ミョールィ

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座標: 北緯55度37分00秒 東経27度37分00秒 / 北緯55.61667度 東経27.61667度 / 55.61667; 27.61667

ミョールィの位置(ベラルーシ内)
ミョールィ

ミョールィベラルーシ語: Мёры)はベラルーシヴィツェプスク州ミョールィ地区(ru)の市(Горад / ホラド)である。また同地区の行政中心地である[1]

ミョールィ湖(ru)湖岸に位置し、州都ヴィツェプスクから西に190kmの位置にある。人口は2017年の時点で8001人[2]

交通[編集]

ドルヤ(ru)とバラパエヴァ(ru)をつなぐ鉄道路線上の駅・ミョールィ駅(ru)がある。自動車道としては、ポラツクブラスラウをつなぐР-14(ru)、ロシア国境(カストロヴァ(be))からコジャヌィ(ru)に至るР-18が市内を通る。

歴史[編集]

史料上の初出は1514年であり、リトアニア大公国のブレスラウヤ郡(ru)の1領地として名が記されている[注 1][注 2]。ミョールィとは、フィン・ウゴル系言語で「低地の湖」を意味する言葉が語源であるとする説がある[4]。また、16世紀より知られるミルスキー家(後にスヴャトポルク=ミルスキー家)の家名はミョールィに由来する[5][6]

1793年の第2次ポーランド分割によって帝政ロシア領となり、ミンスク県ミンスク郡(ru)メステチコとなった。その後1921年のリガ条約によってポーランド第二共和国領に、1939年の同国の消滅(ポーランド侵攻)により白ロシア・ソビエト社会主義共和国領となった。1939年の人口は約800人であり、うち600人がユダヤ人であった[7]。1941年7月3日から1944年7月4日にかけてナチス・ドイツ軍に占領されており[8]、ほぼ全てのユダヤ人がゲットー(ミョールィ・ゲットー(ru))に送られ、殺害された。

1972年に市に昇格した[9]ソビエト連邦の崩壊を経てベラルーシ共和国の市となり、現在に至る。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「ブレスラウヤ」はリトアニア語: Breslaujaによる。ベラルーシ語: Браслаў:ブラスラウ。
  2. ^ 「領地」はロシア語: Поместьеの訳(他に封地・知行所の訳語があてられる)[3]。詳しくはru:Поместьеを参照されたし。

出典[編集]

  1. ^ Миоры // Географическая энциклопедия
  2. ^ Колькасць насельніцтва на 1 студзеня 2017 г. і сярэднегадавая колькасць насельніцтва за 2016 год па Рэспубліцы Беларусь у разрэзе абласцей, раёнаў, гарадоў і пасёлкаў гарадскога тыпу
  3. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。P772
  4. ^ Умпирович, Дмитрий. Люди и птицы на болоте.
  5. ^ Святополк-Мирские — владельцы Мирского замка
  6. ^ 服部倫卓・越野剛編著 『ベラルーシを知るための50章』明石書店、2017年。P95
  7. ^ А. Шульман. Миорские встречи
  8. ^ Периоды оккупации населенных пунктов Беларуси
  9. ^ МИОРЫ // Большой Энциклопедический словарь