マーガレット・ダグラス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーガレット・ダグラス
Margaret Douglas
レノックス伯爵夫人
Countess of Lennox

出生 1515年10月8日
イングランドノーサンバーランドハーボトル城英語版
死去 1578年3月7日(1578-03-07)(62歳)
埋葬 ウェストミンスター寺院
配偶者 第4代レノックス伯マシュー・ステュアート
子女 ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート
初代レノックス伯チャールズ・ステュアート
父親 第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス英語版
母親 マーガレット・テューダー
テンプレートを表示

レノックス伯爵夫人マーガレット・ダグラスMargaret Douglas, Countess of Lennox, 1515年10月8日1578年3月7日)は、スコットランドジェームズ4世の未亡人(Queen dowagerマーガレット・テューダーと、その2番目の夫・第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス英語版の娘で、スコットランド王ジェームズ5世の異父妹であり、イングランドヘンリー7世外孫

若い頃、彼女は叔父のイングランドヘンリー8世に大いに気に入られていたが、王の怒りを2度招いた。初めはトマス・ハワード卿英語版と王の許可を得ずに婚約した際で、1537年、トマスは彼女との不釣り合いな結婚のためにロンドン塔で死去した。2度目は1540年、トマス・ハワードの甥でヘンリー8世の5番目の妃キャサリン・ハワードの兄弟サー・チャールズ・ハワードCharles Howardとの関係のためだった。

1544年7月6日、彼女はスコットランドの有力貴族である第4代レノックス伯英語版マシュー・ステュアートと結婚した。息子のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートはスコットランド女王メアリーと結婚し、ジェームズ6世/1世の父となった。

前半生[編集]

1515年、マーガレットはイングランドノーサンバーランドハーボトル城英語版で生まれた。父アンガス伯がスコットランドで困難に直面していた時、母マーガレットはスコットランドから国境を越えていた。母のジェームズ4世未亡人マーガレット・テューダーは幼王ジェームズ5世摂政を務めていたが、1514年第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラス英語版と密かに再婚したことで周囲の強い反感を買っており、アンガス伯の子を妊娠した摂政王太后マーガレットはスコットランド枢密院英語版の監視下での生活を危惧して母国イングランドに逃亡したためである。和解が成り、1517年に一家はスコットランドに戻ったが、まもなく両親は政治的に激しく対立するようになり、1528年3月までに離婚した。

1528年10月、アンガス伯はスコットランド王ジェームズ5世に脅され、マーガレットをツイード川を越えてイングランドノラム城英語版へ送り返した[1] 。乳母または侍女のイソベル・ポパー英語版を伴ってベリック城英語版に短期間滞在した後[2] 、マーガレットは彼女の代父・ウルジー枢機卿の世帯Householdに加わった。1530年にウルジーが死去すると、マーガレットはボーリューの王宮英語版に招かれ、メアリー王女の世帯に住んだ[3] 。イングランド王位への近さゆえに、マーガレットは従妹で生涯の友となるメアリー王女(後のメアリー1世)との密接なつながりの下、主にイングランドの宮廷で育てられた[4] 。1530年、1531年そして1532年グリニッジ宮殿でのクリスマス季節には、ヘンリー8世はマーガレットに総額10マルク(£6余、当時の1マルクは13シリング4ペンス相当;2022年時点の£4,694と同等)もの大金を与えた[5]

アン・ブーリンの宮廷ができた時、マーガレットは女官(lady-in-waiting)に任命された。そこでアン・ブーリンの叔父トマス・ハワード卿英語版に出会い、彼らの求愛が始まった。トマスは第2代ノーフォーク公トマス・ハワードと2番目の妻アグネス・ティルニー英語版の下の息子だった[6][7][8] 。1535年末までにトマスとマーガレットは恋に落ち、密かに婚約した[9][3]

1536年5月、ヘンリー8世は王妃アン・ブーリンを処刑した。1536年7月初めにマーガレットとアンの叔父トマス・ハワードの婚約を知るとヘンリーは怒り狂った。ヘンリーは、同年6月に娘のメアリーエリザベスを庶子であると宣言し(第二継承法)、マーガレットを有力な王位継承候補者に留め置いていたから、彼女にとって、王の許可なく婚約したこと、特に有力貴族の息子かつ不祥事を起こした王妃の近親との結婚は、政治的にとんでもないことだった。トマスとマーガレットはともにロンドン塔に投獄された。同年7月18日私権剥奪法英語版により、議会は「前記の王位継承の妨害・邪魔・障害(to interrupt ympedyte and lett the seid Succession of the Crowne)」を試みたとしてトマスの死刑を宣告した。同法はまた国王の許可を得ない如何なる王族の結婚も禁じた[9]。トマスは刑の執行は免れたが、マーガレットが彼らの関係を絶った後もロンドン塔に留め置かれた。彼は1537年10月31日にロンドン塔で死去した。マーガレットもまたロンドン塔で病に倒れ、ヘンリー8世は彼女を許し、女子修道院長の監督の下、サイオン修道院英語版へ移した。1537年10月29日、彼女は監禁から解放された[9][3]

1539年、マーガレットとリッチモンド公爵夫人メアリー英語版は、ヘンリー8世の花嫁(4番目の王妃)アン・オブ・クレーヴズグリニッジ宮殿で出迎え、彼女に仕え、彼女を王のもとに連れていくよう命じられた。これは大変な栄誉だったが、それよりヘンリーはアンにロチェスターで会うことを選んだ[10]

1540年、マーガレットは先年問題のあったトマス・ハワード卿の甥サー・チャールズ・ハワードCharles Howardと関係を持ち、再び王の不興を買った。彼はトマスの異母兄エドムンド・ハワード卿英語版の息子で、ヘンリー 8世の5番目の王妃キャサリン・ハワードの兄弟だった[3][11]

1543年、マーガレットはハンプトン・コート宮殿でのヘンリー8世のレディ・ラティマー未亡人キャサリン・パーとの最後の結婚の、数人の立会人の一人となった。マーガレットは王妃キャサリンの女官長の一人となった[12] 。キャサリン・パーとマーガレットは、ともに1520年代に宮廷に来て以来、旧知の仲だった[13]

結婚と外交[編集]

1544年、マーガレットはスコットランド人亡命者で、後の1570年 - 1571年にスコットランドの摂政になる第4代レノックス伯マシュー・ステュアート(1516-1571)と結婚した。彼らの子供は、1545年テンプル・ニューサン英語版で生まれたダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-1567)と、1574年エリザベス・キャヴェンディッシュと結婚したチャールズ・ステュアート(1555-1576)がいた。エリザベスはサー・ウィリアム・キャヴェンディッシュハードウィックのベス英語版の娘だった。

1548年6月、ラフ・ウーイング英語版[注 1]の戦争中、マーガレットの父アンガス伯が、彼女の異母兄弟のジョージ・ダグラス英語版やほかの家族がダルケイス宮殿英語版で捕らえられたことを書き送ってきた。アンガス伯は、マーガレットとその夫レノックス伯が、捕虜としてよく扱われるよう手配できると期待していた。レノックス伯は、義父は他に助力を求めた方が良いと書いて、サマセット公エドワード・シーモアに手紙を転送した。1549年3月、マーガレットはレスル城英語版から父に、彼が夫に会うことを避けていると不満を書き送った。彼女は父に、"なんと記念すべきことだ!"と彼女の結婚を認めることを通して、名誉の平和を求めるよう頼んだ[14]

イングランド女王メアリー1世の治世中、マーガレットはウェストミンスター宮殿に部屋を持っていた。1553年11月、女王は大使シモン・ルナールに、「マーガレットが王位を継承するのに最もふさわしい」と語った[15]。マーガレットは1558年12月のメアリー女王の葬儀の喪主を務めた[16]エリザベス1世の王位継承にあたり、マーガレットは、テンプル・ニューサンにある自宅がローマ・カトリック教会の陰謀の中心となっていたヨークシャーに移った。

マーガレットは、長男ダーンリー卿ヘンリーとその従姉のスコットランド女王メアリーを結婚させることに成功し、こうしてイングランドの王位継承権を一体にした。エリザベス1世はこの結婚を良しとせず、1566年にマーガレットをロンドン塔に送ったが、翌1567年に息子のダーンリー卿が殺害されると彼女は釈放された。マーガレットは義理の娘のメアリー女王を非難したが、結局、後に和解させられた。

夫のレノックス伯は孫のジェームズ6世の摂政としてスコットランド政府を担ったが、1571年に暗殺された。

1574年、マーガレットは次男チャールズシュルーズベリー伯ジョージ・タルボットの継娘エリザベス・キャヴェンディッシュとの結婚により、再びエリザベス1世の怒りを招いた。彼女は伯爵夫人のハードウィックのベス英語版と異なり再びロンドン塔に送られ、1576年の息子チャールズの死後、赦免された。

マーガレットの外交は、孫のスコットランド王ジェームズ6世の未来のインランド王位継承に大きく貢献した。

死と遺産[編集]

ウェストミンスター寺院のマーガレット・ダグラスの墓。この面は彼女の4人の娘が見える。

次男チャールズの死後、マーガレットは孫娘アラベラの世話を助けた。しかし、彼女はそれほど息子より長生きせず、1578年3月に死去した。死の数日前、レスター伯ロバート・ダドリーとともに食事をした。これが彼女が毒殺されたという噂につながった。これを実証する歴史的証拠はない。

マーガレットは借金を残して亡くなったが、エリザベス1世の費用負担で、ウェストミンスター寺院で壮大な葬儀が営まれた。彼女は寺院のヘンリー7世礼拝堂の南側通路の息子チャールズと同じ墓に埋葬された[17]。彼女の孫息子が見事な記念碑を建立したと言われているが、実際は彼女の遺言執行者でかつての使用人トマス・ファウラー英語版によって1578年10月に依頼されたものである[18]。マーガレットのアラバスター製の横臥した彫刻は、フレンチ・キャップと青と金のドレスの上にひだ襟をつけた赤い毛皮のマントを着ている。墓の両側面には、彼女の4人の息子と4人の娘[注 2]の悲しむ姿がある。

“Lennox Jewel”または“Darnley Jewel”と呼ばれるロケットは、発注の時期や機会については異論があるものの[4][19]、十中八九、1570年代にマーガレットのために作られたものである[19]1842年に彼女の子孫であるヴィクトリア女王によって買い取られた[20]。"ロイヤル・コレクションで最も重要な初期の宝石の一つ"と考えられているそのハート形のロケットは、ホリールード宮殿で展示されている[19]

[編集]

マーガレット・ダグラスは彼女の詩で知られている。作品の多くは恋人のトマス・ハワード卿英語版に書き送られたもので、デヴォンシャーMSDevonshire manuscriptに保存されている。親友のメアリー・シェルトン英語版リッチモンド公爵夫人メアリー英語版は、サリー伯ヘンリー・ハワードトマス・ワイアット同様に主な寄稿者だった。

祖先[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ グリニッジ条約をスコットランド議会が拒否したことによって起きたイングランド-スコットランド間の戦争。ヘンリー8世の嫡子エドワードと幼いスコットランド女王メアリーの結婚によって、イングランドがスコットランド王位を得ようという目論見だった。
  2. ^ マーガレットは夫マシューとの間に8子をもうけたが、成長したのはヘンリーとチャールズの2人だけだった。

出典[編集]

  1. ^ State Papers Henry Eighth, vol.4 part 4 (1836), 510, 518 Northumberland to Wolsey, 9 October 1529.
  2. ^ State Papers Henry Eighth, vol.4 (1836), p.509-510, 539–40, 567: Letters & Papers Henry VIII, vol.4 (1875), no.4709: Cameron, Jamie, James V, (1998) p.36-7 & fn.24
  3. ^ a b c d Marshall, Rosalind K. (2006). Douglas, Lady Margaret, countess of Lennox (1515–1578), noblewoman. オックスフォード英国人名事典 
  4. ^ a b Stedall, Robert (2014年3月14日). “Lady Margaret Douglas and the Lennox Jewel”. MaryQueenofScots.net . 2018年10月13日閲覧。
  5. ^ Nicolas, Nicholas Harris, ed., Privy Purse Expences of Henry VIII, 1529–1532, London (1827), p. 98, 183, 281. It may have been stakes for her to play card games; or for her to give as alms.
  6. ^ Head, David M. (2008). Howard, Thomas, second duke of Norfolk (1443–1524), magnate and soldier. オックスフォード英国人名事典 
  7. ^ Davies, Catherine (2008). Howard [née Tilney], Agnes, duchess of Norfolk (b. in or before 1477, d. 1545), noblewoman. オックスフォード英国人名事典 
  8. ^ Richardson 2004, pp. 236–237
  9. ^ a b c Riordan, Michael (2004). Howard, Lord Thomas (c.1512–1537), courtier. オックスフォード英国人名事典 
  10. ^ Nichols, John Gough, ed (1846). The Chronicle of Calais in the Reigns of Henry VII and Henry VIII. London: Camden Society. p. 170. https://books.google.com/books?id=LKQUAAAAQAAJ 2011年3月9日閲覧。 
  11. ^ Weir, Alison (1991). The Six Wives of Henry VIII. New York: Grove Weidenfeld. p. 437 
  12. ^ Linda Porter. Katherine the Queen: The Remarkable Life of Katherine Parr, the Last Wife of Henry VIII, Macmillan, 2010. pg 207-8.
  13. ^ Kimberly Schutte. A Biography of Margaret Douglas, Countess of Lennox, 1515–1578, Edwin Mellen Press, 2002.
  14. ^ Calendar State Papers Scotland, vol.1 (1898), 127–8, 172–3
  15. ^ Calendar of State Papers Spanish. 11. London: Her Majesty's Stationery Office. (1916) 
  16. ^ Rev. Joseph Stevenson M.A., ed. (1865), “Appendix to Preface”, Calendar of State Papers, Foreign Series, of the Reign of Elizabeth. 1559-1560. Preserved in the State Paper Department of Her Majesty’s Public Record Office., London: Longman, Green, Longman, Roberts & Green, pp. cxviii, cxix, cxxii 
  17. ^ MARGARET DOUGLAS, COUNTESS OF LENNOX”. Westminster Abbey. The Dean and Chapter of Westminster. 2013年8月19日閲覧。
  18. ^ Rituals, Images, and Words: The Varieties of Cultural Expression In Late Medieval And Early Modern Europe. Brepols. (2005). p. 190. "the tomb was inscribed, "This work was completed at the charge of Thomas Fowler, the executor of this lady, 24 Oct 1578"" 
  19. ^ a b c The Art of Monarchy: The Darnley Jewel or Lennox Jewel, c. 1571-8”. The Royal Collection. 2017年2月27日閲覧。
  20. ^ Aschengreen Piacenti, Kirsten; Boardman, John (2008). Ancient and Modern Gems and Jewels in the Collection of Her Majesty The Queen. London: The Royal Collection. http://www.royalcollection.org.uk/egallery/object.asp?feature=treu&object=28181&row=69&detail=about 

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lennox". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 419.

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Stewart". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 911.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]