マック鈴木

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マック鈴木(鈴木 誠)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県神戸市須磨区
生年月日 (1975-05-31) 1975年5月31日(48歳)
身長
体重
191 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り NPB / 2002年 ドラフト2巡目
初出場 MLB / 1996年7月7日
NPB / 2003年5月2日
CPBL / 2007年8月29日
最終出場 MLB / 2002年7月28日
NPB / 2004年7月25日
CPBL / 2008年4月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 神戸サンズ (2011)

マック鈴木(マックすずき、本名:鈴木 誠(すずき まこと)、1975年5月31日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手投手)、監督

日本プロ野球を経験しないでメジャーリーグ入りを果たした初の日本人選手として知られる。

夫人はお笑いコンビクワバタオハラ小原正子

経歴

学生時代

高校野球の名門滝川第二高等学校に入学するが、一年時の大みそかに学外で傷害事件を起こし高校を自主退学する[1]。その後、他校への編入や社会人野球などへの転向を考えたが、その間にもさらに2件の傷害事件を起こし家庭裁判所の厄介にもなった。その後、父親と知人の紹介で団野村からアメリカ留学を勧められ渡米する[2]

練習生・マリナーズ時代

1992年に野村が経営に関与する1Aアドバンスのサリナス・スパーズに球団職員兼任練習生として参加。ボールボーイ洗濯雑用係などを務める。その後、ピッチャーやブルペンピッチャーなどをチームに混じってするようになる。

1993年には1Aアドバンスのサンバーナディーノ・スピリッツに移籍して4勝12Sを記録。

1994年シアトル・マリナーズとマイナー契約し、2Aジャクソンビル・サンズに昇格、当時ホワイトソックスとマイナー契約をしていたマイケル・ジョーダンと乱闘を経験。

1995年に3Aを飛び越えてシアトル・マリナーズに昇格するが、登板の無いまま3Aタコマ・レイニアーズに降格。

1996年7月7日にメジャーデビューを果たし、村上雅則野茂英雄に次ぐ日本人3人目のメジャーリーガーとなった。日本プロ野球界を経由しない初の日本人メジャーリーガーであり、アメリカンリーグ初の日本人メジャーリーガーでもあった。

1998年にメジャー再昇格し、初勝利。翌年の4月に、飲酒運転で逮捕された。

メッツ・ロイヤルズ時代

1999年6月にニューヨーク・メッツに移籍した後、すぐにカンザスシティ・ロイヤルズに移籍。

2000年には先発投手として8勝を挙げ、完封勝利も記録。

ロッキーズ・ブルワーズ時代

2001年6月にコロラド・ロッキーズに移籍し、7月にミルウォーキー・ブルワーズに移籍。

ロイヤルズ復帰

2002年にロイヤルズに復帰するが、この年メジャーでは勝利を挙げられずに解雇され、日本のプロ野球チーム入団の意向を表明。

オリックス時代

規約によりドラフト会議での指名が必要となり、ヤクルトスワローズが獲得すると言われていたが、オリックス・ブルーウェーブが2巡目で強行指名し[3]、オリックスに入団。メジャー経験者であったが日本球界での経験がないため、新人王資格を特例として有していたが、「新人王の資格は辞退したいと思います」と発言したことが話題になった。

首脳陣の期待は大きかったが、2003年は4勝9敗1セーブ、防御率7.06と振るわなかった。特に対福岡ダイエーホークス戦では6試合で計21.2イニング登板し、1勝4敗、被安打36、失点32と相性が悪かった。8月1日の対戦で先発した際は、1死も奪えないほどの大乱調で、その後チームが1-29という記録的な大敗で敗れるきっかけを生んだ。この年は飲酒運転で警察沙汰を起こし、球団がしばらく公表しなかったことも問題になった[4]

2004年、オープン戦では防御率1.19という好成績を残しオープン戦最優秀防御率投手に輝くも、公式戦に入ると一軍では振るわず、1勝6敗0セーブ、防御率8.57に終わった。同年末の分配ドラフトを経て、2005年はオリックス・バファローズと契約。

しかし2005年シーズンは一軍登板無しに終わり、二軍でも防御率7点台と結果を残せなかった。同年オフに戦力外通告を受けてオリックスを退団。

アスレチックス時代

オリックス退団後、12球団合同トライアウトには参加せず再びアメリカに渡る。2005年12月にオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、招待選手としてメジャーのキャンプに参加するも、オープン戦で結果を残せずマイナー降格。

メキシコ・カブス時代

2006年4月、メキシカンリーグのティファナ・ポトロスに入団。オールスターにも選出され、活躍。8月、メキシコリーグのシーズン終了後にシカゴ・カブスとマイナー契約し、傘下の3Aアイオワに所属。

メキシコ復帰

2007年はメキシカンリーグのタバスコ・キャトルマンに所属。先発として活躍していたが、チームがプレーオフ進出を逃した。

台湾時代

同年8月のシーズン終了後、台湾プロ野球La Newベアーズに移籍。主にクローザーとして、チームの後期優勝に貢献。統一ライオンズとの台湾シリーズの第6戦では、2番手として4回の途中より登板し9回まで投げ、その試合のMVPに選出。シリーズ最終戦でも、統一を2点追う場面の7回から登板、統一を1失点に抑えたが、打線が追いつけず、チームは台湾シリーズの優勝を逃す。その後、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受けるも不合格(このテスト時にグローブを持参せず。親交のあった楽天小山伸一郎に借りて臨んだ)。ひげなどの身だしなみを楽天監督の野村克也に注意される場面もあった。

メキシコ再復帰

2008年ベネズエラウィンターリーグで調整後、La Newに残留するもの、5月に台湾を離れ、5月11日にメキシカンリーグのチワワ・ドラドスと契約。

独立リーグ時代

メキシカンリーグ終了後の8月19日、アメリカ独立リーグであるゴールデンベースボールリーグカルガリー・ヴァイパーズと契約。シーズン終了後の11月7日、メキシコウィンターリーグのトマテロス・デ・クリアカンと契約。主にクローザーとして活躍し、防御率も2.25と好成績を残したが、チームはプレーオフ進出を逃す。

ドミニカ~再びメキシコ

2009年ドミニカウィンターリーグのアスカレーロス・デル・エステと契約。4月、カルガリー・ヴァイパーズと再び契約。同年はチームがリーグ優勝。主にクローザーとして、防御率も2.44と、好調な成績でシーズン終了。ゴールデンベースボールリーグ終了後、すぐに同じくアメリカ独立リーグの1つであるアトランティックリーグサザンメリーランド・ブルークラブスに助っ人として合流。チームのリバティ・ディビジョン優勝に貢献し、リーグ決勝戦では、ランカスター・バーンストーマーズと最終戦までもつれ込み、リーグ優勝を逃す。

2010年は、メキシカンリーグのチワワ・ゴールデンズでプレーし先発として9勝4敗、リーグ1位の防御率2.89と活躍。メキシコでのシーズン終了後、ゴールデンベースボールリーグのカルガリー・ヴァイパーズに3度目の入団をして2勝2敗の成績を残した。ゴールデンベースボールリーグ終了後は再びメキシコに戻り、ウィンターリーグに参加する予定[5]だった。

日本独立リーグ時代

2011年1月26日、日本の関西独立リーグに新規参入する球団の監督就任が有力となっていることが明らかになり[6]、翌27日に新球団(神戸サンズ)の選手兼任監督となることが発表された。同年シーズン終了後、退団[7]

独立リーグ退団後

淡路島のスポーツジム「サンライズマックジム」でトレーナーをしている。2013年からJ SPORTSで解説を行っている[8]。2015年からはミヤギテレビのローカル中継にも本数契約で出演。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1996 SEA 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 8 1.1 2 0 2 1 0 1 0 0 3 3 20.25 3.00
1998 6 5 0 0 0 1 2 0 -- .333 127 26.1 34 3 15 0 0 19 0 0 23 21 7.18 1.86
1999 16 4 0 0 0 0 2 0 0 .000 207 42.0 47 7 34 2 4 32 2 0 47 44 9.43 1.93
KC 22 9 0 0 0 2 3 0 0 .400 303 68.0 77 9 30 1 3 36 9 0 45 39 5.16 1.57
'99計 38 13 0 0 0 2 5 0 0 .286 510 110.0 124 16 64 3 7 68 11 0 92 83 6.79 1.71
2000 32 29 1 1 0 8 10 0 0 .444 839 188.2 195 26 94 6 3 135 11 0 100 91 4.34 1.53
2001 15 9 0 0 0 2 5 0 0 .286 251 56.0 61 12 25 1 3 37 6 0 38 33 5.30 1.54
COL 3 1 0 0 0 0 2 0 0 .000 39 6.1 9 3 11 0 1 5 2 0 12 11 15.63 3.16
MIL 15 9 0 0 0 3 5 0 0 .375 252 56.0 52 5 37 3 4 47 8 0 37 33 5.30 1.59
'01計 33 19 0 0 0 5 12 0 0 .294 542 118.1 122 20 73 4 8 89 16 0 87 77 5.86 1.65
2002 KC 7 1 0 0 0 0 2 0 0 .000 100 21.0 24 2 17 2 0 15 6 1 21 21 9.00 1.95
2003 オリックス 29 19 0 0 0 4 9 1 -- .308 520 108.1 129 18 74 1 4 85 10 0 99 85 7.06 1.87
2004 24 5 0 0 0 1 6 0 -- .143 242 48.1 70 10 26 3 5 45 6 0 47 46 8.57 1.99
2007 LaNew 8 1 0 0 0 2 2 4 0 .500 87 21.0 17 1 7 0 1 18 1 0 10 9 3.86 1.14
2008 5 0 0 0 0 1 0 1 0 1.000 25 4.2 5 1 5 1 1 3 2 0 6 6 11.57 2.14
MLB:6年 117 67 1 1 0 16 31 0 0 .340 2126 465.2 501 67 265 16 18 327 44 1 326 296 5.72 1.64
NPB:2年 53 24 0 0 0 5 15 1 -- .250 762 156.2 199 28 100 4 9 130 16 0 146 131 7.53 1.91
CPBL:2年 13 1 0 0 0 3 2 5 0 .600 112 25.2 22 2 12 1 2 21 3 0 16 15 5.26 1.32

記録

NPB

背番号

  • 96 (1996年)
  • 41 (1998年 - 1999年途中)
  • 55 (1999年途中 - 同年終了)
  • 17 (2000年 - 2001年途中、2002年、2011年)
  • 16 (2001年途中 - 同年途中)
  • 52 (2001年途中 - 同年終了)
  • 29 (2003年 - 2005年)
  • 53 (2007年 - 2008年)

著書

脚注

関連項目

外部リンク