モンゴル国

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モンゴル国
Монгол Улс
モンゴルの国旗
国旗 国章
国の標語:なし
国歌Монгол Улсын Төрийн Дуулал
モンゴルの位置
公用語 モンゴル語
首都 ウランバートル
最大の都市 ウランバートル
政府
大統領 ツァヒアギーン・エルベグドルジ
首相 チメド・サイハンビレグ
面積
総計 1,566,500km218位
水面積率 0.6%
人口
総計(2012年 2,868,000人(135位
人口密度 2人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 17兆5,502億[1]トゥグルグ
GDP(MER
合計(2013年115億[1]ドル(129位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2013年268億[1]ドル(121位
1人あたり 9,293[1]ドル
建国
清朝から独立1911年12月29日
人民共和国成立1924年11月26日
社会主義放棄1992年2月13日
通貨 トゥグルグMNT
時間帯 UTC(+7 ~ 8) (DST:+8 ~ 9)
ISO 3166-1 MN / MNG
ccTLD .mn
国際電話番号 976
PREFIXは JT JU JV
モンゴルの歴史
モンゴルの歴史
モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
月氏 匈奴 東胡
南匈奴
丁零 鮮卑
高車 柔然
鉄勒 突厥
  東突厥
回鶻
黠戛斯 達靼 契丹
ナイマン ケレイト 大遼
(乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
ドチン・ドルベン
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

モンゴル国(モンゴルこく、モンゴル語: Монгол Улс)、通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家。東と南を中華人民共和国(中国)内モンゴル自治区と、西を中国・新疆ウイグル自治区と、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国首都ウランバートル

モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下において中国語外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。これに対し、南部の一帯が内蒙古で、現在は中国領とされており、「蒙古族」(中国国籍のモンゴル人)のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置かれる事で実効支配されている。

国名

正式名称は、モンゴル語キリル文字表記で Монгол Улс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写Mongol Uls

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル

モンゴル語名「モンゴル・オルス(Монгол Улс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルスУлс)」は「国」を意味する。

歴史

19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホモンゴル語版ロシア語版中国語版のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン中国語版英語版らは漢人商人の活動に反発を覚え、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドモンゴル語版中国語版英語版らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。

ボグド・ハーン

1911年辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちはからの独立を宣言(Mongolian Revolution of 1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシア中華民国への配慮から、内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年キャフタ条約中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

1917年ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃するが、1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドーダンザンスフバートルチョイバルサン民族主義者社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家としてスタートすることになった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノ英語版ブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。

モンゴル人民共和国は、1924年 - 1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。

チョイバルサン

1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した[2]1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された[2]。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され約17,000名の僧侶が処刑された[2]。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳等57,000人がゲンデン首相に係るスパイに関与したとして逮捕され20,000人が処刑された[2]。チョイバルサンは当初バラーディンロシア語版らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語ラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7%だった識字率1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。1945年ソ連対日参戦ではモンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐[3]し、その占領下では東モンゴル自治政府内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が国家承認の条件[4][5]とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)と1945年ソ連対日参戦1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件の時のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行っていないが中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。また、中華民国は1946年1月にいったんモンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、戦後台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側5ヶ国と、日本など西側13ヶ国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年ソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。

1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた[6]。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。

ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。

政治

国民大会議

社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。

政党

軍事

陸軍のBMP-1歩兵戦闘車

モンゴル国の正式国軍であるモンゴル国軍は、社会主義時代のモンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。

総兵力は9100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年現在)。モンゴル国軍の装備は主に人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、戦闘機攻撃ヘリコプター等はすべて退役している。現在保有するのはMi-8Tなど少数のみ。地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備のあげく全機が退役した。

最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、アメリカ合衆国対イラク軍事行動に際してはいち早く支持を表明したほか、イラクでの復興支援にもソ連製装甲兵員輸送車に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。他にもモンゴル国軍は、アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)やコンゴ民主共和国でのPKO活動にも参加している。

なお国土が海に面していないため海軍は存在しないが、モンゴル船籍の商船は世界中の海で活躍している。

モンゴル国境警備隊

国境警備隊は国軍とは別組織となっている。モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。

国際関係

対中関係

モンゴルは、今でも民衆には反中感情がある。2005年末、「ダヤル・モンゴル運動(汎モンゴル運動)」と名乗る団体が中国系のスーパーホテルを襲撃した。中国人韓国人に対する嫌がらせや脅迫は個別的には起きていたが、集団としては新しい現象だった。現在に到るまで、ダヤル・モンゴル運動等複数の極右団体が中国・韓国系の文化・住民の排斥を訴えている。彼らの主張を支持する層は広範に存在する。例えば、彼らは広告や看板に漢字やハングルを使用させず、見つけた場合は看板を取り外し、店を破壊すると宣言している。かつてウランバートルには漢字やハングルが溢れていたが、今やほとんど存在しない。店主たちは襲撃を避ける為に、看板を自主的に塗り替え、それが社会的に容認されている[7]

現在、モンゴルが産出する鉱物の半分以上が中国へ輸出されている。また、カシミヤの原毛も中国へ輸出されている。そのため、モンゴルは中国の製造業の原料供給基地化している。モンゴル経済は輸出で中国に8割も依存しており、それを排除したいという意識が広く社会で共有されている。もともと、清朝がモンゴルを支配していた20世紀初頭までは、漢民族高利貸しがモンゴルに進出し、モンゴル人は借金漬けであった。こうした歴史的背景と、鉱業の利権を盗まれているという意識から、一般のモンゴル人にとって中国は、モンゴルにおける悪しき事柄の源泉であるという認識が確立している。例えば、品質が悪ければ、それは中国製品、失業率が高ければ、中国人がモンゴルで不法就労しているためだなど、望ましくないものの原因及びそのものとして、中国は認識されている。中国はモンゴルのナショナリズムを否定的な側面から鼓舞する最大の負のイメージである[7]

近年モンゴルの極右勢力が極端な反中国・反中国人運動を展開している。「中国人の男性と寝た」との理由で、複数のモンゴル人女性の頭髪を丸刈りにしたり、中国と関係が深かったモンゴル人を殺害する事件も起きている。モンゴル首都のウランバートル市内にはハーケンクロイツのマークとともに「中国人を射殺せよ」とする落書きも多くみられる。代表的な極右団体としては「フフ・モンゴル」などがあり、構成員は数千人とされるが、人口270万人のモンゴルでは相当な人数である[8]

モンゴルでは、3団体が極右団体に指定され、これらの極右団体が掲げる第1の敵は中国であり、経済文化などあらゆる面で外国の影響を拒絶している[9]。鉱山開発や建設事業で中国の影響力が増したことも、モンゴルの排外的民族主義を強める一因だと指摘する専門家もいる[9]。200年にわたって満州族に支配された歴史をもつモンゴル人の中には、中国マネーがもたらす新たな繁栄への期待よりも、中国の野心に対する警戒心のほうが強いという見方もある[9]。モンゴル科学アカデミー国際研究所のショルフー・ドルジは、「モンゴルに来る外国人、主に中国人の違法行為に対する彼らの自警団的活動は、モンゴル全体の支持を得る可能性がある。それこそ真の脅威だ」と指摘している[9]

アメリカ国務省は2010年の春以降、モンゴルで「外国籍の人間に対する排外主義的襲撃事件が増加している」との渡航情報を出している[9]。また、アメリカ国務省のウェブサイトは「こうした国粋主義団体は、アジア系アメリカ人を中国人や韓国人だと誤解し、突然襲撃することが多い」と注意を呼び掛けている[9]

日本外務省も海外安全ホームページのモンゴルに関する安全対策基本データで、「歴史的背景から中国人に対するモンゴル人一般の潜在的な感情には複雑なものがあります。街頭で日本人が他の外国人と間違えられてモンゴル人に殴られた事件やトラブルも時折発生しています」と注意を呼び掛けている[10]


対露関係

中ソ対立ではソ連側につくなど、鉄道を含むインフラ整備に貢献したロシア(旧ソ連)とは友好関係にある。ロシアと社会主義文化の影響があるためにウランバートルの高層アパート、都市インフラのシステムも原型はロシア式であり今でもキリル文字を使用している。

対日関係

以前は反日感情も見られたが、相撲による交流が盛んになった今日では国民感情としても日本とは友好的関係が維持され日本より多額のODAが供与されており、日本の中古車も人気である。日本との外交関係は1972年2月24日に樹立された。2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。また、兵庫県但東町(現豊岡市但東町)との交流が長く、町内には、日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。2010年4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合はビザが免除されることになった。

朝青龍白鵬日馬富士鶴竜の直近の横綱4名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した旭天鵬など多くの大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている[11]。相撲以外のスポーツではプロボクサーラクバ・シンが日本で畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。また、陸上長距離のセルオド・バトオチルが日本の実業団に所属し、防府読売マラソン大阪マラソンで優勝も果たしている。

自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校校長がモンゴルを公式訪問している。

地方行政区画

日本のにあたるアイマク (аймаг, aimag) が21設置されており、県には郡にあたるソム (сум, sum) が347、更にその下に村にあたる1681のバグ (баг, bag) が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50-100家族ほどで構成されている(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。

モンゴルの地方行政区分地図
  1. ウランバートル市 (Улаанбаатар хот, Ulaanbaatar hot)
  2. オルホン県 (Орхон, Orhon)
  3. ダルハン・オール県 (Дархан-Уул, Darhan-Uul)
  4. ヘンティー県 (Хэнтий, Hentiy)
  5. フブスグル県 (Хөвсгөл, Hövsgöl)
  6. ホブド県 (Ховд, Hovd)
  7. オブス県 (Увс, Uvs)
  8. トゥブ県 (Төв, Töv)
  9. セレンゲ県 (Сэлэнгэ, Selenge)
  10. スフバータル県 (Сүхбаатар, Sühbaatar)
  11. ウムヌゴビ県 (Өмнөговь, Ömnögovĭ)
  12. ウブルハンガイ県 (Өвөрхангай, Övörhangay)
  13. ザブハン県 (Завхан, Zavhan)
  14. ドンドゴビ県 (Дундговь, Dundgovĭ)
  15. ドルノド県 (Дорнод, Dornod)
  16. ドルノゴビ県 (Дорноговь, Dornogovĭ)
  17. ゴビスンベル県 (Говьсүмбэр, Govĭsümber)
  18. ゴビ・アルタイ県 (Говь-Алтай, Govĭ-Altay)
  19. ボルガン県 (Булган, Bulgan)
  20. バヤンホンゴル県 (Баянхонгор, Bayanhongor)
  21. バヤン・ウルギー県 (Баян-Өлгий, Bayan-Ölgiy)
  22. アルハンガイ県 (Архангай, Arhangay)

地理

モンゴルの地形地図

東アジアの北西部に位置し西には標高4,300mのアルタイ山脈と標高3,500mのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500mの高原が広がり北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠ステップの植生が南の海抜平均1,000mのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖に注ぐセレンゲ川アムール川を経てオホーツク海太平洋)にそそぐヘルレン川がある。

近年、国土の90%で砂漠化が進行しており、6万9000km2の牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により、川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3800の河川と3500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1000の湖が地図上から完全に姿を消している。

経済

首都ウランバートル

IMFの統計によると、2013年のモンゴルのGDPは約115億ドル。一人当たりのGDPは3,996ドルで、世界平均のおよそ40%の水準である。[1] 2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40%以上を占めている[12]2014年で主な輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3%を占め[13]、主な輸入相手国は中国が41.5%、ロシアが27.4%、韓国が6.5%、日本が6.1%となっている[14]

主に畜産業鉱業が中心でモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。現在、モンゴル政府は鉱や鉱、モリブデン石炭等の開発を推進しており、エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源とりわけオユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性が未だに構築されておらず、政権が変わる度に、その政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80%である。畜産は、そのほとんどが遊牧で行われている。

内陸国ではあるが、便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、例えば北朝鮮当局の保有する貨物船等がモンゴル船籍を取得している。

モンゴルの警察は、汚職疑惑などで出国禁止措置を取ることがある。こうした汚職疑惑に巻き込まれて、何年も母国に帰れない投資家や実業家など約50人が存在する。彼らは拘束されず、パスポートなども取り上げられていないが、明確な根拠もなく出国が禁止されており、事実上の監禁状態となっている。この事から、モンゴルに投資価値はないと判断する者もいる[15]

交通

鉄道

国民

モンゴル国の人口推移(1961年-2003年)

民族・宗教

  • モンゴル系
    国民の大半を占める多数民族。中でもハルハ族が最大で、他のモンゴル系諸民族は少数民族である。主な宗教はチベット仏教で、歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。
    • モンゴル民族
      • ハルハ
        現体制になってからハルハ族固有ので登録した国民が多く、正確な人口は不明。
    • ブリヤート民族
    • オイラト族
      起源はテュルク系と見られている。モンゴル国からモンゴル民族の一員とみなされているため正確な人口は不明であるが、約15万人と見られる。西部に居住。
  • テュルク系
    • カザフ民族
      約4%(約10万人)で少数民族になるが、西部のバヤン・ウルギー県では人口の大半を占める。概ねイスラム教徒。
    • ツァータン(トゥバ民族
      300人前後が北部のフブスグル県に居住しているトナカイ遊牧と狩猟、採集、漁撈を行う民族。円錐形の移動式家屋「オルツ」に住む。「ツァータン」はモンゴル民族が使う他称であり、自らは「トゥバ人」「タイガ(針葉樹林帯)の人」などと名乗っている。この周辺の針葉樹林帯を行き来していた人々は、自らの居住地域が20世紀初頭モンゴル国とトゥヴァ人民共和国に分離された。伝統的にシャーマニズム信仰があり、モンゴル系の影響でチベット仏教徒も多い。
  • ツングース系

言語

教育

文化

ブフの試合
伝統的な住居ゲル

食文化

文学

音楽

世界遺産

モンゴル国国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Шинэ жил
1月下旬から2月の内2日間 ツァガーン・サル Цагаан сар 旧暦元日
3月8日 女性の日 Эмэгтэйчүүдийн баяр 国際女性デー
6月1日 子供の日 Хүүхдийн баяр 国際児童デー
7月11日、12日 ナーダム祭り Наадам
11月26日 独立記念日 Улс тунхагласны баяр 1924年モンゴル人民共和国成立記念日

スポーツ

  • ブフ(モンゴル相撲)
  • バスケットボール
  • 柔道
  • レスリング
  • サッカー
  • ボクシング

モンゴル出身の大相撲力士(関取)

脚注

  1. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 第12回近現代史研究会報告 満ソ(蒙)国境紛争 中山隆志 陸自58 (防2)偕行 平成20年3月号
  3. ^ 二木博史等訳・田中克彦監修「モンゴル史」2、恒文社、1988年「日本帝国主義へのモンゴル人民共和国の参加(1945年)」〔地図11〕
  4. ^ 台湾外交部檔案『中蒙関係』12-16頁。中央研究院近代史図書館檔号112.1/1
  5. ^ 蒋介石日記1945年10月12日
  6. ^ 「現代モンゴル 迷走するグローバリゼーション」p72 モリス・ロッサビ著 小長谷有紀監訳 小林志歩訳 明石書店 2007年7月31日初版第1刷
  7. ^ a b 週刊エコノミスト』2007年10月16日 前川愛「朝青龍問題 ナショナリズム高揚の反映 現代のモンゴルを読み解く」
  8. ^ Searchina 2009年7月21日 モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
  9. ^ a b c d e f 極右化するモンゴルの反中感情、強まる警戒感AFPBB News』2010年9月1日
  10. ^ [1]
  11. ^ 歴代外国人相撲力士の出身の多い国 外務省 世界いろいろ雑学ランキング
  12. ^ アジア開発銀行の貧困人口統計
  13. ^ Export Partners of Mongolia”. CIA World Factbook (2014年). 2016年3月1日閲覧。
  14. ^ Import Partners of Mongolia”. CIA World Factbook (2014年). 2016年3月1日閲覧。
  15. ^ “モンゴルで拘束される投資家たち”. サンケイビズ. (2014年5月6日). http://www.sankeibiz.jp/macro/news/140506/mcb1405060500001-n1.htm 2014年5月6日閲覧。 

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