メルボルン

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メルボルン
Melbourne
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メルボルンの市旗 メルボルンの市章
市旗 市章
位置
オーストラリアでのメルボルンの位置の位置図
オーストラリアでのメルボルンの位置
位置
メルボルンの位置(メルボルン内)
メルボルン
メルボルン
メルボルン (メルボルン)
メルボルンの位置(ビクトリア州内)
メルボルン
メルボルン
メルボルン (ビクトリア州)
メルボルンの位置(オーストラリア内)
メルボルン
メルボルン
メルボルン (オーストラリア)
地図
座標 : 南緯37度49分14秒 東経144度57分41秒 / 南緯37.82056度 東経144.96139度 / -37.82056; 144.96139
歴史
Established 1835年8月30日
行政
オーストラリアの旗 オーストラリア
  ビクトリア州の旗 ビクトリア州
 市 メルボルン
市長 サリー・カップ(無所属)
地理
面積  
  市域 8,806 km2 (3,400.0 mi2)
人口
人口 (2019年現在)
  市域 5,078,193人
    人口密度   508.175人/km2(1,316.17人/mi2
その他
等時帯 オーストラリア東部標準時 (UTC+10)
夏時間 オーストラリア東部夏時間 (UTC+11)
一般にメルボルンと呼ばれるのはメルボルン都市圏のことであり、面積、人口はメルボルン都市圏のもの。

メルボルン: Melbourne豪語発音: En-au-Melbourne.oga [ˈmɛlbn̩][ヘルプ/ファイル], [ˈmælbn̩][1]漢字表記墨尔本」「墨爾本」)は、オーストラリア大陸南東部、ポート・フィリップ湾に面したヤラ川河口の港市。

オーストラリアビクトリア州州都で、シドニーと共にオセアニア地域を代表する世界都市である。

概要[編集]

メルボルン都市圏 (: Melbourne Metropolitan area) の推定人口は、2019年6月現在約508万人であり[2]シドニーに次いで同国第2位である。 2010年における都市的地域の人口では348万人であり、世界第94位、同国では第2位である[3]。中心市街地(City)はヤラ川に接する北岸の長方形の領域で南北1km東西2km。港はその西1kmからヤラ川河口にかけて広がっている。

近代的で忙しい大都市のイメージのシドニーと比べると、歴史的な建物や文化が残り [注釈 1]、落ち着いて住みやすい印象を持たれている。ヴィクトリア朝時代の建築物がロンドンに次いで多く残っている都市である。メルボルンは世界的な学術都市でもあり、多くの留学生を受け入れている[4]

2002年2004年の2度、『エコノミスト』誌の「世界で最も暮らしやすい都市」で1位を獲得している。 2022年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第8位の都市と評価されており、オーストラリアではシドニー(17位)を抑えて首位となった[5]

歴史[編集]

1890年のビクトリア州議事堂
コリンズ通りとキング通りの角にある 19 世紀のグランド ホテル、フェデラル コーヒー パレスは、1971 年に取り壊されました
主要記事:History of MelbourneTimeline of Melbourne history

初期[編集]

ポートフィリップヤラ川の辺りは30000年前からその地に住むと思われる先住民族クリン (Kulin) の地であった。彼らは漁業狩猟採集などを行いポートフィリップの豊かな資源によって生活していた。ヨーロッパ移民により持ち込まれた病気に多くが打撃を受け、虐待、誤治療、アルコール、性病、によってクリンの人々の数は急激に減った。クリンは1870年代までに滅びてしまい、今日メルボルンに住むアボリジニーの殆どは他の地域から来た人々である。今日アボリジニーの歴史を残すものは少ない。例えばカヌーに使われた木がメルボルンクリケットグラウンドの近くにある他、ポートフィリップ沿岸にある貝塚くらいである。

1798年ウェスタンポート英語版まで行ったジョージ・バスによって、バス海峡が発見される。レディーネルソン号1802年ジョン・マレーがポートフィリップを発見すると、マシュー・フリンダースが後に続いた。1803年チャールズ・グリムズはヤラ川の河口を発見し、今のケイラー地区まで到達。同1803年のちに、NSW総督フランスのバス海峡地域の占領を恐れ、デイヴィッ・コリンズ大佐を300人の囚人とともにポートフィリップ、モーニントン半島英語: Mornington Peninsulaのソレントに送り居住地を拓かせようとするが、淡水の不足のために断念。1804年タスマニアへ居住地を移しホバートを創る。その囚人のなかには後の開拓者、政治家ジョン・パスコー・フォークナー英語版がいた。

バス海峡の北岸はクジラ狩猟者、アザラシ狩猟者が20年ほどいた。1824年ハミルトン・ヒュームウィリアム・ホヴェルは陸路でNSWからウェスタンポートを目指してきたが、代わりにコライオ湾に着き、良質な放牧地を発見する。10年後、タスマニアで放牧をしていたエドワード・ヘンティは後のビクトリア州西部、ポートランド英語: Portland, Victoriaの王領地に違法で羊牧地を設立した。

北タスマニアで成功していた農家ジョン・バットマンは更に放牧地を求めて1835年4月、バス海峡をポートフィリップに渡りヤラ川の河口に着く。6月8日彼の手記に、「そしてボートは広い河を上った... そして... 6マイル上流に良質でとても深い河を見つけたことを嬉しく思う。この場所は村を作るのに適している (: This will be the place for a village.)」と書いてある。この最後の文は後にメルボルン建設憲章として採用されている。

バットマンはローンセストン (Launceston) に戻りヤラに居住地を拓くための大規模な探検の準備をする。しかし同時期にその時にはローンセストンで実業家となっていたジョン・パスコ・フォークナー英語: John Pascoe Fawknerは同じアイディアを持っていた。フォークナーはスクーナー船エンタープライズ号を買い、移住しようとする人々とともに1835年8月にヤラ川の河口に到着し、8月30日に代理艦長を務めていたJohn Lanceyは居住地になる土地を選び、船の碇と荷物を下ろした。そのスポットはヤラ川北岸、のちのスペンサー・ストリートとキングス・ブリッジ周辺で、エンタープライズ・パークバットマン・パークとなっている場所で、そのすぐ北東には移民博物館がある。

一方でバットマンはレベッカ号で出航し、9月2日にヤラに着いたが既にフォークナーの人々がいるのに落胆し、憤慨した。2つのグループにとって十分な土地があり、10月16日フォークナーが他の居住者とともに到着すると、彼は土地を分配して、誰が最初に着いたかで論争しないことに同意した。バットマンとフォークナーは新しい町に住み、幾つかの仮の名前がその町に使われたが、1837年3月に時の英国首相メルバーン卿にちなんで正式に "Melbourne" と名付けられた。

1836年9月にはニューサウスウェールズ植民地のポートフィリップ地区の行政中心地になった。メルボルンはヤラ河岸にテントや小屋の集まりで始まったが10年もしないうちに牧畜の中心地となり、石やレンガで金融ビルが建てられた。

1851年7月1日、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立してビクトリア植民地が設立し、メルボルンに政府が置かれた。ラ・トローブは最初の総督代理になった。数ヶ月後、バララットベンディゴなどのビクトリア内陸部で金が見つかった。

ゴールドラッシュ以降[編集]

1851年にビクトリア内陸部で金が発見されたことによりゴールドラッシュが始まり、移民が大挙して押し寄せた。人口が急増し、1865年頃にはシドニーを抜きオーストラリア最大の都市となった。メルボルンは空前の建設ブームとなった。メルボルンを代表する歴史的建築の多くがこの時期に建設された。ビクトリア州議事堂ビクトリア州立図書館王立展示館メルボルン大学聖パトリック大聖堂などが主な例である。

1885年、イギリスの著名なジャーナリスト、ジョージ・サラ(George Augustus Sala)はメルボルンを訪れ、繁栄ぶりを新聞の記事にした。そのヘッドライン"Marvellous Melbourne"(素晴らしいメルボルン)はその後長きにわたって引用された。

20世紀[編集]

1901年オーストラリア連邦が成立してから、1927年キャンベラに移転が開始されるまでは連邦の臨時首都であった。

第二次世界大戦後もシドニーと共に移民の定住地となり人口は着実に増加を続けた。1956年に南半球で初の夏季オリンピック大会(メルボルンオリンピック)が開催された [注釈 2]

1990年代を通じて、クラウン・カジノやメルボルン博物館、メルボルンエキシビション・コンヴェンションセンターなどの公共建築物が積極的に造られた。

21世紀[編集]

2020年7月から翌年にかけて、断続的に新型コロナウイルスによる感染症拡大に伴いロックダウンが行われた[6]。毎年メルボルン・パークで開催されているテニスの全豪オープンも、2021年は無観客による開催となった[7]。 2021年8月21日には、SNSで呼びかけに呼応する形でロックダウンに対する抗議デモが発生。参加者約4000人が市内に集まり警官隊と衝突、警官9人が病院で手当てを受けた[8]

2021年9月22日、メルボルン市内で地震(M5.9)が発生(メルボルンは大陸プレートの上にあるため地震の発生は極めて稀)。建物のレンガやブロックが落ちるなどの被害が出たが、前述のロックダウンの期間中でもあり、人的被害は無かった[9]

地理[編集]

メルボルン中心部のパノラマ
沖合いから撮影したメルボルン
ヤラ川南岸から見たシティ
メルボルン中心部の地図
ポートフィリップ湾とメルボルン都市圏

メルボルンはオーストラリア大陸の南東部に位置し、大陸では最南に位置する州都である。ポート・フィリップ湾に面し、郊外は東に広がる。湾にはヤラ川が南東に位置するダンデノン丘陵とヤラ丘陵から注ぐ。また北西からマリビノン川英語: Maribyrnong Riverが注ぎ、川とその支流の西と北は平坦な農業地域になっている。

中心市街地(City)内および川を挟んだ対岸(南岸のサウスバンク地区)には超高層ビルが並ぶ。郊外では人口密度が低く、片側4車線程度の道路が碁盤の目状に敷かれ、一戸建てで広大なを持った家々が並ぶ。

地球上での位置[編集]

メルボルンを中心とした正距方位図法の世界地図を見ると、ロサンゼルスニューヨークパリロンドンといったアメリカ合衆国(本土以北)やヨーロッパ諸国からはすべて12000km以上離れている。

タラマリン空港から北米大陸への直行便は、ロサンゼルス国際空港カンタス航空ヴァージンオーストラリアユナイテッド航空が、サンフランシスコ国際空港へカンタス航空がそれぞれ運行し[10]、世界でも有数の長距離路線として知られている。ロンドン・ヒースロー空港行きの路線はパース経由で運行されている[11]

東京との距離は8000km強で、タラマリン空港と成田国際空港の間の直行便がカンタス航空[12]日本航空[13]により運行されている。

メルボルンの南緯は37度49分で、市域人口が100万人以上を有する都市の中では世界で最も南に位置している。

気候[編集]

ケッペンの気候区分によると海洋性の影響の強い西岸海洋性気候(Cfb)に分類されるものの、日によって天気が目まぐるしく変わり、年間通してはっきりした四季は無く、一日の中に四季があるとも言われている。

冬季は最も寒い7月の平均最低気温が6.0℃とオーストラリアの大都市の中で最も冷え込むものの、降雪は周囲の山々で起きる程度で、平地では非常に稀であり、霜が降りることも少ない。過去最低気温の記録は1901年7月4日に記録した−2.8 ℃に過ぎず、冬は温暖である。冬季は比較的曇天が多く日照時間が少ないが、日中は10度前後の日々が続いた後に20℃以上まで上がることも多い。

夏季は最も暑い1月の平均最高気温は25.9℃と低くなっているが、実際には内陸の砂漠地帯から吹き付けるフェーン現象により、年に数日は40度を超えるのような酷暑となることも多く、2009年2月7日には観測史上最高気温の46.4℃を観測している。時に内陸部では気温が50度近くに達することもあり、メルボルン近郊のラバートンでは同日に47.5℃を観測している。しかし、非常に乾燥しており湿気は少なく、夏季は山火事の起きやすい環境となっている。また、そのような酷暑の日であっても朝晩は涼しくなり、熱帯夜となることはほとんど無く、平均最低気温が最も高い2月でも14.6℃と低く快適である。

2006年には観測史上最悪の旱魃に見舞われ、例年ならば年間でも比較的降水が多い9月、10月に全く雨が降らなかった。

メルボルンの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 45.6
(114.1)
46.4
(115.5)
41.7
(107.1)
34.9
(94.8)
28.7
(83.7)
22.4
(72.3)
23.1
(73.6)
26.5
(79.7)
31.4
(88.5)
36.9
(98.4)
40.9
(105.6)
43.7
(110.7)
46.4
(115.5)
平均最高気温 °C°F 25.9
(78.6)
25.8
(78.4)
23.9
(75)
20.3
(68.5)
16.7
(62.1)
14.1
(57.4)
13.5
(56.3)
15.0
(59)
17.2
(63)
19.7
(67.5)
22.0
(71.6)
24.2
(75.6)
19.9
(67.8)
平均最低気温 °C°F 14.3
(57.7)
14.6
(58.3)
13.2
(55.8)
10.8
(51.4)
8.6
(47.5)
6.9
(44.4)
6.0
(42.8)
6.7
(44.1)
8.0
(46.4)
9.5
(49.1)
11.2
(52.2)
12.9
(55.2)
10.2
(50.4)
最低気温記録 °C°F 5.5
(41.9)
4.5
(40.1)
2.8
(37)
1.5
(34.7)
−1.1
(30)
−2.2
(28)
−2.8
(27)
−2.1
(28.2)
−0.5
(31.1)
0.1
(32.2)
2.5
(36.5)
4.4
(39.9)
−2.8
(27)
雨量 mm (inch) 47.6
(1.874)
48.0
(1.89)
50.3
(1.98)
57.4
(2.26)
55.8
(2.197)
49.0
(1.929)
47.5
(1.87)
50.0
(1.969)
58.1
(2.287)
66.4
(2.614)
60.4
(2.378)
59.5
(2.343)
650.0
(25.591)
平均降雨日数 8.4 7.5 9.4 11.8 14.6 15.4 16.1 16.1 14.9 14.2 11.8 10.4 150.6
平均月間日照時間 279.0 234.9 210.8 168.0 120.9 108.0 114.7 145.7 171.0 195.3 210.0 232.5 2,190.8
出典:Bureau of Meteorology

人口構成[編集]

国別海外出生者数
出生国 人口 (2006)
イギリス 156,457
イタリア 73,801
ベトナム 57,926
中華人民共和国 54,726
ニュージーランド 52,453
ギリシャ 52,279
インド 50,686
スリランカ 30,594
マレーシア 29,174
クロアチア 24,568
ドイツ 21,182
マルタ 18,951
南アフリカ 17,317
マケドニア 17,287
香港 16,917
ポーランド 16,439
フィリピン 15,367
レバノン 14,645
オランダ 14,581
ボスニア・ヘルツェゴビナ 13,332
メルボルン
都市部人口密度
(人/ha)
1951 23.4
1961 21.4
1971 18.1
1976 16.75
1981 15.9
1986 16.05
1991 16.8
1996 17.9
メルボルンの人口
1836 177
1851 29,000
1854 123,000 (gold rush)
1880 280,000
1895 900,000 (economic collapse)
1956 1,500,000
1981 2,806,000
1991 3,156,700 (economic slump)
2001 3,366,542
2006 3,720,300 (2006 estimate)

この街は誕生以来、19世紀ゴールドラッシュ期、二度の世界大戦後の難民など、各国からの移民を多く受け入れてきた。人口の約74%がアングロサクソン系、約19%がその他のヨーロッパ系、約5%がアジア系である。 ギリシャ系も多くギリシャやキプロスを除くと世界でもっとも多くのギリシャ人が居住しており、ギリシャ系のお祭りも多く行われている。中国人街ヴェトナム人街、イタリア人街など、国ごとのコミュニティを形成して住む傾向にある。そのため多種多様な食文化の影響を受け、広大な農地と隣りあって食材も豊富であるため、各国の料理を手軽に味わうことができる。国外からの留学生の受け入れにも積極的である。

世界最高級の生活水準・環境、治安の良さそして英語が公式言語であることも手伝ってか移民先として人気がある都市である。


産業[編集]

メルボルンはオーストラリアの3つの大きな企業、テルストラBHPグループナショナルオーストラリア銀行の本拠地があり、またオーストラリア商業協議会英語: Business Council of Australia,オーストラリア労働組合協議会英語: Australian Council of Trade Unionsオーストラリア証券取引所に名を連ねる会社の多くがある。

オーストラリア第2の金融センターであり、多くのオーストラリアの大企業の本社(四大銀行のうち二行の本店)が立地するが、海外企業の地域本部はシドニーを好む傾向がある。2017年の調査によると、世界21位の金融センターであり、同国ではシドニーに次ぐ2位である[14]。 また、機械工業食品加工業が盛んである。繊維被服履物工業が盛んであったが輸入の影響による縮小が著しい。同国のファッションの中心地であるのはその名残である。

政治[編集]

タウンホール

メルボルン都市圏は、30の市議会(議員は公選、市長は議員から市議会が選出のen:弱い市長制)の管轄領域に分割される。オーストラリアの他州の州都と同様、都市圏全体の行政は州政府の管轄であり、メルボルン圏だけを管轄する地方自治体はない。都心部を管轄するメルボルン市議会の市長は、Lord Mayor という上級の呼称をもっているが、権限は他の市長と変わりない。

治安[編集]

メルボルンは犯罪が少なく、世界で五番目に安全な街であるとエコノミストに評価されているが、一方でンドランゲタペインターズ・アンド・ドッカーズといったマフィアが定期的に抗争事件を起こすことでも知られている(1995年から2010年までのメルボルンのギャング殺人など)。また近年では、アフリカ系や太平洋諸島系のストリート・ギャングの活動も確認されている。

生活文化[編集]

コーヒー[編集]

シドニーと並びオーストラリアのコーヒー文化の中心で、個人経営のカフェが多い。朝の出勤時にテイクアウェイでコーヒーを求める習慣もある。

観光[編集]

クイーン・ヴィクトリア・マーケット
聖パトリック大聖堂
セント・キルダの砂浜

ショッピング[編集]

文化[編集]

メルボルン博物館

楽団[編集]

動物園・水族館[編集]

シーニック鉄道(ルナパーク)、世界最古の継続的に動作するジェットコースター

スポーツ[編集]

メルボルン近郊のAFL チーム

などが主要なスポーツイベントとして行われる。

1956年には南半球最初のオリンピック2006年にはコモンウェルスゲームズが開かれた。オリンピックが開催された都市として、および世界都市として、メルボルンは一番南に位置する都市となっている。

クリケットは非常に人気のあるスポーツである。伝統的な形式のファーストクラス・クリケット英語版や、投球制限があり試合時間が3時間程度で終了するトゥエンティ20などがある。トゥエンティ20形式のプロリーグのビッグ・バッシュ・リーグ(BBL)にはメルボルン・レネゲーズ英語版メルボルン・スターズ英語版が所属している。メルボルン・クリケット・グラウンドは最大収容人数が10万人を超えており、1992年2015年クリケット・ワールドカップでは決勝戦の会場となった。

オーストラリア国内サッカーリーグのAリーグには、当市に本拠を構えるメルボルン・ビクトリーFCメルボルン・シティFCが所属している。2007年には世界水泳選手権が当市で開催された。

教育[編集]

メルボルン大学

交通[編集]

主要記事:メルボルンの交通英語版

鉄道[編集]

フリンダース・ストリート駅
サザン・クロス駅
メルボルン・セントラル地下駅メルボルン中心市街地英語版北辺のラ・トローブ通り)
メルボルンシティセンター英語版内にある一般的な電停

メルボルンの公共交通機関はビクトリア州公共交通英語版が所有し、路面電車ヤラ・トラム英語版鉄道メトロ・トレインズ・メルボルンが運営している。これらは1990年代後半までは州政府が直接経営運営していた。プリペイド式非接触カード マイキが導入されている。

フリンダース・ストリート駅は中心市街 (メルボルンシティセンター英語版)の ターミナルで、近郊電車が郊外へ放射状に伸びる。駅の入口にずらりと時計盤(各路線の発車時刻を示す)が並びメルボルンのシンボル的建築の一つである。駅はCityの縁を一周する路線(シティループ英語版)の南辺に位置しヤラ川に接する。この路線の北・東辺の三駅は地下駅となっている。

西辺に位置しスペンサー通りに面するサザン・クロス駅には長距離列車が発着する。州内の列車はVラインと呼ばれる。州外への列車にはアデレード行きやシドニー行きのものがある。隣接するバスターミナル[15][16]メルボルン空港との連絡バス スカイバスが発着する。

また、中心街から距離が15-25キロメートルの郊外地区をつなぐメルボルン近郊環状線の建設が提案されている。

路面電車[編集]

路面電車は、複線路線延長約250kmという世界一の規模の路線網を誇る。1994年より中心市街(メルボルンシティセンター英語版)の縁を一周する路線[シティサークル英語版]の周回運行が始まり、2015年1月1日よりその内側(および北と西の隣接地区)の路線は運賃が無料となった。

道路[編集]

メルボルンの道路は一般に道幅が広く、住宅地の一般的な道路でも片側2車線ある。また、歩道も完備されている。高速道路に関しては、信号があるものの時速100kmで走行できるハイウェイと、一般の道路とは切り離されているフリーウェイがある。どちらも無料で利用することができる。また、以前は市街地 (メルボルンシティセンター英語版) をはさんで市の東西を移動するのには大変な時間がかかるという問題点もあったが、近年開通した有料道路シティリンクにより現在では解消している。ただこのシティリンクも近年の人口・車所有率の上昇に対応しきれず、朝・夕の通勤ラッシュ時にはかなりの渋滞を引き起こし、ラッシュ時のさらなる渋滞を避けるため、シティリンク入口に信号を設置、利用者の車の数を制限し渋滞を緩和しようと試みている。

空路[編集]

  • メルボルン空港(タラマリン空港)、国際空港、メルボルン北西のタラマリン地区、国際・国内便。日本との直行便が就航する。
  • アバロン空港、メルボルンと南西のジーロングの間に位置する第2の空港、格安航空会社による大陸部他州都への便が就航している。
  • エセンドン空港、メルボルンで最初の主要空港であるが、長らくの間使われていない。
  • オーストラリア空軍のクック・ポイント基地は都市の南西の端に位置する。

海路[編集]

メルボルン港はオーストラリアで最大のコンテナと一般貨物の港である。世界中の 300の都市との間に貨物航路があり、年間3200隻の船が発着する。メルボルン港はメルボルン中心部の西のマリビロング川とヤラ川の交差する地点にある。 同港とタスマニア州デボンポートを結ぶ定期カーフェリーen:「スピリット・オブ・タスマニア」の埠頭には、路面電車でもアクセスできる。

姉妹都市[編集]

メルボルンは多数の都市と姉妹都市提携をしている:

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 市内にイギリス風の建造物が多く残っており、アフタヌーン・ティーをたしなむ習慣も残っている。
  2. ^ 2000年にシドニーオリンピックが開催されるまでは、南半球で唯一の開催地であった。
  3. ^ シドニーオペラハウスとはライヴァルとしてよく比較される。

出典[編集]

  1. ^ 「Melbourne」Wiktionary英語版』 2011年7月6日 21:49 (UTC)。(オーストラリア英語における発音のIPA発音記号)
  2. ^ Statistics, c=AU; o=Commonwealth of Australia; ou=Australian Bureau of (2020年3月25日). “Main Features - Main Features” (英語). www.abs.gov.au. 2020年7月14日閲覧。
  3. ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  4. ^ Read @Kearney: Global Cities: divergent prospects and new imperatives in the global recovery” (英語). www.kearney.com. 2021年12月18日閲覧。
  5. ^ Readiness for the storm: the 2022 Global Cities Report” (英語). Kearney. 2022年11月3日閲覧。
  6. ^ 豪メルボルン、新規感染者ゼロに 流行の中心地で6月以来初”. BBC (2020年10月26日). 2021年9月22日閲覧。
  7. ^ 豪メルボルン、5日間ロックダウンに 全豪オープンも無観客”. ロイター (2021年2月12日). 2021年9月22日閲覧。
  8. ^ メルボルン、シドニーでロックダウン抗議デモ 250人逮捕”. 産経新聞 (2021年8月22日). 2021年9月22日閲覧。
  9. ^ 豪南東部メルボルン近くでM5.9の地震 建物に被害”. BBC (2021年9月21日). 2021年9月22日閲覧。
  10. ^ カンタス航空、9月1日にメルボルン/サンフランシスコ線を開設へ FlyTeamニュース 2018年1月23日付
  11. ^ カンタス、史上初のオーストラリア/ロンドン線に就航 787-9で1日1便 FlyTeamニュース 2018年3月26日付
  12. ^ カンタス航空、成田-メルボルン12月開設 ジェットスター便は休止に Aviation Wire 2016年9月17日付
  13. ^ JAL、成田2路線9月就航へ メルボルンとコナ パリ10月運休 Aviation Wire 2017年5月29日付
  14. ^ Global Financial Centres Index 21 Z/Yen Group 2017年4月5日閲覧。
  15. ^ ショッピングセンターとの複合施設となっている。
  16. ^ 都心部北部にも高速バスターミナルがある。

参考資料[編集]

  • 「Melbourne」『FORVO』 2011年11月1日閲覧。オーストラリアの人によるとされる「Melbourne」の発音の音声ファイルを含む。
  • 「Melbourne」Weblio英和・和英辞典』 2011年11月1日閲覧。「Melbourne」の発音の音声ファイルを含む。音声は米国英語のみ。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式

日本政府

観光

教育機関

その他

座標: 南緯37度49分14秒 東経144度57分41秒 / 南緯37.82056度 東経144.96139度 / -37.82056; 144.96139