ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨーゼフ・アントン
Joseph Anton
ハプスブルク=ロートリンゲン家
ヨーゼフ・アントン大公(バラバーシュ・ミクローシュ画、1846年)

全名
称号 エスターライヒ大公
出生 (1776-03-09) 1776年3月9日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死去 (1847-01-13) 1847年1月13日(70歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダ
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダブダ城、宮中伯墓所
配偶者 アレクサンドラ・パヴロヴナ・ロマノヴァ
  ヘルミーネ・フォン・アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム
  マリア・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク
子女
父親 レオポルト2世
母親 マリア・ルドヴィカ
役職 ハンガリー宮中伯
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
テンプレートを表示

ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒドイツ語: Joseph Anton von Österreich, 1776年3月9日 - 1847年1月13日)は、オーストリア帝国の皇族。ハンガリー語名はハーブスブルグ・ヨージェフ・アンタルHabsburg József Antal)、イタリア語名はジュゼッペ・アントニオ・ダズブルゴ=ロレーナGiuseppe Antonio d'Asburgo-Lorena)。

ハプスブルク=ロートリンゲン家ハンガリーにおける分家の祖として名高い。

生涯[編集]

トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)とその妃マリア・ルイーザの七男としてフィレンツェで生まれた。1796年、前年に死去した兄のアレクサンダー・レオポルト英語版大公に代わってハンガリー宮中伯英語版ハンガリー語: Nádor)となり、死去するまでその地位にあった。

家族[編集]

生涯で3度の結婚をしている。

1799年10月30日、サンクトペテルブルクロシア皇女アレクサンドラ・パヴロヴナパーヴェル1世の長女)と結婚した。1801年、アレクサンドラは長女アレクサンドリーネを死産したのち、急死した。

1815年8月30日、シャウムブルク城ドイツ語版でアンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク=ホイム侯女ヘルミーネと再婚した。ヘルミーネは1817年に男女の双生児を出産後、急死した。また、ヘルミーネが産んだ子供はいずれも生涯独身であったため子孫はない。

1819年8月24日、キルヒハイム・ウンター・テックで21歳のヴュルテンベルク公女マリア・ドロテア(先妻ヘルミーネの従妹)と結婚した。マリア・ドロテアとの間には2男3女を儲けた。

ヨージェフ・アンタル大公の記念像(ブダペスト)