リディツェ

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統計
面積 4.74 km²
人口 435 (2006)

リディツェチェコ語Lidiceドイツ語Liditz)は、チェコスロバキア(現在チェコ共和国)の小村である。日本語では、リディチェとも表記される。第二次世界大戦中にこの村は、ナチス幹部の暗殺事件の報復としてドイツ軍により完全に破壊された。成人男性は全員殺され、女性や子供は強制収容所へ送られ、住民のいなくなった村は更地にされた。

歴史

第二次世界大戦のリディツェの追悼ポスター

この村の記述が最初に表れるのは、1318年である。この地域はのち工業が発展し、現在の住民の多数は近くの クラドノ(Kladno)や スラニー(Slaný)等の町の工場や鉱山に働きに出ている。

リディツェ村の虐殺

1941年ラインハルト・ハイドリヒベーメン・メーレン保護領(現在のチェコ)副総督に任じられ、同地の対レジスタンス作戦を担当する。ハイドリヒはきわめて有能で、チェコのレジスタンス組織は苦境に陥った。危機感を抱いた在英チェコスロバキア亡命政府とイギリス政府は、ハイドリヒの暗殺作戦を立案し、在英の亡命チェコ軍人からヨゼフ・ガプチーク曹長、ヤン・クビシュ軍曹(Jan Kubiš)ら10人を選抜する。暗殺部隊はイギリス軍機でプラハ郊外に落下傘降下し、市内潜入に成功した[1]

1942年5月27日 、ハイドリヒはいつものようにプラハ郊外の宿舎から、執務室がある市内のプラハ城に専用車で出勤した。朝10時半頃、車がホレショヴィチェ通り(Holešovice)にさしかかった時、待ち伏せしていたガプチークとクビシュは爆弾を投げつけた(詳しくはエンスラポイド作戦)。ハイドリヒの乗車は破壊され、重傷を負ったハイドリヒは病院に担ぎ込まれた。ガプチークとクビシュは現場から逃亡した[2]

証拠はなかったが、クラドノ保安警察及びSD指揮官ホルスト・ベーメ[3]は、リディツェの村民がこの襲撃事件の犯人を隠匿していたと考えた。襲撃の翌日の5月28日には、ゲシュタポが同村に現れて、2家族(男性8人、女性7人)を逮捕している。この時には、村民たちはこれで災厄は終わったと思いこんでいた[4]。が、ベーメとベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察指導者カール・ヘルマン・フランクは、リディツェの完全な破壊をアドルフ・ヒトラーに上申していた。

6月4日、ハイドリヒは感染症で死亡した[5]。ヒトラーは怒り、6月9日、上申されたリディツェ村の掃討を実行する総統命令を出した[6]

旧リディツェの跡地(現在は追悼碑となっている)

翌日の6月10日保安警察部隊が再びリディツェ村にやってきた。前回とは異なり、約500人[4]いたリディツェ村の村民全員が一箇所に集められ、15歳以上の男性約200人は納屋に押し込まれたのち、10人ずつ引き出されては銃殺されていった[4]。なおこの際の処刑の様子は保安警察が映像に収めており、後にニュルンベルク裁判で証拠として使用された[4]

女性約180人は、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られた[7]。四分の一がチフスと過労により死亡した。

約100人の子供は、ウッチ(Łódź, 現在のポーランドに存在)のグナイゼナウ通り(Gneisenaustraße)の強制収容所に送られ、人種的に分類された。そこでアーリア化に適していると判断された8名の子供のみがドイツに送られ(戦後に発見され、チェコスロヴァキアに送還された)、残りの子供はヘウムノ強制収容所に送られた[8]

チェコ政府はヘウムノの収容所で死亡したと思われた乳児の一人で1941年生まれのマルタ・フロニコヴァ(Marta Hroníkova)が生存していることを2005年に発表した。この追跡はドイツ人記者ケルスティン・シヒャ(Kerstin Schicha)とドイツ人弁護士フランク・メッツィング(Frank Metzing)により行われた。

暗殺作戦を担当したガブツィクらはプラハ市内の教会に隠れていたが、6月18日に発見され、銃撃戦で死亡した。6月24日にはレジャーキ(Ležáky)村もリディツェ村と同様に破壊された[9]。ハイドリヒ暗殺へのナチスの報復で処刑された者は約1300人に上った[10]

ナチスはヨーロッパ占領地域で行なった住民の虐殺を秘匿することが多かったが、リディツェ村の事件は大きく宣伝した。この事件は連合国のメディアも取り上げ、本件を題材に、チェコの外交官アヴィグドル・ダガンが制作を主導し、ハンフリー・ジェニングズ監督した宣伝映画「沈黙の村」(The Silent Village)が製作され、事件直後の1943年に公開された。

現在のリディツェ

現在のリディツェの地図

リディツェ村は完全に消滅したが、戦後の1949年に再建された。村の破壊が世界に知れ渡ると、ナチスの蛮行に対する抗議や、虐殺された人々の追悼の印として、「リディツェ」の名を冠する町が諸外国(特に中南米諸国)に登場した。その例としてメキシコ・シティサン・ヘロニモ=リディセ(San Jerónimo-Lídice)や、ベネズエラの首都カラカスにあるリディセ地区とそこにあるリディセ病院、パナマのリディセ・デ・カピラや、ブラジルの町名がある。

第二次世界大戦ドイツ空軍によって徹底的に破壊された英国イングランドの都市コヴェントリーの広場は、その後リディツェの名前を付けられた。米国イリノイ州クレストヒルの近傍は、シュテルン・パークからリディツェに名前を変更した。また、リディツェはいくつかの国における女性の名前にも影響を与えた。

現在のリディツェ村は、元の村の跡地に隣接する場所に新しい村が再建されており、大きな追悼碑があることを除いては、その地域の近隣の村とよく似た村となっている。ちなみに、同時期にナチスにより破壊されたレジャーキ村は再建されていない。

参考文献

  • マイケル・ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)ISBN 4422300326  ISBN 978-4422300320
  • ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)ISBN 4562039760  ISBN 978-4562039760
  • 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)ISBN 4760120580 ISBN 978-4760120581
  • 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)ISBN 4624111826 ISBN 978-4624111823
  • 増田幸弘『黒いチェコ』彩流社、2015年。ISBN 978-4779170409 

脚注

  1. ^ 『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』160 - 161ページ
  2. ^ ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)162 - 163ページ
  3. ^ ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)168 - 169ページ(同書では「カール・ベーメ」になっているが誤記と思われる)
  4. ^ a b c d ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)168 - 169ページ
  5. ^ ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)164 - 165ページ
  6. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)556 - 557ページ
  7. ^ ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)170 - 171ページ
  8. ^ マイケル・ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)262 - 263ページ
  9. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)558 - 559ページ
  10. ^ 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)72-73ページ

関連項目

1943年に管弦楽曲『リディツェへの追悼』を作曲した。

外部リンク