だったが、婚約者のマリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーンはまだ6歳の子供であり、跡継ぎが生まれるまで10年はかかる見通しであった。ここでルイ15世が亡くなると、叔父フェリペ5世が王位継承に名乗り出る可能性が高い(実際、ラシュタット条約の改正のために四国同盟戦争を起こした)。スペイン継承戦争終結から10年しか経ってないフランスは戦争を避けたかった。そこで、ブルボン公はスペイン・ブルボン家との関係悪化を承知の上、王とマリアナ・ビクトリアとの婚約を破棄させ、元ポーランド王スタニスワフ1世の娘マリー・レクザンスカを王妃に迎えた。

ブルボン公はまた、1724年ユグノー迫害を再開した。フランスのプロテスタントはルイ14世時代には迫害されていたが、ルイ15世の即位後は摂政のオルレアン公が宗教に興味ないこともあって、フォンテーヌブローの勅令が破棄されなかったにもかかわらず、迫害は少なくなっていた。

しかしルイ14世以来の財政問題に直面し、財政再建に失敗したため人気を失い、1726年に辞任した。

子女[編集]

1713年7月9日コンティ公フランソワ・ルイと父方の叔母マリー=テレーズの娘で従姉であるマリー・アンヌ・ド・ブルボン(Marie-Anne de Bourbon, 1689年 - 1720年)と結婚するが、2人の間には子供が生まれなかった。なお、ルイ・アンリの妹ルイーズ・エリザベートが同時期にマリー・アンヌの弟コンティ公ルイ・アルマン2世と結婚している。

1728年7月23日、ヘッセン=ローテンブルク辺境伯エルンスト2世レオポルトの娘カロリーヌ(1714年 - 1741年)と2度目の結婚をする。2人の間には一子ルイ・ジョゼフ(1736年 - 1818年)が生まれた。ルイ・ジョゼフは第8代コンデ公となり、フランス革命戦争でブルボン=コンデ家を率いることとなる。

脚注[編集]

先代
ルイ3世
コンデ公
1710年 - 1740年
次代
ルイ5世ジョゼフ
先代
ルイ1世
アンギャン公
1710年 - 1740年
次代
ルイ3世ジョゼフ