マルコポーロ事件

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マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)とは、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本の出版界の商業主義、過度な広告依存、スポンサーへの過剰萎縮などの議論のきっかけとなった。

概要

発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、アウシュヴィッツマイダネクに観光に訪れた際に撮影などを行ったのち1989年頃から収集した英文図書に基づき執筆したもので、掲載にあたっての題名は『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。この事件は公権力の強制力を伴う法規性や言論規制ではなく、言論による批判の結果として、あるいは広告収入に過度に依存し萎縮した結果として、言論機関が自主的に廃刊を決定したもので民事裁判にもなっていないため、憲法学上の概念としての「言論の自由」に対する弾圧事件ではなく、正確には「未係争の民事紛争事件」である。

その内容は、ナチス党政権下のドイツユダヤ人差別、迫害したことは明白な史実としながらも、

  1. そのナチス党政権下のドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとした、とする従来の主張には根拠がない
  2. その手段として使用されたとするガス室は、それらの位置や構造からみて、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造した物としか考えられない
  3. 戦後、連合国軍が押収したドイツ政府文書から判断して、ナチス党政権下のドイツが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んで企図した計画は、ソ連を打倒した後、ヨーロッパのユダヤ人をロシアに強制移住させるものだった
  4. 収容所でユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死である

などというものであった。

この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは1995年1月17日で、阪神大震災が起きた日で震災報道に覆い隠されていた。また国内の多くの識者は、記事の内容そのものがニュルンベルク裁判におけるナチス戦犯と連合国による証拠と弁論に基づく判決と戦犯処刑によって決着した戦後処理事案の蒸し返しにすぎないと受け止め、話題性がないとして沈黙を守った。

雑誌発売を受けて直ちに、アメリカ合衆国ユダヤ人団体とイスラエル大使館が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、週刊文春をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけた。ただしイスラエル大使館やSWCは終始一貫してマルコポーロの廃刊は求めていない。この事態により事件の話題性とニュースバリューは高まり、マスコミや識者から事件が注目され、言論界や国民各層から記事への批判や文芸春秋への抗議が寄せられるようになった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどして記事事実の撤回と謝罪を拒んでいたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の自発廃刊と社長・『マルコポーロ』編集長ら雑誌編集・発行に対して責任のある人々の解任を決定した。

執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、歴史認識と言論の責任をめぐって広範な議論が起こった(廃刊抗議者が論ずるようなナチ賛美はヨーロッパでは犯罪と定義されている)。また、この事件をきっかけとして、過度な広告収入への依存に対する反省や出版社のスポンサーからの自立についても議論が広がった。

西岡論文

西岡による主張

以下、要点。

  1. まず、事実上全ての歴史家が認めているように、ヒトラーが「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は、今日まで発見されていない。
  2. 戦後、アウシュヴィッツで公開されている「ガス室」のなかには、ドイツ人用の病院の前に面しているものもある。これでは、死刑後青酸ガスを排気すると、向かいの病院のドイツ人達の生命が脅かされてしまう。場所と構造があまりにもおかしい。
  3. 「ガス室」の詳細を検討すると、換気扇がないし、ガスの素材であるツィクロンBを加熱するための装置もない。

以上の理由をもって、西岡はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内のガス室とユダヤ人虐殺の計画自体は存在しない、と主張した。

冒頭で、著者はこう述べる[1]

獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた――という恐ろしい話とイメージが重なったからだ。ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るようになった。そして、今では次のような確信に達している。

--まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから『シンドラーのリスト』も一旦忘れてほしい。--

「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱人々が急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そうした報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中には政治的には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注目に値する。とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しやすくなると思うからである。

  1. ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。
  2. しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlösung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒 した後、実行するつもりでいた。
  3. ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。
  4. ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
  5. 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者の一人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度もなかったのである。しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。筆者は、一医師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄で一九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。

気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。

こうした主張の根拠として、著者は、例えば、こうした点を挙げる[2]

連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。

ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラー1943年10月4日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議の記録、ヘルマン・ゲーリング1941年7月31日に書いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。

このように、虐殺に関しての直接の証拠が存在しないと著者が主張する一方で、強制移住を示唆する文書が発見されていることから、ユダヤ人問題の「最終解決」とは虐殺ではなく「ユダヤ人の強制移住」を意味するものである、と西岡は主張する。

また、「ホロコースト」の内容が、戦後二転三転していることも重大である、と著者はいう。例えば、ドイツ西部に在ったダッハウ収容所について、戦後しばらくはガス室による処刑が行なわれていたと言われていたが、ある時期からダッハウではガス室による処刑は行なわれていなかったという説明に変わっている、と著者は述べる。それでは、戦後しばらくの間語られていた「ダッハウのガス室」での処刑に関する生々しい「目撃証言」は、一体何だったのか?と著者は問いかける。

そして、冒頭で言及しているように、こうした「ガス室」に関する目撃証言などを最初に疑った歴史家が、フランスの元レジスタンスであった左翼系歴史家ポール・ラッシニエであったことに触れて、こうした検証は「ネオナチ」のプロパガンダなどではない、と著者は述べる。

こうしてナチス政権下のドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害した、と著者は結論づける。ドイツは、ユダヤ人を、戦後、ロシアに強制移住させる計画を立て、それを「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んでいた、と著者は述べる。そして、その準備施設として作られたのが、アウシュヴィッツをはじめとする収容所であったとする。ところが、東部戦線でドイツが敗退した結果、そうした戦後の強制移住計画は頓挫し、収容所の衛生状態が悪化する中で、発疹チフスの爆発的発発生が起きたのだ、と著者は述べる。そうした悲劇の中で病死したユダヤ人の死体を連合国は、ガス室などによる計画的な大量殺人の犠牲者であったかの様に発表、宣伝したのだ、と西岡は主張する。その傍証として、西岡は、当時のドイツが、「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令を出していた事に言及する[3]

アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録しており、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。「死亡率は、絶対に低下させなければならない」この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?

なお、こうした議論の中で西岡は、いわゆる「反ユダヤ主義」的な言葉は一言も書いておらず、イスラエルについても、全く言及していない。記事の末尾は以下の通りである[4]

ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明白な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。
最後に、一言言っておきたい。アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇の一つである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるからこそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。

反論・批判

石田勇治による反論

石田勇治は、西岡論文の論点を

  1. ホロコーストに関する「定説」と情報操作
  2. ガス室の構造とツィクロンB
  3. 絶滅政策に関する命令文書の有無

の三つに整理した上で詳細な反論を展開した[5]。まず1.では、著者が問題とするホロコーストに関する「今日の定説」そのものに誤解・曲解があり、著者が批判する旧西ドイツの歴史家ブローシャトについても誤った記述をしていると批判した。2.ではジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツの焼却炉』に言及しつつ、アウシュヴィッツのガス室の構造を説明し、さらに毒ガスのツィクロンBは、著者の記述に反して、気化するために加熱を必要としないと論述している。さらに3.では、ヒトラー本人による虐殺命令文書が存在しないことは昔から自明の事柄であり、逆に著者が「証拠にならない」として退けた五つの史料(ニュルンベルク裁判でのラマース証言、ヒムラーの秘密演説、ヴァンゼー会議の議事録、ゲーリング書簡、親衛隊少尉ベッカーの報告)について、これらを否定しようとする著者の主張には根拠がないと言明した。

西岡による再反論

こうした通説の立場からの反論に対して西岡は、廃刊事件直後からパソコン通信PC-VAN)上で、さらに1997年に『アウシュウィッツ『ガス室』の真実:本当の悲劇は何だったのか?』(日新報道)を出版し、再反論している。西岡は『マルコポーロ』の記事に部分的には誤りが存在したことを認めたうえで、「ドイツがユダヤ人を絶滅しようとしたとする証拠はない」「ガス室でユダヤ人が殺された証拠はない」という主張を維持している。

西岡による修正点は以下の通り[6]。 #サイクロンB(ツィクロンB)が青酸ガスを遊離し続ける時間が長時間である事と、サイクロンBの毒性の問題を混同し、サイクロンBの毒性が低いかの様な記述をしてしまった事 #同じくサイクロンBの使用に際して、サイクロンBを加熱する事が必須の操作であるかの様な記述をした事。

チクロンBは、青酸ガスを遊離します。そして、青酸ガスは猛毒です。ですから、そのことだけを考えれば、「チクロンBによる大量殺人」という話は、何も不合理ではないように思われるかも知れません。しかし、こうしたこうしたことをするのに一体どれだけ時間が必要か、ちょっと定量的に考えてみたいのです。今、「定説」側が説明するように、「大量殺人」の目的で、チクロンBを「ガス室」に投げ込んだとしましょう。すると、投げ込まれたチクロンBは、先に述べたような原理で青酸ガスを遊離し始めます。ところが、ここで考えなければならない問題があるのです。それは、そうした青酸ガス遊離がどれくらい続くのか、という問題です。即ち、青酸ガスを吸収または吸着したパルプ片など(チップ)が「ガス室」に投げ込まれる。そして、その投げ込まれたチップから青酸ガスが遊離し始める。それは分かります。しかし、それでは、その青酸ガスの遊離が完全に終わるまでに、一体どれくらいの時間が掛かるのか。それを考えなければなりません。即ち、缶を開けてチクロンBの中身(パルプ片などのチップ)を出すと、それらのチップは青酸ガスを遊離し始めます。それを「ガス室」に投げ込んだのだと「定説」は言うわけですが、ここに重大な問題があります。それは、投げ込まれたチップからの青酸ガス遊離が終わらない内は、「ガス室」内部での青酸ガス遊離は続くということです。従って、その間は、「ガス室」を換気することは無意味ということになります。また、当然のことながら、その間は、「ガス室」の扉を開けることも、その中から死体を搬出することもできません。ですから、その「ガス室」での「大量殺人」に従事する作業員たちは、たとえ「ガス室」の中の人間が全員死んだとしても、「ガス室」内部でチクロンBが青酸ガスを遊離し続ける間は、「ガス室」の扉を開けることもできず、その外で待ち続けなければならなかったはずなのです。ところが、戦前チェコのプラハで発行されていたチクロンBの使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こう書かれてあるのです。チクロンBから青酸ガスが遊離し続ける時間(Einwirkungszeit)は、摂氏5度以下の場合で32時間、加熱すれば遊離は早まり、この時間を短縮できるが、それでも最低6時間にはなる、と。つまり、気温によって差はありますが、一旦チクロンBを缶から出したら、最低でも6時間は、青酸ガスを遊離し続けるということです。それどころか、気温が低ければ(摂氏5度以下の時)、32時間も青酸ガスが遊離し続ける場合もある、ということなのです。ですから、もしそのチクロンBを「ガス室」に投げ込んだら、投げ込まれたチクロンBは、5度以下では32時間、加熱した場合でも最低6時間は、青酸ガスを遊離し続けることになるのです。当然、その間は、たとえ「ガス室」内部の人々が全員死亡したとしても、「ガス室」を換気することも、扉を開けることもできない、ということになります。その上、プラハで発行されていた前述の使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こんなことも書いてあるのです。チクロンBを使って倉庫などの害虫駆除を行なった場合、その倉庫などの換気にどれくらい時間をかけるべきか、という記述があるのですが、それらによると、10時間から20時間の換気をしないと安全ではない、というのです。つまり、チクロンBが遊離する青酸ガスに、壁などに吸着し易いという物理的性質があるからだと思われます。(また、別の資料には、こうした吸着性の故に、強制換気をしてもあまり変わりがなく、それよりも長時間、自然の通風によって換気した方がよいという記述があるそうですが、この資料は、私自身は未入手で読んでいません) いつ、どんな場所でも、このような長時間の換気が必要だったとは思いませんが、今論じている「ガス室」の場合、中空の部屋などではなく、人間の体でびっしりと満たされた空間なのですから、普通の倉庫などよりも換気が困難なことは想像するまでもありません。そこで仮に、この数字をそのまま適用すると、チクロンBで「ガス室処刑」を行なった場合、これだけ時間が掛かることになります。前述のように、チクロンBの青酸ガス遊離が終わるまでに最短でも6時間、最長で32時間。そして、換気に10時間から20時間というわけですから、合計して、最短で16時間、最長で52時間。「ガス室」にチクロンBを投げ込んで「処刑」を開始してから、「ガス室」の換気を終了するまでに、これだけ時間が掛かるということです。これが、「民族絶滅」の方法なのでしょうか?[7]

サイモン・ウィーゼンタール・センターによる抗議と広告ボイコット運動

発売直後にロサンゼルスユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館は『マルコポーロ』編集部に抗議を開始。またSWCは『マルコポーロ』のこの号が発売された直後に駐米日本大使に記事を非難する書簡を送った。またSWCは文藝春秋に広告を出稿する企業に向け文藝春秋に一切の広告を提供しないよう求めた。ただし廃刊までは求めなかった。この広告ボイコットには欧米企業だけでなく日本企業も応じ広告ボイコット運動を是とした。欧米企業はもともと文藝春秋に広告を出稿している企業が少なかったため呼びかけに呼応する企業数は日本企業のそれよりも少なかった。呼応した企業のひとつであるマイクロソフト社は廃刊が発表された後にボイコットに応じている。

『マルコポーロ』編集部はSWCに反論のページを10ページ提供すると提案。しかし、SWCは反論書に対する編集権が『マルコポーロ』編集部にあり反論を掲載すべきメディアとして不適当として無編集掲載を要求したが『マルコポーロ』編集部この要求を拒否した。その結果徹底的な広告ボイコット運動が続けられることになった。広告出稿企業はこうした運動を無視して広告を出稿をする自由があったが、多くの出稿企業はSWCに理(と利)有りとして『マルコポーロ』を含む『文藝春秋』各誌への出稿を自発的にとりやめた。こうして文藝春秋は企業存続の窮地に陥った。西岡が雑誌のインタビューなど述べたところによれば、『マルコポーロ』廃刊の決定がなされる直前、文春社内では「経験したことのない事態」であるとの発言があったほか、「早く何とかしないと『ニューヨーク・タイムズ』が動き出す」といった発言をした幹部がいたと言う事実を文春関係者から聴いたという。なお記事執筆者の西岡には雑誌編集権が無いため雑誌の編集をめぐる抗議や圧力は寄せられず、『マルコポーロ』廃刊が発表された後に記事の執筆者責任をめぐる批判が寄せられるようになった。

文藝春秋による謝罪と『マルコポーロ』廃刊

発売から13日ほどが経った1月30日、文藝春秋は編集権は執筆者ではなく編集部であり発行責任は出版社自身にあるとして西岡には相談せず、出版社として「記事は誤り」と発表し公的な謝罪をすると共に、『マルコポーロ』の廃刊と花田紀凱編集長の解任し、記事に関係する幹部構成員を更迭した。田中健五社長は廃刊を発表した1995年2月2日のホテル・ニューオータニでの記者会見で時に社長の職に留まると述べたが、後に社内外から批判を浴び、結局、2月中旬に田中健五は代表職を辞任した。廃刊により文芸春秋の社員有志がSWCでのセミナーやアウシュヴィッツ見学に参加した。『マルコポーロ』1995年2月号の回収は、実際には行われていない。

廃刊が発表された1月30日、外務省の斎藤事務次官は記者会見を開き、外務省の見解として「廃刊措置は適切だった」と述べている。

江川紹子による指摘

この廃刊の決定を、阪神大震災の被災地で取材中に聞いた江川紹子は、次の様に回想している[8]

明石市から被災地に入って、毎日少しずつ移動しながら8日目に西宮市に到着した。もちろん今回の阪神大震災の取材のためである。1月30日、今回の取材日程も最終日となった日の午後3時頃のことであった。携帯電話が鳴った。「突然ですが・・・」聞こえた文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』のKデスクの声は暗く深刻だった。「マルコが廃刊となりました。今売られている号で最終号です。次号は出ません」「ウソでしょう。なぜ・・・」 ユダヤ人のホロコーストを巡る記事が問題になって、ユダヤ人の団体から抗議を受けたとのこと。交渉中だったが、会社が廃刊を決め、それが産経新聞に出るという話だった。青天の霹靂とはまさにこのことだ。

江川は、統一教会やオウムを巡る報道を通じて、文春と親しく、『マルコポーロ』編集部にも、花田紀凱を始めとする知人を持っていた。

『マルコ』については、以前から休刊の噂はあった。今回の思い切った判断は、『マルコ』だったからのことではないのか。これが『週刊文春』や『文藝春秋』だったら、ろくに交渉もせずに、同じような対応をしただろうか。なにしろ今回は、役員でもない塩谷北米総局長がセンターとの交渉に当たるだけで、田中社長など役員は相手方と直接会って交渉することもせずに、結論を出しているのだ[9]

『マルコポーロ』が赤字であった事に加えて、事件の際、SWCとの交渉の窓口であったのが、塩谷北米総局長(当時)であったと言う指摘である。塩谷はまた、後述する2月2日にホテル・ニューオータニで文春とSWCが開いた共同記者会見において、田中健五の隣に席を取り、田中の発言を注視している。

西岡による批判

廃刊が発表された1月30日(月)、問題となった論考の執筆者である西岡は、朝日新聞夕刊紙上(社会面)で、文春の一方的な決定に対する強い怒りを表明した。この朝日新聞夕刊に掲載された西岡の主張は文春の謝罪と食い違っていたが、新聞で西岡が語ったとされる主張は西岡自身の主張である事実に違いはなかった。

西岡は、廃刊発表の2日後の2月1日に木村愛二企画による総評会館で記者会見を開いた。一方、文春関係者の一人も廃刊が発表された1月30日の夜西岡に電話をかけ文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており当時の文春社内での社員の不満が伺える、と西岡は述べた。が、それらを含めた会見発言や発言内容の動揺は執筆者の責任回避と受けとめられ、記者会見の西岡の主張が在京マスメディアで好意的に受け止められることは無かった。

厚生省による職務専念義務指導

廃刊発表の翌日の1月31日、当時厚生省職員であった西岡の行動に対し、厚生省は国家公務員法が規定する職務専念義務を西岡に求めるため、勤務病院幹部を通じ事件について今後一切発言をせず職務に専念するよう指導した。[10]。またその翌日に行われる事となった記者会見を中止するよう強い指導を実施した。厚生省直轄の勤務病院で「西岡はなかば軟禁状態に置かれた」と「西岡は」主張している。だが、警察への被害届は無く、後述するように実際には出入り自由であった。

記者会見当日の2月1日、西岡は、執筆記事への批判から精神不安定状態になりこのままでは病院から出られないのではないかと思いこみ、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流し「厚生省側を安心させた」と思い込んだ上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車で都内の記者会見会場に向かった。厚生省からの職務専念義務指導について西岡は記者会見冒頭で官庁名は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の朝日毎日読売日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による「介入」については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。(ただし反連合国史観の論壇誌『正論』は「官庁による圧力」という西岡の主張を「西岡の主張」として報じている)  

文藝春秋社とSWC共同記者会見

2月2日、文藝春秋社とSWCはホテル・ニューオータニで共同記者会見を開催した。廃刊の決定に不満を持つ元編集者は、取締役会の方針に反してホロコースト見直し論者であるフリージャーナリストの木村愛二を会場に乱入させ、木村は野次をとばすなどして会見を妨害した。また会場では『マルコポーロ』次号にルポルタージュ掲載予定だったフリー・ジャーナリストの江川紹子も現れ、マルコポーロの記事の内容は支持しないと表明したうえで、自分が取材した記事掲載がつぶれたことの不満をSWCの抗議方法に批判の矛先を向けることで表明した。江川は、SWCに強く批判したが、出稿企業がSWCの広告出稿中止要請を自由に拒否することができたという事実や「出稿企業側の判断の是非」や「ホロコースト犠牲者を冒涜する記事に広告を出し利益を得る企業の倫理欠如」といった問題ついては沈黙を守った。記者会見で江川紹子は次の様に述べた。[11]

田中社長の記者会見について。

田中社長は記者会見の中で自らの責任を問われ、きょとんとした表情で「どういう責任ですか?とってますよ。こうやって。僕がやめちゃってどうするんですか」と問い返した。日本を代表する出版社の一つである同社がこのような不透明な決着をしたことの重みを分かっているのかと首を傾げたくなった。田中社長の陽性な気質は攻勢にある時は、帆に順風を呼び寄せる力となったのだろうが、このように「守り」の態勢では逆風を煽る。隣の塩谷北米総局長が、田中社長が次に何を言い出すか心配そうに見つめ続けていたのが印象的だった。この点に限らず、田中社長の会見での表情は、「身を切られるような決断」(会見での発言)をしたとは思えない、明るいものだった。記者の中からも「今日の会見の雰囲気をみていると、ややこしい問題は早く謝って切り抜けようという感じが伝わってくる」という感想も出たほどだ。田中社長の言動に会見場では何度か失笑が漏れたのだが、当人は「なぜ笑いが出るのか分かりません」と首を傾げていた。(中略)最近部数が伸びてきたとはいえまだまだ赤字の『マルコ』だから、そう迷うこともなく切る決断をしたのではないか、との懸念は、今回の田中社長の表情を見て、ますます膨らむばかりだ。それにしても、と思う。私はこの記者会見で、田中社長が苦渋に満ちた表情、断腸の思いを滲ませた口調があれば、自分自身を納得させようと思っていた。そうでなくても、サイモン・ウィーゼンタール・センター側の説明が真に胸を打つものであれば、こうした結論も仕方がないとあきらめがついたかもしれない。しかし、残念ながらそのどちらもなかった。

SWC、クーパー師についての批判。

そしてクーパー師にも私は失望した。彼は「今回の記事は、投下されたのは原爆でなく、普通の爆弾だったと書かれたようなもの」としながら、問題になった原爆切手の発行について触れ、「切手のデザインに対して、日本から信じがたい感情的な反応があった。その結果原爆の被害を受けた人々の思いを汲んでデザインが変えられた」と述べた。(中略)同センターは「ユダヤ人の人権団体」とマスコミで紹介されているが、本当に人権問題に取り組んでいるのなら、このようにな発言はできるはずがない、と私は思う。ましてや原爆切手に対する反応を「信じがたい感情的な反応」と表現するに至っては、まさに絶句してしまった。言論の自由についての私の質問も半ばはぐらかされてしまった。重ねて回答を求めたが、質問の時間が制限され、かなわなかった。同師は一つの質問に対し、私たちには理解できないユダヤの例え話を含め雄弁に語った。あまりに話が長すぎて、「演説を聞きに来たんじゃない。これじゃ質問ができないじゃないか」という声も上がった。

宅八郎の指摘

週刊SPA!』にコラムを連載していた宅八郎もこの記者会見に出席したが、繰り返し挙手をしたにもかかわらず、最後まで指名されなかった。宅八郎は、この日の記者会見場の空気をこう描写している[12]

いやあ、ボク、会場入り口の受付で、文春の人に念を押されちゃった。「頼みますよ、宅さん」だって。不穏なものを感じたのかな(笑い)集まった記者の数、数100人。外国人記者も多かった。みんなマジメ。間違っても芸能レポーターはいない。同時通訳の電波で流される受信機のイヤホンをみんなが耳に突っ込んでるのが異様だった。ボクの存在も浮いちゃってたけどな。会見は、文春の全面謝罪白旗降伏なんだけど(当たり前か)、花田編集長が来てなくて(呼ばれてなくて)、記者たちは不満顔。記者の追及の矢面に立ったのは、田中社長だった。それでボクも、最前列で、質問しようと2時間もずっと手を上げてた(笑い)。だけど、司会者はボクだけは完全無視してて、絶対に指してくれないんだよな。チェッ。事件について整理しておく。まず、「歴史好きの医者」が書いた「ナチ収容所でのユダヤ人虐殺はなかった。なぜなら証拠がない」という記事にはかなりズサンな印象を持っていた。「証拠がないから歴史にない」というのは乱暴だからだ。ただしボクは、人間、あらゆる見解を持つことは自由だと考えている。だから断定でなく、それまでの定説に疑義をていする範囲であれば、問題は少なかっただろうと思う。(表現の自由の範囲外として、ホロコースト否定を唱えた者を罰するドイツの法には疑問があるが、少なくとも「ナチス問題」の当事者国の民意としては一定「認識」は必要だろう。)それを断定的に「公表」するには、明証責任が発生する。つまり、記事に「ガス室は歴史上なかったという証拠」を提出しなきゃならなくなる。ユダヤ側も発言していたが、やはり記事を断定支持したととれるリード文が、出版責任として問題となったのだろう。しかし、会見の文春側の対応は、しどろもどろ。「何が問題なのか。何を謝罪しているのか」さえ曖昧なものだった。記事に事実誤認があったのかどうか、掲載したことが問題なのか、ハッキリ認識していないようでもある。事実誤認があったというなら、「どこが」を指摘しなければならない。思ったのは、ワイドショーのレポーターじゃないけど、「社長、それで、ガス室はあったんですか!なかったんですか!」という質問がとべば、文春は困ったんじゃないか(笑い)。それがたんに「ひでえ記事でユダヤ人を侮辱してすんません」なんてコメントじゃ、記事を書いた人だって怒るだろう。今回、著者を置きっぱなしにして、文春がとった措置(回収・謝罪・廃刊)に著者自身は怒っている。出版社の著者に対する無責任だと感じた。これじゃ「載せ逃げ」だ。著者一人に責任を取れずに、ユダヤ人に責任を取ったつもりなのか。著者に対する責任をどう考えるのか。これは、同じく著者として生きている人間にとっての大疑問である。その無責任さは、廃刊にもつながっているよう思う。頼まれたわけでもないのに、勝手に自発的に廃刊にしたんだぜ。議論の余地をみずから絶つ「廃刊」なんて無責任だろう。建前だけの謝罪。「謝ってあげよう」「廃刊するんだから許して」としか思えなかった。しかし、会見ではマジメな新聞記者の質問も、建前しか返ってこないものではあった。「事件は今後の出版方針にどう変化を与えるでしょうか?」なんて聞いてどうするんだ。(笑い)ボクも指名されたかったなあ。なぜか、有名新聞記者ばっかり質問していたな。

イスラエル大使館の見解

こうした騒動の中で、イスラエル大使館の行動は慎重で、SWCとは距離を置いていた。

1995年2月8日産経新聞夕刊において、ガノール駐日イスラエル大使(当時)は「過剰に反応するのは日本とイスラエル双方にとって危険この上ない」と発言した。西岡はのちに「ガノール大使(当時)のこの発言はイスラエルが暗にSWCの過激な反応を批判した物ではなかったか?」と論じている[13]

またイスラエル大使館は『週刊現代』の取材に対して、「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」と述べている[14]

ポーランド大使館の態度

また、記事の中で西岡に「ガス室を捏造した」と名指しされたポーランド大使館は沈黙を守っている。新聞、テレビは、ポーランド大使館の沈黙に注目しなかったが、『噂の真相』は、ポーランド大使館に沈黙の理由を問い合せている。この『噂の真相』からの問い合わせに対し、ポーランド大使館は「既に抗議活動が起きていたので、それに加わる必要はないと考えた」という意味の回答を寄せている。

執筆者主催による炎上集会

木村愛二は、2月15日及び2月18日に総評会館で討論集会を開き、2回の公開討論は木村愛二が営業する木村書店から販売された。こうした木村による自称「討論集会」なる炎上商法のための席には、月刊『』編集長の篠田博之が企業広告の萎縮を懸念する立場から司会者として加わった他、アメリカのユダヤ人で、左翼リベラルの立場からホロコーストの再検証を行っていたビデオ作家のデイヴィッド・コール(David Cole)や、科学史を専門とする常石敬一が参加した。

2月18日の討論会の場で、常石敬一は、ナチスドイツは、アウシュヴィッツ等のガス室で、議論の多いツィクロンBを使ったのではなく、サリン等の神経ガスを使用したのではないか?と言う新説を述べた。又、同じ2月18日の討論会の場で朝日新聞記者が「ヒトラーが演説の中でユダヤ人絶滅を予言していたのでは?」と質問しコールが反論する場面などがあったが、議論は最後までかみ合わなかった。

アジア記者クラブ主催講演

アジア記者クラブは、西岡と木村を招いて、会合で二人にマルコポーロ廃刊事件とホロコースト見直し論に関する講演を行わせた。西岡と木村が掲載メディアを失ったことに対して同情的なメディアもあったが、ホロコースト見直し論者である西岡と木村を招いて講演を行わせた事に歴史修正主義的な歴史認識に批判的な同記者クラブ関係者は反発し欠席するなど、同クラブの反応は分かれた。

オウム真理教への強制捜査などの報道の中、世論の多数が廃刊やむなしで収束したことにより、この事件の報道は下火となっていったが、文藝春秋社で開かれたSWCによるセミナーのやりとりが密かに録音され、『噂の真相』で記事として暴露された[15]だがこのような散発的に書かれるセンセーショナルな記事も、マルコポーロ編集部の編集責任の欠如を結果的に強調するものとなり、マルコポーロ廃刊やむなしとの世論を補完する方向に作用した。

渡辺武達による批判

一方、同志社大学教授の渡辺武達は、雑誌『第三文明』1998年9月号[16]にて、文藝春秋を次のように批判している。

文藝春秋はもともと、(1)販売政策としてもうかる(2)結果として記事が市民層を揶揄し、権力層の好む方向での世論形成になる、という条件のいずれかをクリアーしさえすればなんでもしてきた会社だから、この廃刊についても外向けにはユダヤ資本のからむ広告主が圧力をかけたから……などと、俗耳に入りやすい説明が流れるままにまかせ、「自分たちは弱者、被害者だ」というカマトトぶりを演じた。広告主……については、私もまたそれが廃刊の理由の一つだと思う。が、この文藝春秋は、とりわけその雑誌記事を分析すれば分かるように、新潮社とおなじく公安権力との関係が深く、オーディエンス(読者・視聴者)を誤導する情報提供をしばしばしてきたところであることを私たちは忘れてはならないだろう。

さらに、文藝春秋取締役であった岡崎満義が、1996年6月10日情報化メディア懇談会での講演において、西岡記事は正しかったこと、ユダヤ人団体(SWC)は「テロ組織」と示唆した[17]うえで、「『マルコポーロ』誌の廃刊の理由は記事内容が間違っていたとか、広告量が減ったことなどによるものではなく、ある筋からいまのままでは日本の海外駐在員がテロにあう危険性があるという情報が入ったためである」と発言している[16]

この岡崎発言について渡辺は、「思わせぶりに語られる「ある筋」とはどこなのか。これは文藝春秋という出版社が外向き用と内向き用では正反対の「舌」を平気で使い、同時にたえず自己弁護をはかっている、げに恐ろしいところであることをよく表している」と文藝春秋を批判した。

花田編集長の動向

『マルコポーロ』編集長の職を解かれた花田は事件後、文藝春秋の閑職とされる戦後史企画室に異動となった。異動後は心機一転、新雑誌の企画を提案していたが上層部に相手にされないことが多かったことから、だんだんと出社しなくなり、事件の1年後に文藝春秋社を退社した。同時に『朝日新聞』が立ち上げた女性向け月刊誌『UNO!』編集長に就任し、マスコミを驚かせた。

花田の朝日新聞移籍に際しては、朝日新聞の本田雅和が自社批判を展開している。

なお、この『マルコポーロ』最終号の表紙を飾っていたのは、後にテレビドラマ『医龍』等で人気を集める女優稲森いずみであった。

海外での報道

『マルコポーロ』の廃刊をめぐっては日本国内外で大きく報道がされた。日本国外では、ドイツ、オーストリアで、この事件が大きく報道されたほか、アメリカ合衆国の新聞各紙も、この廃刊事件を比較的大きく伝えている。

  • AP通信は、総評会館での記者会見の後、西岡に英語でインタビューを行い録画している。
  • 後にフリージャーナリストとなる徳本栄一郎は、当時ロイター通信の記者で、西岡に長時間のインタビューを行い、厳しい質問を浴びせたが、比較的中立的な記事(英文)を書いている。

日本国内での報道

新聞

当時の日本の新聞、雑誌報道の大部分は、記事の内容に関する議論を避けている。また『マルコポーロ』の廃刊が決定される直前、SWCが西岡がアウシュヴィッツを訪れていないとする事実に反するファックスをマスコミに送付したため、マスコミの関心は、西岡はアウシュヴィッツを訪れたのか、花田にはいつ会ったのかなど、末梢的な事柄ばかりに費やされた。その中で、記事の内容に比較的踏み込んだのは『朝日新聞』で、前述の本田雅和が社会面で「西岡論文とは何だったのか?」と題された大きな記事を執筆したが、他の新聞は総じてこうした記事の内容に関する検討を避けた。

  • 読売新聞』と『毎日新聞』が特に記事に対して批判的で、『毎日新聞』は事件前に西岡が多くの個人、マスコミに送付したパンフレットと記事の原稿を混同して、それを売り込みと誤認する記事を掲載している。同様の事実誤認は『週刊SPA!』誌上で「ゴーマニズム宣言!」を連載していた小林よしのりもしている[18]
  • 読売新聞』が発行していた月刊誌『This is 読売』でも西岡を批判。
  • 産経新聞』は、西岡の問題提起自体については大きく取り上げながら、SWC側の見解を古森義久のインタビューによって伝え、またイスラエル大使館の発言を伝えるなどバランスを取っていた。
  • 日本共産党機関紙『赤旗』はこの事件を大きく取り上げ、収容所の写真などを掲載して、『マルコポーロ』が掲載した西岡の記事と文春を強く批判している。
  • スポーツ新聞では西岡に同情的な記事が複数見られた。夕刊フジはこの問題を連日大きく報じたのに対し、日刊ゲンダイは、扱いが小さかった。

雑誌、週刊誌

  • アエラ』では当時『アエラ』の記者であったジャーナリストの烏賀陽弘道が記事を執筆している。
  • 週刊プレイボーイ』は、この事件をスミソニアン博物館における原爆展示内容の変更事件と並べて取り上げ、西岡側にやや同情的な記事を掲載した。
  • 朝日新聞が発行する月刊誌『科学朝日』が「リビジョニストの科学」を掲載。
  • フライデー』は中立的な記事を伝えている。
  • 月刊『』は創価学会寄りの雑誌であるが、この事件を取り上げた浅野健一の記事は、浅野が木村愛二と個人的に友人であったためか、西岡の記事の内容に関する検証を避けている。
  • 『週刊現代』(1995年2月18日号)は「言論には言論でという自由社会の「言論の自由」が、強力なプレッシャーを保持するSWC(ウィーゼンタール・センター)には通用しないとも受け取れる」とSWCの手法に疑問を投げ掛けている[19]
  • ニューズウィーク日本版』は「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」(1989年6月15日号)で、プリンストン大学のユダヤ系歴史学者アーノ・メイヤーが、アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは病気や飢餓であったとする問題提起をしたことを取り上げた雑誌であり、西岡が『マルコポーロ』にこの記事を書く最初の切っ掛けを生んだ雑誌であった。しかし、『マルコポーロ』事件に際して、この雑誌が事件を取り上げた報道は非常に小さく、ほとんど取り上げないに等しい扱いであった。
  • 週刊金曜日』は、『マルコポーロ』廃刊の数か月前まで本多勝一がホロコースト見直し論に強い関心を抱き、木村愛二に連載を依頼したり、本多自らが、西岡が野坂昭如と共に主宰していたホロコースト見直し論の研究会(情報操作研究会)に出席して好意的な姿勢を示していたにもかかわらず、『マルコポーロ』が廃刊になると、記事と文春を攻撃した。これが、後に木村愛二の同誌に対する提訴の一因となるが、木村は『マルコポーロ』編集部が西岡の原稿の掲載を先送りにしていた際、本多がその西岡の原稿自体を『週刊金曜日』に掲載出来ないか?と打診して来たと述べている。
  • 月刊『創』は、編集長篠田博之による記事「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」のほか、江川紹子による長文の記事(「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」)、福田みずほによる西岡の記事と文春への批判(『ホロコースト』の嘘-ドイツでの反応」)、そして、西岡自身の談話を元に構成した記事(「『ガス室はなかった』記事執筆の真意/「もともとの関心はメディアの情報操作にあった」」)を並べて掲載し、この問題を大きく特集した。

テレビ

  • NHKによる『マルコポーロ』事件の扱いが、他局のニュースと比較して格段に小さかったがその理由は不明である。
  • 日本テレビは、廃刊が発表された当日この問題を大きく取り上げ、その際西岡の記事の中の「まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい」と言う箇所をクローズアップで映し出した。
  • TBSは、筑紫哲也 NEWS23筑紫哲也が記事と文春を批判した他、サンデーモーニング関口宏が西岡の記事の結論である「アウシュヴィッツのガス室は、ポーランドの共産主義政権かソ連が捏造したもの」と言う文を口にした後、当時同局の論説委員であった青木にコメントを譲ったが、青木は「私たちには放送法があるので」と言う理由で記事の内容についての判断を避けている。また、TBSのディレクターが西岡に個別取材を申し入れたが、西岡が生放送での出演を求めたところ、拒絶されている。
  • 田原総一朗が司会を務めるサンデー・プロジェクトテレビ朝日)は、この事件を全く取り上げなかった。
  • フジテレビは、事件後、ワイドショーのTVクルーズ となりのパパイヤがこの問題を大きく取り上げ、コメンテーターとして出演した猪瀬直樹がアーノ・メイヤーの見解を取り上げた『ニューズウィーク日本版』の記事をカメラの前に示し、「今回の記事と似たような事をプリンストンの教授が言っていて、それを『ニューズウィーク』が取り上げたことがあったが、その時は反論も取り上げたので問題が起きていない」という意味の指摘を行った。

インターネット

こうした事件後の報道がなされた当時、インターネットは、まだ普及していなかった。しかし、PC-VANでは、この問題を巡る討論がなされ、この討論には、西岡自身も参加している。このパソコン通信上の議論については、月刊「創」がこれを伝えた他、ホロコースト見直し論(否認論)を厳しく批判する歴史学者たちも関心を寄せ、自分たちの座談会を収録した単行本『ショアーの衝撃』において、簡単にではあるが、言及している。

事件の背景分析

ジャーナリスト真山巴は1996年1月、『噂の真相[20]において、公開情報の分析から事件の背景には当時進行しつつあったオスロ協定に基づく中東和平進展があり、また事件当時多くの日本企業がイスラエルとのビジネスに関わりを深めていたとを指摘し、財界が『マルコポーロ』の記事がそうした中東ビジネスに影を落とすことを恐れた結果、それを受けた日本政府が文春に『マルコポーロ』を廃刊するよう行政指導を加えたのではないか、と言う分析を述べている。

なお、2月2日の記者会見とその前後のマスコミの状況について、木村愛二は自著の中でこう描写している[21]

『マルコ』廃刊事件の報道(以下「マルコ報道」)において、マスメディアは「一時的かつ表面的」な特徴を遺憾なく発揮した。廃刊の真相や背景の究明が不足していただけではなくて、問題の記事、「ナチ『ガス室』はなかった」の中心的な論拠であり、この問題の核心的争点である「ガス室」と「チクロンB」に関する事実関係の議論までが、まるでおこなわれていない。それなのに総ジャーナリズム的バッシング報道の嵐は、同年三月二〇日に発生した地下鉄サリン事件以前に、早くもすぎ去ってしまった。

『マルコ』の発行部数は公称二五万部、実売一〇万部そこそこだったという。問題の二月号は廃刊決定と同時に「回収」となった。回収の実績は不明だが、いずれにしても問題の記事そのものを実際に読んだ読者の数は、何百万から何千万単位の複数の新聞やテレビ報道の受け手の数にくらべれば、ごくごく少数である。圧倒的多数の受け手は、実物の記事に接することなく、大手マスメディアの情報のみに頼って、事態を判断することになる。
そのマスメディアは商業性であり、その商業的生命は速報性にある。だが、問題の記事の内容の判断はだれがするのか。とくにこの場合、失礼ながら、ほとんどのジャーナリストも歴史家も、急場の間に合うような予備知識を持っていなかった。相手が「タカ派の文藝春秋」だから適当な談話で良いというものではないはずだ。それなのに速報マスメディアはせっかちに「判断」をもとめる。このような場合のマスメディアの世論誘導効果には、必然的に政治的、ないしはファッショ的傾向がさけがたいものとなる。
その傾向がもっとも極端に現われたのが、火元の文藝春秋である。もともとかつての大日本帝国時代からの国策的出版社で、いまも社内体制は根っからの「タカ派」だから、こういう場合には露骨に正体をあらわにする。特徴的な現象は、記事内容に責任を持ち、いちばん事情に詳しいはずの『マルコ』編集長と執筆者本人の意見を聴取することなしに、「上御一人」的な廃刊方針が決定され、まかり通ったことだった。そのこと自体がすでに、記事内容とその根拠の調査を、いささかもしなかったことの立証になっている。

わたしは、二月二日に行われた文藝春秋とサイモン・ウィゼンタール・センター(以下SWC)の共同記者会見の席上で、「ガス室」と「チクロンB」に関する数度の調査結果の存在(本文で紹介)など、いくつかの重点的事実を指摘し、「そういう事実を調べた上で廃刊を決めたのか」と質問した。そのさい、田中健五社長(当時)の顔色は急速に青ざめた。わたしが回答を催促すると、上半身をフラフラとぐらつかせながら、「そんな細かいことをいわれても、わたしにはわからない」と、おぼつかなげに回答している。この態度と回答内容は、事実関係の調査をまったく行わなかったことの自認にほかならない。なお、わたしだけができたと自負するこの質問と田中社長の回答状況について、わずかに報道したのはスポーツ紙だけであって、大手マスメディアの報道はまったくなかった。

事件を巡る批評については、『週刊SPA!』では小林よしのりが、「ゴーマニズム宣言」で数度に渡って西岡を攻撃したが、その一方で宅八郎が西岡にインタビューを行い、そのインタビューを掲載した。小林よしのり宅八郎のこのインタビュー記事掲載に強く反発し、後に小林よしのりがSPA!での「ゴーマニズム宣言」を中止し『サピオ』に移動する一因となった。西岡は事実と違うことが書かれたとして小林に抗議している[22]

図書館関係者の雑誌『ず・ぼん』は西岡と社会学者の橋爪大三郎の対談「『ナチ・ガス室』はなかったの論理を検証する」を掲載し、同時に、リベラル系のジャーナリスト長岡義幸の記事を掲載させたが、長岡はこの記事の中で事件を巡るマスコミの報道姿勢を強く批判している。

  • 俳優の中村敦夫は、自身が発行する『中村敦夫新聞』でマスコミが西岡を攻撃しながら反証を挙げていない事を指摘し、事件に関するマスコミの報道を批判した。ただし、中村敦夫側は、後に『中村敦夫新聞』のこの記事が西岡、木村に好意的であった事を自己批判するコメントを出している[23]
  • 保守系言論人の反応は複雑で、上述の古森義久は、『正論』にも寄稿して、『マルコポーロ』の記事を激しく攻撃したが、その『正論』の同じ号で、編集部は西岡が中央官庁(厚生省)から圧力を受けた点を取り上げ、中立的な姿勢を保ちつつも、歴史問題に対する中央官庁の介入には警戒する姿勢を示した。
  • 後に「新しい歴史教科書を作る会」を立ち上げる一人となる西尾幹二は、月刊誌『宝島30』に寄稿して、『マルコポーロ』編集部の姿勢を、ナチスの極悪さを理解していないと言う視点から批判した。その一方で、西尾は「日本人には、ガス室の有無は検証できない」とする言わば不可知論の立場を表明し、ガス室については、議論を棚上げする姿勢を取っている。

風刺漫画

漫画家では、やくみつるいしいひさいちが対照的な視点から事件を風刺した4コマ漫画を描いている。やくみつるは記者会見での西岡を揶揄する4コマ漫画を描いている。それに対していしいひさいちは、文春とSWCが共同記者会見をしている場面から始まり、4コマ目にイスラエル占領地のユダヤ人入植者がガス管を持ちながら「ガスが出ないぞ」と言っている光景を「入植地にガスはなかった」と言う太文字と共に描いて、やくみつるとは対照的な視点から『マルコポーロ』事件を風刺している。またマッド・アマノも『フォーカス』の狂告の時代でこの事件を風刺したパロディーを描いている。

言論の自由などに関する事件への批判

一連の事件が収束した後も、この事件を巡る論争が継続した。重要な争点のうちの一つは言論の自由の観点から提出されたものであった。そこではSWCによる広告ボイコット運動と言う手法と、それに応じて文藝春秋社が取った措置の両方が批判された。

月刊『創』編集長の篠田博之も「この種の言説を紹介するだけでも雑誌廃刊のような目にあうのではと、この問題について言及するのを避けるメディアもあるようだが、これこそまた1つのマスコミ・タブーを作り出すことにほかならない」と批判している[24]

更に、記事の執筆者である当時厚生省の職員(医務官)であった西岡が厚生省から記者会見中止の圧力を加えたことは、中央官庁による言論介入が行われたことを意味し、重大であるが、当時の新聞・テレビは、こうした問題を深く掘り下げて報道しなかった。

江川紹子によるサイモン・ウィーゼンタール・センター批判

この措置によって文藝春秋社が執筆者に一言の相談も無く、記事の内容を取り消し、広告ボイコットの圧力に屈したとして江川紹子は、西岡記事は支持しない立場を明確にした上で、広告ボイコットという行為については厳しい批判を加えている[25]

第一に、問題の記事をどう考えるかという点だ。私は前述のように、この記事を支持しない。(中略)第二の問題点は、サイモン・ウィーゼンタール・センターのとった、広告ボイコットという手法についての評価だ。(中略)ウィーゼンタール・センターの今回の手法は、民主主義のルールを踏み越えていると思う。クーパー師は「広告拒否という強硬手段は異例なことだった。ボイコットは大変深刻な場合のみである」と述べたが、私はその答えでは納得できない。『マルコ』側は反論の機会を用意していた。(それが同じ号に掲載するべきだったことは前述の通りだが)。『マルコ』に西岡氏の記事の倍のスペースを求めて、同センターが調査したホロコーストの実態を伝えることもできた。あるいは謝罪を求めるにしても、『マルコ』で出された記事については『マルコ』誌上で詫びさせるのがスジだろう。ところが、同センターはなんの交渉もせず、広告主へのボイコット要請を行った。(今私の手元にあるマイクロ・ソフト宛のボイコット要請文書は1月19日付である)。当初から広告による圧力を行ったのだ。仮に文春あるいは『マルコ』編集部の側に交渉の誠意がない場合は、このような強硬手段もやむを得ないだろうが、この場合はそうではない。(中略)確かに、言論の自由は面倒くさい側面がある。分かり切ったことであっても、異論が出た時には、きちんと言論によって反論しなければならない。いちいちそうした手間をかけるのは、時に面倒なものだ。しかしそれは、いかなる内容のものであれ、優秀な独裁者を抱くよりも民主主義を選択している私たちにとって最も大切な原則の一つ言論の自由を守るための、いわば経費である。私たちが惜しんではならない手間ではないだろうか。自由な議論の中で、事実に反する言論は淘汰されていくだろう。

江川紹子は、更に、こう懸念を述べている[26]

今回の事件で、ユダヤ人を巡る問題は完全なタブーになるだろう。前出の木村氏は、西岡氏と同じ立場で単行本を出す予定だが、「新聞広告は出してもらえないし、流通も通常のルートからは拒否されそうな状況」(出版社)という。ホロコースト否定でなくても、ユダヤ人批判は当分マスコミから消え失せるだろう。それがユダヤ人に対する新たな偏見や差別を生む危険は大いにある。同センターとは別に、冷静に(かつ 然と)交渉を持とうとしたイスラエル大使館が「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」(『週刊現代』に対するコメント)と危惧するのも当然だろう

言論の自由に関する見解・批判

  • 大月隆寛安原顕のように中立的立場をとろうとした論者は、『マルコポーロ』は西岡の記事と併せてそれに反論する記事を掲載するべきであった、と述べた。江川紹子などもその一人である(後述)。
  • 小林よしのりは、上述の様に、事件に関して西岡を激しく批判したが、ホロコースト見直し論に対する言論規制に賛同する発言はしていない。
  • 一水会代表であった鈴木邦男は、事件から1年を経た時点で、新宿のライブハウスロフトプラスワンに記事を書いた西岡を招き、対談を行っている。この場で、鈴木は「言論には言論を」と言う自分の信条を改めて述べ、廃刊に至る文春の行動を批判している。
  • 1997年、評論家の日垣隆は、西岡が同年出版した単行本『アウシュウィッツ「ガス室」の真実 本当の悲劇は何だったのか?』 日新報道毎日新聞社が発行するエコノミストの書評で好意的に紹介し、間接的に、事件当時の言論の空気を批判した。
  • フォトジャーナリストの広河隆一は、現地アウシュヴィッツでの詳細な現場検証を踏まえて西岡の記事と単行本を批判した上で、こうした議論を全て「反ユダヤ主義」と呼ぶ事の危険を指摘し、ホロコーストの検証自体は自由であるべきだとしている[27]
  • 副島隆彦はインターネット上でホロコーストの見直しを支持する立場を表明し、さらに元外務省職員の佐藤優との2008年に出版された対談書[28]で、マルコポーロ事件以後、日本の出版物において、ユダヤ人についての言論に自主規制がかかっているという趣旨の懸念を述べている。
  • ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストに関する事実関係の議論は保留し、かつ、マルコポーロ事件その物については触れない形で論争の現状を概観し、ホロコーストを「国際問題の中で唯一分析が禁じられた事項」と呼び、 この問題を巡る世界的言論規制の空気に注意を喚起した[29]

出版物でのタブー化の空気とは対照的に、ネット上で、マルコポーロ事件ホロコースト見直し論を論じるブログ等は、数多い。

文芸批評家の絓秀実は、ヘイドン・ホワイトカルロ・ギンズブルグの論争に言及しながら、上記のような言論の自由という争点そのものを批判した[30]。すがによれば、言論の自由という権利は中立的なものではなく政治的闘争の場に他ならないのであるから、その政治性が忘却されてしまった場合、政治的にホロコーストが重要な問題ではなかった日本においては、「ホロコースト否定論」すら言論の自由の名の下に登場し得ることになるのである。

歴史学からの批判

歴史学者石田勇治のコメント報道

事件当時、『サンデー毎日』1995年2月19日号は、小野博宣による電話取材で、東京大学助教授(当時)石田勇治(ドイツ現代史)の次のようなコメントを掲載した。

『中吊り広告を見てすぐ買ったが、驚いた。不正確な記述としかいいようがない』というのは、ドイツ史が専門の石田勇治東大助教授。『タネ本はすぐ分かる。ロンドンで出版された『ロイヒター・レポート』という本で、これはネオナチのバイブル。『マルコ』では欧米で論争になっているように書いているが、歴史研究の立場からすると、論争などまるでない。ヒトラーの虐殺指令書がないとか、ドイツ国内に『絶滅収容所』がないというのは本当です。しかし、筆者(西岡)の発想とはまるで逆に、『命令文書がなかったから虐殺はなかった』ではなく、『命令文書がないのにあれだけの虐殺があったのはなぜか』という研究が数多くされている。また、サイクロンBに関する研究もたくさんあり、十分殺傷能力があるとされている。ドイツでは保守派の学者でも『ガス室はなかった』とは言っていない。史実に反することですから。』

この石田勇治のコメントに対し木村愛二は、石田自身が「タネ本」とされるロイヒター報告を読んでもいないし、入手してさえもないと語ったして、自著の中で批判している[31]

『サンデー毎日』(2・19)も『マルコ』記事の評価を簡単な電話取材でごまかした。 「『中吊り広告を見てすぐ買ったが、驚いた。不正確な記述としかいいようがない』というのは、ドイツ史が専門の石田勇治東大助教授。『タネ本はすぐに分かる。ロンドンで出版された「ロイヒター報告」という本で、これはネオナチのバイブル(後略)』」 本人に直接たしかめたところ、『ロイヒター報告』そのものを読んでいるどころか、実物を見てもいない。ドイツ語の見直し論批判本の名を二つ挙げただけだった。こんなズサンな肩書きだけの談話記事で、西岡が「ネオナチのバイブル」を引き写して作文したかのような印象が作りだされているのだ。 石田はさらに、「歴史研究の立場からすると、論争はまるでない」としているが、論理矛盾もはなはだしい。本人が「二冊持っているドイツ語の本」そのものが、論争の存在の立派な証明である。論争とは、権力御用、学会公認の公開論争だけを指すのではない。 — </ref>

石田勇治はその後、木村の批判には直接答えることはせずに『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社、1999年)や『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』(白水社、2002年)といった著書で、戦勝国によるニュルンベルク国際軍事裁判だけでなく、戦後のドイツ司法当局が現在も続けている「ナチ裁判」、とくにアウシュヴィッツ収容所の重大犯罪(謀殺罪)を裁いたフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判を紹介し、ホロコーストが動かぬ事実であるとした。

また石田勇治は上記『ジャーナリズムと歴史認識』に「アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の史料から」を寄稿して、木村や西岡が問題視するアウシュヴィッツ基幹収容所跡地のガス室の歴史を説明したうえで、ガス室の存在を示す当時の史料を詳しい説明とともに掲載した[32]。しかし、西岡は「ユダヤ人絶滅を命じた命令書」が発見されていないと指摘しており、現在もそうした公文書(命令書)は発見されていない。

歴史学界の動向

欧米の歴史学界(アカデミズム)ではホロコーストに関する実証研究が進み、その歴史的な背景から要因、経緯にいたるまで明らかになっている[33]。ユダヤ人絶滅命令がヒトラーによって口頭で下され、そのため命令書が存在しないことは歴史学界の常識となっている。

ホロコースト見直し論(ホロコースト否認、ホロコースト否定論とも)が欧米の歴史学界で取りあげられることはない。ただしドイツ、オーストリアでは、ホロコースト見直し論がネオナチや極右勢力の宣伝に利用されていることを重く見る歴史学者、学校教員、教育機関が、歴史教育の一環として、ガス室を含むホロコーストの実態に関する教育・啓蒙活動を行っている。またドイツ連邦内務省(ベルリン)、ナチ犯罪追及センター(ルードヴィヒスブルク)はネオナチ対策のひとつとして、同様の啓蒙活動を行っている。

日本の歴史学界では、ドイツ現代史学会が1995年夏の大会でこの問題(「マルコポーロ事件」)を取り上げたが、それ以外で取り上げられることはなかった。西岡の記事の内容に対しては、石田勇治(東京大学教授)、芝健介(東京女子大学教授)、永岑三千輝(横浜市立大学教授)、矢野久(慶應義塾大学教授)、栗原優(創価大学教授)、西川正雄(専修大学教授・東京大学名誉教授)などの歴史家たちが批判をしている。歴史家たちは個々に西岡昌紀木村愛二の主張に反論を加えたが、いずれも専門誌上や著書の一部で触れる程度であったため大きな影響力をもたなかった。大手メディアも、歴史学者に十分な発言の機会を提供しなかった。日本語に堪能なドイツの歴史学者ヴォルムも、この事件を検証し、記事と文春を批判している。[要出典]

日本の歴史学界では、文教大学加藤一郎(西洋史)が、ホロコーストの事実見解を根底から見直す立場を取っており[34]事実上、ホロコースト見直し論の立場に立っている。[要出典]

マルコポーロ・ガス室裁判

梶村太一郎(ベルリン在住のジャーナリスト)と金子マーティン(日本女子大学教授、社会学)は、マルコポーロ事件に関連して「週刊金曜日」1997年1月誌上でホロコースト否定論を糾弾した[35]

これに反発した木村愛二は、両者及び『週刊金曜日』を名誉毀損で東京地裁に訴えたが、地裁は「ホロコーストは世界にあまねく知られた歴史的事実」とした上で[36]、「このような「歴史解釈」をめぐる論争は、我が国の法体系の下においては、本来見解が対立する者同士の自由な議論に任せられるべき分野の問題であって、法が濫に介入すべきものではない。」としてガス室の存在についての判断は行わず、名誉毀損については請求を棄却した[37]


参考文献

脚注

  1. ^ 「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)より記事の一部を引用する。著者はネット上の引用を認めている
  2. ^ 戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)p. 178
  3. ^ 同p. 179
  4. ^ 同p. 179
  5. ^ 石田勇治「ナチ『ガス室』はなかったか ホロコースト見直し論を検証する」。『歴史地理教育』に掲載後、『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(初版1995年、白水社Uブックス2005年)所収。これはティル・バスティアンによる『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(C.H.Beck社)に補足して、石田勇治星乃治彦芝野由和が編集したもの。
  6. ^ 西岡,1997
  7. ^ 西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』(日新報道・1997年)217~220ページ
  8. ^ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
  9. ^ 江川1995
  10. ^ この厚生省による職務専念義務指導については、m9 Vol.2 (晋遊舎ムック2008年)に掲載された同誌による西岡へのインタビューで「西岡側主張」として述べられている
  11. ^ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
  12. ^ 宅八郎「週刊宅八郎」第8回週刊SPA!1995年2月22日号
  13. ^ 西岡『アウシュウィッツ『ガス室』の真実』
  14. ^ 『週刊現代』1995年2月18日号
  15. ^ 。「噂の眞相」1995年4月号「特集2ユダヤ人団体の抗議と広告撤退に完全屈服!『マルコポーロ』を突如廃刊にした文藝春秋の寒々しい”言論事情”」 丸山昇 1995年4月2日発行 2014年11月24日閲覧
  16. ^ a b 雑誌『第三文明』1998年9月号の記事「ナチ〈ガス室〉の否定と歴史修正主義の虚妄」
  17. ^ 『Iーメディア』一五二号、参照→渡辺論文での誤植か?
  18. ^ ゴーマニズム宣言の項参照
  19. ^ 『週刊現代』1995年2月18日号
  20. ^ 真山巴「文藝春秋『マルコポーロ』突如廃刊の「深層」を検証!:あの「事件」からまもなく一年・ようやくその背景が見えてきた」(『噂の真相』1996年1月号)
  21. ^ 木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版・1995年
  22. ^ この経緯については、西岡が著者の一人となっている『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス編、ロフト出版刊、1997年11月、ISBN 4-7952-0069-6 )に詳しい。(ゴーマニズム宣言の項参照)
  23. ^ 『中村敦夫新聞』のこの記事については、月刊『創』1995年5月号に木村愛二が寄稿した記事に詳しい記述がある。
  24. ^ 篠田博之「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」月刊『創』1995年4月号
  25. ^ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
  26. ^ |江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
  27. ^ パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』草思社・1998年
  28. ^ 『暴走する国家 恐慌化する世界―迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』(日本文芸社・2008年
  29. ^ 田中宇メールマガジン「ホロコーストを巡る戦い」」2005年12月20日
  30. ^ すが秀実 『「超」言葉狩り論争』 情況出版 1995年 ISBN 4-915252-17-5
  31. ^ 木村愛二『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版・1995年)木村愛二は、ネット上での自由な著書引用を認めている。
  32. ^ 石田勇治「補論 アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の史料から」梶村太一郎金子マーティン本多勝一新美隆石田勇治著『ジャーナリズムと歴史認識 ホロコーストをどう伝えるか』(凱風社、1999年)
  33. ^ ダン・ストーン著・武井彩佳訳『ホロコースト・スタディーズ』(白水社2012年)は近年の主な研究成果を概観している。
  34. ^ 論文集サイト
  35. ^ 金子マーティン「「ガス室はなかった」と唱える日本人に捧げるレクイエム」『週刊金曜日』155号 1997年1月24日。金子マーティン「ガス室存在の明白な資料を無視する木村愛二」『週刊金曜日』156号 1997年1月31日
  36. ^ 松浦寛 2000, p. 123.
  37. ^ 地裁判決文は、梶村太一郎本多勝一らの『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社)に所収。

外部リンク