マルセル・カルネ

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マルセル・カルネ
Marcel Carné
Marcel Carné
1950年撮影
生年月日 (1906-08-18) 1906年8月18日
没年月日 (1996-10-31) 1996年10月31日(90歳没)
出生地 パリ
死没地 クラマール
国籍 フランスの旗 フランス
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画
主な作品
霧の波止場』(1938年)
陽は昇る』(1939年)
天井桟敷の人々』(1945年)
嘆きのテレーズ』(1953年)
 
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
銀獅子賞
1953年『嘆きのテレーズ
栄誉金獅子賞
1971年
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
1995年
セザール賞
名誉賞
1979年
その他の賞
ルイ・デリュック賞
1938年『霧の波止場』
備考
第6回ベルリン国際映画祭 審査員長(1956年)
第39回ヴェネツィア国際映画祭 審査員長(1982年)
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マルセル・カルネMarcel Carné, 1906年8月18日[1] - 1996年10月31日[1]) は、フランス映画監督脚本家詩人でもあった脚本家ジャック・プレヴェールとの共同作品で有名である。

来歴[編集]

1906年8月18日、パリで生まれる[1]。同地の職業技術学校の写真映画科を卒業後、撮影助手として映画界に入る。仕事ぶりが評価され、女優フランソワーズ・ロゼーの紹介でロゼーの夫で映画監督ジャック・フェデーと知り合い、1928年から助監督として働くようになる[1]

1930年「Nogent, Eldorado du dimanche」で監督デビュー[1]。1936年にロゼー主演の初長編作品『ジェニイの家』を撮影[1]。1938年には『霧の波止場』がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞[1]ルイ・デリュック賞を受賞。デビューから2年でフランスを代表する巨匠としての名声を得る。

第ニ次世界大戦中はナチスにフランスが占領され、フェデー、ルネ・クレールジュリアン・デュヴィヴィエジャン・ルノワールといったほとんどの映画人がアメリカに亡命する中、脚本家ジャック・プレヴェールと組んで国内に残留。1942年に『悪魔が夜来る』を発表し、フランス映画グランプリ受賞[1]。政治的にも経済的にも映画制作が困難な状況の下、反ファシズムの姿勢を貫いた。

1943年、代表作となる『天井桟敷の人々』を発表し、大セザール賞を受賞[1]。その後もエミール・ゾラ原作の『嘆きのテレーズ』(1953年)などを発表した[1]

しかし、1950年代後半から台頭したヌーヴェルヴァーグの時代に入ると低迷し、青年たちの非行問題を取り上げた『危険な曲り角』(1958年)でフランス・シネマ大賞を受賞したのみだった[1]

1971年と1982年にヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞[1]、1978年にセザール賞名誉賞を、1989年に高松宮殿下記念世界文化賞[1]、1995年にはヨーロッパ映画賞生涯功労賞をそれぞれ受賞した。

1996年10月31日、クラマールにて90歳で死去した[1]

監督作品[編集]

『危険な曲り角』(1958年)の撮影現場。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n マルセル・カルネ - 高松宮殿下記念世界文化賞”. www.praemiumimperiale.org. 日本美術協会. 2022年10月18日閲覧。

外部リンク[編集]