ヨハン・シュトラウス1世
ヨハン・シュトラウス1世 Johann Strauss I | |
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Johann Strauss I, etching from 1835 | |
基本情報 | |
出生名 |
ヨハン・バプティスト・シュトラウス (Johann Baptist Strauss) |
別名 |
ワルツ王 ワルツの父 |
生誕 |
1804年3月14日 神聖ローマ帝国、ウィーン |
出身地 | オーストリア帝国、ウィーン |
死没 |
1849年9月25日(45歳没) オーストリア帝国、ウィーン |
ジャンル | ウィンナ・ワルツ |
職業 |
作曲家 指揮者 ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
活動期間 | 1819年 - 1849年 |
ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I (Vater)、1804年3月14日 - 1849年9月25日)は、オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニストである。
生前は「ワルツ王」と呼ばれたが[1]、死後には長男ヨハン・シュトラウス2世にその名を奪われ、「ワルツの父」と呼ばれるようになった。音楽一家としてのシュトラウス家の始祖である。
生涯
前半生
1804年3月14日、ウィーンのレオポルトシュタットのフロリアン通りで生まれる[2]。父フランツ・ボルギアスはここで居酒屋「聖フロリアン」を経営していた[2]。幼い頃からヨハンは、その風貌から「ムーア人顔」というあだ名で呼ばれていた[3]。ヨハンはこのあだ名をとても気に入っている様子だったという[3]。
4歳の頃に一家はワイントラウベン通りに転居し、新たに「良き羊飼い」という居酒屋を開いたが[4]、ヨハンが幼いころに倒産してしまった[5]。ナポレオン戦争とウィーン会議によってオーストリアの財政は逼迫し、社会は深刻な不景気に陥っていたのである[4]。母バーバラは過労によって病死し、父フランツ・ボルギアスは借金苦からドナウ川に投身自殺をしてしまう[6]。孤児となったヨハンは親戚に引き取られ、製本屋に丁稚奉公をするようになった[6][5]。
パーマー楽団に入団
ある日、ヨハンは奉公先を飛び出して、近所に住んでいたポリシャンスキーという人物からヴァイオリンの手ほどきを受け[4]、流しの楽士となった。19世紀初頭には演奏家という職業は存在していなかったが、酒場や料理店には「リンツのヴァイオリン弾き」と呼ばれた出稼ぎの楽士が多くおり、田舎風の素朴なワルツを弾いていた[7]。居酒屋の息子だったヨハンは、幼いころから自宅で楽士たちの姿を見て育ったのである。
ヨハンの幼少期については、シュトラウス一族もほとんど何も知らなかったが、のちに4男のエドゥアルトは、自身の『回想』において次のように述べている[4]。
家族がヨハン・シュトラウスの幼少期について知っていることが一つだけある。居酒屋の二部屋の中の大きい方で、店の楽士が演奏していたとき、少年ヨハンは、父親に見つからないよう聞くために、テーブルの下に隠れていたということである。
15歳となった1819年、ヨハンはミヒャエル・パーマーの楽団に入り、3歳年上の楽団員ヨーゼフ・ランナーと仲良くなる[8]。ふたりは正反対の性格であったがすぐに打ち解け、ともに下宿生活をするようになった[8]。ふたりは貧乏だった頃、ひとつのタキシードを共用して演奏会に行ったと伝えられる[9]ランナーはヴァイオリン奏者であり、楽団ではヨハンもまた彼と同様にヴァイオリンの担当となった。
ランナーと共に独立
楽団員への給料を自身の飲食代に使ってしまうなどの行為を繰り返す楽団長パーマーに我慢ならず、兄弟子ランナーは独立を決意する[8]。ランナーの勧誘に応じて、ヨハンもパーマーのもとを離れてランナーの楽団に入った[8]。パーマー楽団から独立したヨハンとランナーは、パーマーの楽曲を使えなくなったことから自分で作曲する必要に迫られ、そろって音楽理論を勉強した[8]。
やがてランナーの楽団は師パーマーの楽団を超える絶大な人気を獲得し、出演依頼に完全に応えることができなくなった[8]。そのためランナーは楽団を二つに分け、楽団の片方をシュトラウスに任せるようになった[10]。するとウィーン市民の人気は、ランナーではなくシュトラウスの楽団に集まるようになり、仲のよかった両者の間に暗雲が立ち込め始めた[10]。
町はずれに住んでいたヨハンは、居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムと出会い、男女の仲になる。やがて恋人アンナは妊娠し、それを機に彼女と結婚する[5]。結婚のために昇給をランナーに願い出たが、拒否されてしまう[10]。ランナーとの仲は次第に険悪になっていった。またランナーはシュトラウスの作曲したワルツを買い取り、自分の作品として公刊した[10]。まったく根拠が無かったわけではないが、シュトラウスの曲をランナーが盗作したとの噂が立つようになった[11]。
ワルツ合戦
ランナーとの対立が決定的となったのは、1828年にウィーン郊外の舞踏場ボックで演奏を行った時である[10]。ランナーとシュトラウスは揃って演奏したが、どういうわけか激しい口喧嘩が始まり、やがてヴァイオリンの弓や譜面台や太鼓のばちが空中を飛び交うありさまとなった[10]。ふたりの関係は完全にこじれ、シュトラウスは自身の楽団を組織して自立した。こうして、世に「ワルツ合戦」と称される両者の激しい競合が始まった。ヨハンとランナーは訣別から3年後の1831年に仲直りをしたが、かつてのような心を開きあった交際に戻ることはできなかった[12]。
ヨハンはヨーロッパ中の大都市に演奏旅行をするようになり、ワルツの人気はとりわけ西ヨーロッパを風靡した[13]。1838年、ヴィクトリア女王の戴冠式に合わせて、ワルツが冷遇されていたイギリスへの演奏旅行を行い、イギリスでもワルツを認めさせたことはヨハンの大きな功績のひとつである。
息子ヨハンのデビュー
1843年、ライバルだったランナーが世を去り、主な舞踏会やコンサートをヨハンが独占することとなった[1]。この時期からヨハンは、ウィーンの『劇場新聞』やベルリンの批評家などから「ワルツ王」と評されるようになった[1]。しかし、翌1844年には自身の息子であるヨハン・シュトラウス2世が音楽家としての活動を開始した。ヨハン2世は父の影響を大いに受けて音楽家になることを夢見ていたのだが、音楽家という職業が浮き草稼業であることを知っていたためにヨハンはそれに猛反対し、息子をむりやり総合技術専門学校(現ウィーン工科大学)に入学させた[14]。しかしヨハン2世は夢を諦めきれず、大学を中退して音楽の勉強をし始めたのであった。
ヨハンは息子の行動に驚き、そのデビューをあらゆる手段を使って妨害しようとした[15]。ウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけてコンサート会場を使わせないようにし、配下の楽団員には息子に味方することを固く禁じ、あげきのはてには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとした[15]。この年、ヨハンは妻アンナと離婚した[14]。
ランナーが死んで「ワルツ合戦」は幕引きとなったが、その翌年から今度はシュトラウス親子の競合の時代が始まった。1846年から47年にかけてシュトラウス親子は、同じオペラに基づく楽曲3曲をそれぞれ作曲した[16]。これらはいずれもカドリーユであることから「カドリーユ対決」と呼ばれる[16]。
1848年革命
1846年、ヨハンは宮廷舞踏会の音楽監督に召し上げられた[17]。2年後の1848年、三月革命が勃発した。宮廷舞踏会での役職を持つ身でありながらヨハンは革命側に与し、『自由行進曲』『学生連隊行進曲』などを相次いで発表した。『自由行進曲』の初版ピアノ譜からは、それまで必ず自分の名前とともに併記した「宮廷舞踏会・音楽監督兼指揮者」の肩書を外してすらいる[18]。ヨハンは市民(ブルジョワジー)の一員として、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの抑圧体制を打破しようとしたのであった。
しかし革命運動はしだいに先鋭化してきて、革命の推進主体が市民から労働者(プロレタリアート)へと変わっていった。彼らはメッテルニヒの抑圧体制を打破しようとするのみならず、君主制の打倒を目指していた。陸軍大臣テオドール・ラトゥール伯爵が殺害されて街灯に吊り下げられるなど、ウィーンはフランス革命後さながらの恐怖政治が展開される一歩手前まで来ていた。この事態にヨハンら市民は恐怖を覚えた。ヨハンはリベラルな体制を望んではいたが、君主制の打倒を望んでいたわけではなかった[18]。そのため、ヨハンはオーストリア帝国の英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、革命派からは裏切り者呼ばわりされることとなった[17]。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、「ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである」とまで言われるようになった[19]。
晩年
1849年、演奏旅行でイギリスを訪れた。この際にヨハンは、1848年革命によって亡命に追い込まれていたメッテルニヒとロンドンで出会い、彼の前でワルツを指揮した[20]。ウィンナ・ワルツを聴いて懐かしさに感激したメッテルニヒは、ヨハンの手を取って涙ながらに感謝の言葉を述べたという[20]。このイギリスでの演奏旅行の時、ヨハンはしばしば体調不良を訴えた[20]。ヨハンはかなり衰弱していたのである。
イギリスから帰ってきたヨハンは、愛人エミーリエ・トランプッシュのもとに帰った[20]。その時エミーリエに生ませた子のひとりが猩紅熱にかかっており、衰弱していたヨハンはすぐさま感染し、そのまま死んでしまった[20]。このときエミーリエはヨハンの遺体を置き去りにして、持ち運びできる荷物をすべて持ったまま去ったため、ヨハン2世とアンナがその遺体を引き取らなければならなくなった。この際ヨハン2世はショックを受け、生涯にわたり死の恐怖におびえ続けたらしい[21]。
ヨハンの死後、シュトラウス楽団はヨハン2世が継承した。宮廷舞踏会音楽監督の役職はフィリップ・ファールバッハ1世が引き継いだが、やがて1863年にヨハン2世が、さらにその後を1872年に4男のエドゥアルトが引き継いだ。
年表
- 1804年:レオポルトシュタットで誕生
- 1819年:15歳のときにパーマー楽団に入団、ランナーと出会う
- 1825年:アンナと結婚、長男ヨハン2世誕生
- 1827年:次男ヨーゼフ誕生
- 1828年:ランナーと喧嘩し、独立する
- 1829年:「シュペール」の音楽監督に就任[22]
- 1831年:ランナーと仲直りする
- 1835年:四男エドゥアルト誕生
- 1844年:息子ヨハン2世が音楽家デビュー、アンナと離婚
- 1846年:宮廷舞踏会音楽監督に就任
- 1848年:1848年革命に加担、やがて離反し、ラデツキー行進曲を発表
- 1949年:イギリスへの演奏旅行、帰国後に死去
逸話
- シュトラウスとランナーはウィーンで絶対的な人気を誇っており、1829年にワルシャワからやって来たショパンはふたりの影に隠れて注目を集めることができなかった[23]。最初の自作ワルツ『華麗なる大ワルツ』をウィーンで出版することを望んでいたショパンであったが、断念せざるを得なかった[23]。この際にショパンはこう嘆いた[23]。「ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ…。」
家族
- 妻マリア・アンナ・シュトレイムとのとの間に生まれた子女
- 愛人エミーリエ・トランプッシュとの間に生まれた子女
- 三女 エミーリエ・テレジア・ヨハンナ
- 五男 ヨハン・ヴィルヘルム
- 四女 クレメンティナ・エミリア・テレジア・エリーザベト
- 六男 カール・ヨーゼフ
- 七男 ヨーゼフ・モリッツ
- 五女 マリア・ウィルヘルミナ
- 六女 テレサ・カロリーナ
- 七女 ヴィルヘルミーネ
作品
ワルツ
- 小鳩のワルツ (Täuberln-Walzer) op.1
- ウィーンの謝肉祭 (Wiener Karneval) op.3
- ケッテンブリュッケン・ワルツ (Kettenbrücken-Walzer) op.4
- パガニーニ風ワルツ (Walzer a la Paganini) op.11
- クラップフェンの森 (Krapfen-Waldel) op.12
- 人生は踊り (Das Leben ein Tanz) op.49
- 宮廷舞踏会 (Hofball Tanze) op.51
- インドの舞姫 (Bajaderen) op.53
- エリーザベト・ワルツ (Elisabethen-Walzer) op.71
- うぐいすのワルツ (Philomelen-Walzer) op.82
- パリ (Paris) op.101
- ヴィクトリア女王讃歌 (Huldigung der Ké'migin Victoria von Grossbritannien) op.103
- ロンドン・シーズン・ワルツ (Londoner Saison-Walzer) op.112
- ウィーン情緒 (Wiener Gemüts) op.116
- ミルテのワルツ (Myrthen-walzer) op.118
- ツェツィーリエ・ワルツ (Cäcilien-walzer) op.120
- ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタのモチーフによる
- ドナウ川の歌 (Donaulieder) op.127
- ローレライ=ラインの調べ (Loreley-Rhein-Klänge) op.154
- オーストリアの歓呼の響き (Österreich jubel-klänge) op.179
- 真夏の夜の夢 (Sommernachts-Träume) op.180
- つばめ (Die Schwalben) op.208
- ゾルゲンブレッヒャー (Sorgenbrecher) op.230
- さすらい人の別れ (Des Wanderers Lebewohl) op.237
ギャロップ
- シャンペン (Champagne) op.8
- ため息のギャロップ (Seufzer-Galoppe) op.9
- 中国人のギャロップ (Chineser-Galoppe) op.20
- 競馬ギャロップ (Wettrennen-Galoppe) op.29a
- ヴィルヘルム・テル・ギャロップ (Wilhelm tell-Galoppe) op.29b
- 入場ギャロップ (Einzugs-Galopp) op.35
- シュペール・ギャロップ (Sperl-Galopp) op.42
- 旅行ギャロップ (Reise-Galopp) op.85
- 舞踏会の夜のギャロップ (Ballnacht-Galopp) op.86
- 若人の情熱 (Jugendfeuer) op.90
- カチューシャ・ギャロップ (Cachucha-Galopp) op.97
- ヴェルサイユ・ギャロップ (Versailler Galopp) op.107
- ジプシー・ギャロップ (Gitana-Galopp) op.108
- インド人のギャロップ (Indianer-Galopp) op.111
- リストのモチーフによる狂乱のギャロップ (Furioso-Galopp nach Liszt's Motiven) op.114
ポルカ
- シュペール・ポルカ (Beliebte Sperl-Polka) op.133
- アンネン・ポルカ (Annen-Polka) op.137
- マリアンカ・ポルカ (Marianka-Polka) op.173
- アイゼレとバイゼレ (Eisele und Beisele) op. 202
- ピーフケとプーフケ (Piefke und Pufka) op.235
- アリス・ポルカ (Alice-Polka) op.238
- フレデリーカ・ポルカ (Frederica-Polka) op.239
- エクゼター・ポルカ (Exeter-Polka) op.249
コティヨン
- フラ・ディアボロ・コティヨン(Fra Diavolo-Cotillons)op.41
カドリーユ
- 祝典カドリーユ(Jubel-Quadrille)op.130
幻想曲
- エルンストの思い出 またはベネチアの謝肉祭(Erinnerung an Ernst oder: Der Carneval in Venedig)op.126
行進曲
- オーストリア国防軍行進曲 (Österreichischer-Nationalgarde-Marsch) op.221
- 学生連隊行進曲 (Marsch der Studentenlegion) op.223
- 自由行進曲 (Freiheits-marsch) op.226
- ラデツキー行進曲(Radetzky-Marsch) op. 228
出典
- ^ a b c 加藤(2003) p.61
- ^ a b 加藤(2003) p.50
- ^ a b 小宮(2000) p.19
- ^ a b c d 加藤(2003) p.51
- ^ a b c 倉田(2006) p.175
- ^ a b 小宮(2000) p.22
- ^ 小宮(2000) p.24
- ^ a b c d e f 渡辺(1989年2月) p.298
- ^ 増田(1998) p.88
- ^ a b c d e f 渡辺(1989年2月) p.299
- ^ 小宮(2000) p.31
- ^ 渡辺(1989年2月) p.300
- ^ ジェラヴィッチ(1994) p.107
- ^ a b 倉田(2006) p.176
- ^ a b 小宮(2000) p.48
- ^ a b 鍵山(2006) p.30
- ^ a b 倉田(2006) p.177
- ^ a b 加藤(2003) p.94
- ^ 『名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)』(1959) p.231
- ^ a b c d e 小宮(2000) p.64
- ^ ディアゴスティーニ刊『The Classic Collection』第8号より
- ^ ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2012曲目解説〈シュペール・ギャロップ〉を参照。
- ^ a b c 加藤(2003) p.55
参考文献
- 『名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)』(音楽之友社、1959年3月5日)
- 吉崎道夫『クラシック音楽案内』朝日新聞社、1978年(昭和53年)。ISBN 4-14-091058-5。
- 渡辺護『ウィーン音楽文化史(上)』音楽之友社、1989年2月20日。ISBN 4-276-11062-9。
- バーバラ・ジェラヴィッチ 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年(平成6年)。ISBN 4-634-65600-0。
- 平田達治『輪舞の都ウィーン』人文書院、1996年(平成8年)。ISBN 4-409-51040-1。
- 増田芳雄「ウィーンのオペッレター 1.ヨハン・シュトラウスの“こうもり"(DieFledermaus)について」(人間環境科学 第7巻、1998年)
- 小宮正安『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』中央公論新社〈中公新書〉、2000年12月。ISBN 4-12-101567-3。
- 加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2003年12月20日。ISBN 4-14-001985-9。
- 倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会、2006年(平成18年)。ISBN 4-14-091058-5。
- 鍵山由美「バルフの<ボヘミアの少女>とシュトラウス父子の<ジプシー娘のカドリーユ> : 19世紀中頃の音楽の流通と伝播に関する一考察」(お茶の水音楽論集 第8号、2006年4月)
- 井上和男『クラシック音楽作品名辞典 第3版』三省堂、2009年6月15日。ISBN 978-4-385-13549-6。
- 饗庭孝男、伊藤哲夫、加藤雅彦、小宮正安、西原稔、檜山哲彦、平田達治『ウィーン 多民族文化のフーガ』大修館書店、2010年(平成22年)。ISBN 4-469-21328-7{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。