マニラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。MerlIwBot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月18日 (金) 08:13個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ロボットによる 追加: kk:Манила)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

マニラ

Maynila
Lungsod ng Maynila
マニラの公式印章
印章
標語: 
Linisin Ikarangal ang Maynila
Location of マニラ
北緯14度35分0秒 東経120度58分0秒 / 北緯14.58333度 東経120.96667度 / 14.58333; 120.96667
フィリピンの旗 フィリピン
地方 マニラ首都圏
1 - 6 区
バランガイ 897
自治体発足 1574年6月10日
政府
 • 市長 アルフレッド・リム (2007-現在)
面積
1 E7
 • 都市 38.55 km2
標高
16.0 m
人口
(2007年)
 • 都市 1,660,714人
 • 密度 43,079人/km2
 • 都市圏
20,795,000人
等時帯 UTC+8 (フィリピン標準時)
郵便番号
0900 - 1096
市外局番 2
住民の呼称 Manileño (Manilenyo)
市歌 Manila
ウェブサイト www.manila.gov.ph
マニラ中心部

マニラタガログ語:Maynila、英語:Manila)は、フィリピン共和国の首都メトロ・マニラとも呼ばれるマニラ首都圏に所属する市。フィリピンルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。

『東洋の真珠』などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は166万人(2007年)であり、人口1,155万人を抱えるメトロ・マニラの中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2,129万人であり、世界有数の大都市圏を形成している[1]。「マニラ」という名称はタガログ語で「ニラッド(植物の名称)の生えるところ」という意味の「マイニラ」に由来している。

2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第51位の都市と評価された[2]東南アジアでは、シンガポールバンコククアラルンプールに次ぐ第4位である。

地区

市域はパシグ川北岸の8地区、南岸の8地区に分けられる。北岸のビノンド地区はチャイナタウントンドは東洋最大のスラムとして知られる。南岸にあるマニラ旧城のイントラムロス地区や、マニラ湾に沿ったベイウォークなど、観光名所はほとんどが南岸に集中している。

歴史

レガスピの到来

16世紀のスペイン人到来以前から、パシグ川の流域にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝にあった現代のマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、中国人などがさかんに来航して交易をおこなっていた。東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。

レガスピが築いた最初のマニラ市は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。(イントラムロス

中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホンなる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることが多かった。

16世紀の終わりにこの地をおとずれたイエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備された。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設されたが、多くは第二次大戦中に破壊された。唯一建設当時の姿を残しているサン・アウグスチン教会はフィリピンのバロック様式教会群として世界遺産に登録されている。

中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。

スペイン時代からアメリカ時代へ

1762年には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、1764年には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。

スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。ホセ・リサールの啓蒙運動やカティプナンの軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、1898年米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約によってフィリピンはアメリカ領となった。一部の闘士たちはなおも抵抗したが、米比戦争が勃発し、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。

アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。有名なマニラ・ホテルもアメリカ統治時代に建設された。1935年以降、ダグラス・マッカーサーフィリピン軍顧問という肩書きでマニラに在駐し、後に「フィリピン軍元帥」という名誉的な称号を受けている。

第二次世界大戦から現代まで

1941年12月7日に日本がアメリカやイギリスと戦争状態に入り、日本軍がマニラへ迫ったことを受け、12月30日アメリカ陸軍部隊は、市と廃止されるすべての軍事施設から退出するよう命令された。

アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー将軍は潜水艦などを乗り継いで副官らとともにオーストラリアへ逃亡し、残留したアメリカ陸軍部隊は日本軍に降伏した。マニラはマニュエル L. ケソン大統領により「非武装都市」と宣言され、同市を死と破壊から回避させた。ケソン大統領は法令を発布し、大マニラ(Greater Manila)と呼ばれる行政区域を成立させ、マニラから離れた地域を安全地域として安全地域を拡大させた。

大マニラの市長にはケソン大統領の前官房長官であった ホルヘ B. ヴァルガスが選ばれた。1942年元日夕方、日本特使はヴァルガスに対し、日本軍は既にパラニャーケで野営し、翌日には大マニラに入ることを伝えた。1月2日午前9時から午前10時に、日本軍はマニラ市内に行進して入る。

ヴァルガスは、大マニラを新しい当局に委ね、残っているフィリピン人指導者たちを日本当局に紹介する仕事が任された。ヴァルガスと出席したフィリピン人指導者たちは、3つの選択肢から選ぶことを求められた。それは(1)全くの日本の軍政、(2)米比戦争の後、日本に亡命したアルテミオ・リカルテ将軍の下、ひとりのフィリピン人に任される独裁的な政府、もしくは(3) フィリピン人によって選んだ委員会による政府、というものだった。ヴァルガスと地元指導者たちは、第3の選択肢を選び、まず大マニラ、後にはフィリピン全土を統治しようとフィリピン委員会(Philippine Executive Commission)を設立した。

1942年、ヴァルガスはフィリピン委員会の議長となり、マニュエル L. ケソン大統領統治の米国自治連邦区としてのフィリピンだった時期に労働長官であったレオン・G・ギント卿を大マニラの市長に指名した。ギントは大マニラの解放まで同市の市長職を続けた。

ギントの戦時統治下、カロオカン、ラス・ピニャス、マラボン、マカティ、マンダルヨン、ナボタス、パラニャ-ケ、パサイ、サンファンはマニラの地区とされ、マニラ市はその南側地域の“Bagumbayan”(ニュータウンの意)、サンパロク、キアポ 、サンミゲル、サンタクルス地域の”Bagumpanahon”(新時代)、 トンド地域の”Bagumbuhay”(新生活)、ビノンド及びサン・ニコラス 地域の”Bagong Diwa”(新秩序)などを併合して大マニラとなり、新しく成立したケソン市は破綻し、2つの地区に分けられた。

1944年10月20日にアメリカ陸軍のマッカーサー将軍はフィリピンに戻り(「レイテ島の戦い」参照)。1945年2月3日から3月3日にかけて日米両軍の間で行われたマニラの戦いにおけるイントラムロスにおける決戦終了後、日本軍は降伏し、完全に破壊されたマニラ市は正式にアメリカ軍の施政下へと戻された。

戦後のフィリピン独立とその後の経済発展を経て、1976年には、メトロ・マニラという広域都市圏が確立し、マニラは従来の区域を越えて大きく拡大した。イントラムロスと旧市街は戦後も破壊されたままであったが、1979年になってようやく国による再建活動が始められ、整備がすすめられて現代に至っている。

かつてマニラは東洋で最も美しい都市のひとつといわれていたが、戦後のフィリピンの発展とマルコス時代の停滞にともなって多くの貧民が流入し、多数のスラムが形成された。また、生活排水などによる環境汚染がすすみ、マカティ市などの近代的な区域を除いては多くの部分が雑然とした様相を呈すことになり、都市の美化という問題を抱えている。

教育

観光

ファイル:Malacanang palace view.jpg
マラカニアン宮殿
  • マラカニアン宮殿(大統領官邸)
  • ナヨン・ピリピノ(閉鎖中)
  • パコ公園
  • リサール公園(ルネタ公園)
  • SMメガモール(マカティ市)
  • SMモール・オブ・アジア(パサイ市)
  • イントラムロス(かつての要塞)
  • サン・アグスティン教会 - フィリピンのバロック様式教会群としてユネスコ世界遺産に登録されている。
  • ベイウォーク(マニラ湾沿い)

交通

空港

鉄道

道路

  • 北ルソン高速道路
  • 南ルソン高速道路

特産

マニラの名前は特産であるタバコ葉の名前としても使用される。いわゆる「マニラ葉」は幅広い味わいを特徴としている。 マニラ麻など。

姉妹都市・友好都市

脚注

関連項目

外部リンク

公式
観光

Template:Link FA Template:Link GA