マヌ・チャオ
Manu Chao | |
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Manu Chao performing at the 2007 Coachella Valley Music and Arts Festival | |
基本情報 | |
出生名 | José-Manuel Thomas Arthur Chao |
別名 | Oscar Tramor |
生誕 |
1961年6月21日(62歳) フランス パリ |
ジャンル | レゲエ:ラテン音楽/ワールドミュージック |
職業 | ミュージシャン、音楽プロデューサー |
担当楽器 | ヴォーカル、ギター |
活動期間 | 1984 - 現在 |
レーベル |
ナショナル・レコード( アメリカ合衆国) ビコーズ・ミュージック( フランス) ヴァージン・レコード |
共同作業者 |
マノ・ネグラ レディオ・ベンバ・サウンド・システム |
公式サイト | http://www.manuchao.net/ |
マヌ・チャオ(José-Manuel Thomas Arthur "Manu" Chao)は、パリ生まれのスペイン系フランス人の歌手。両親の出身国はスペインで、チャオはバスク人の母とガリシア人の父の血を引いている。政治活動家としての側面も持つ。
スペイン語にフランス語、英語を主とした歌を歌っており、時折多言語で歌うこともある。
初期はホット・パンツのメンバーとして活動、いくつかの音楽のスタイルやフランス語以外のスペイン語や英語など数種の言語を用いており、このスタイルは現在も用いている。1987年にはマノ・ネグラ(Mano Negra)を結成、1990年代半ばに分裂してからはソロ活動をしている。
来歴
幼少時代
マヌの母はスペインの自治州バスク州ビルバオ出身で、父親のラモンはガリシア州ビラルバ出身の作家でジャーナリストである。彼等はフランシスコ・フランコの独裁政治から逃れる為に(マヌの祖父は、フランコ独裁政権から死刑宣告を言い渡されていた)、フランスのパリへと移住した[1]。やがて、マヌが生まれるとパリから離れた郊外へと移り、マヌは幼少時代をブローニュ=ビヤンクールとセーヴルで過ごした。様々なアーティストや父親の知り合いから知的な感性を養った[2]。子供の頃に聴いていた音楽は、はじめは、 両親が聴いていたスペインの音楽や、南米等ラテンアメリカからの音楽だった。 その中でも、キューバのピアニスト歌手、ボラ・デ・ニエベ(Bola de Nieve)の大ファンだった、と本人は語っている。[3] そういう、自分自身のルーツである、スペインやスペイン語圏のラテンアメリカの音楽、 というものと、 生まれ育ったフランスのパリ等で身の回りに溢れていた英国のロックや米国のロック音楽など、 という異なる文化圏の音楽に触れて育ったことが後々の音楽活動の原点になったとも言える。[3]
初期~マノ・ネグラ
初めて加入した家の近所のバンドで、 自分はベースをやっていてベースをやりたかったが、 そのバンドで誰も歌手をやりたがらず、 バンド内の力関係で(一番若く、喧嘩も他のメンバーほど強くなかったから) お前がやれ、と無理矢理歌手をやらされた、のが自分の歌手キャリアの始まりだった、 と語っている。そして、 その時は、無理矢理やらされて全然ハッピーではなかったが今にして思えば、 彼らに感謝している、彼らが自分の歌手キャリアをスタートさせてくれたのだから、 と。[3]
マヌはUKロック・シーンに強く影響を受けており、とりわけザ・クラッシュやドクター・フィールグッド[4]が挙げられている。1980年代半ばにチャオは他のミュージシャンとスパニッシュ/イングリッシュのロカビリーグループ、ホット・パンツを結成。1984年にデモ曲、"Mala Vida"を発表。地元では大いに評価され、注目されることになった。
1987年にマヌの兄弟と従兄弟とでマノ・ネグラを結成、小さなレーベルよりスタートする。 マノ・ネグラの名が知られるようになる前は、 パリの地下鉄駅で演奏して生計を立てていた、 パリの地下鉄の利用者は、色んな国出身で色んな文化背景を持つ人達が集まるので、 世界各国の色んなジャンルの音楽を演奏出来ないと、 そういう人達全てを喜ばせられない、 なので、そこはミュージシャンとして、 色んな異なるスタイルの音楽を習得する為のパーフェクトな学校のような場所で、 とてもいい経験になった、 とマヌ・チャオは語っている。[3] 1988年、ホット・パンツのシングルMala Vida (マラ・ビーダ/Bad Life)をリワークしてリリースすると、フランスでヒットし、間も無く、ヴァージン・レコードに移り、ファースト・アルバム Patchanka (1988)をリリースした。英語圏の市場では受けなかったが、オランダやイタリア、ドイツ等、一部の非英語圏では人気があった。その後、Puta's Fever (1989)、King of Bongo (1991)、Casa Babylon (1994)というオリジナルアルバム(スタジオ・アルバム)をリリース、その他にもライブアルバムやコンピレーションアルバム等もリリースしている。オリジナルアルバムとしては、Casa Babylon(カーサ・バビロン/バビロンの家)が最後のアルバムとなった。[3]
ソロ期(ラディオ・ベンバ)
マドリッドを離れた後、マヌはラディオ・ベンバ・サウンド・システム(Radio Bemba Sound System)をマノ・ネグラ出身の他のバンドメンバーと結成。メキシコのティホゥアナ・ノー!(Tijuana No!)やブラジルのスカンク(Skank)、アルゼンチンのトドス・トゥス・ムエルトスといった、様々な国々のミュージシャンをフィーチャーしている[2]。日本の東京スカパラダイスオーケストラとのコラボ楽曲もある。
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- Clandestino (Virgin, 1998)
- Próxima Estación: Esperanza (Virgin, 2001)
- Sibérie m'était contéee (Virgin, 2004)
- La Radiolina (Because/Nacional, 2007)
ライヴ・アルバム
- Radio Bemba Sound System (Virgin, 2002)
- Baionarena (Virgin, 2009)
シングル
- Bongo Bong (album Clandestino, 13 March 2000)
- Clandestino (album Clandestino, 11 July 2000)
- Merry Blues (album Próxima Estación: Esperanza, 8 October 2001)
- Me Gustas Tú (album Próxima Estación: Esperanza, 3 December 2001)
- Mr. Bobby (album Próxima Estación: Esperanza, 9 September 2002)
- Rainin in Paradize (album La Radiolina, 2 July 2007)
脚注
注釈
出典
- ^ “World beater”. Observer Music Monthly. (2007年7月15日) 2008年3月14日閲覧。
- ^ a b “Manu Chao”. Radio France Internationale (2007年10月). 2008年3月14日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d e “This Week On Alt.Latino: Special Guest Manu Chao”. NPR.org(Alt.Latino) (2011年9月8日). 2014年12月26日閲覧。
- ^ “Mano a Manu Chao”. LA Weekly (2007年5月30日). 2014年12月26日閲覧。