マウリシオ・グージェルミン
マウリシオ・グージェルミン | |
---|---|
グージェルミン (1991年アメリカGP) | |
基本情報 | |
国籍 | ブラジル |
出身地 |
同・サンタ・カタリナ州 ジョインヴィレ |
生年月日 | 1963年4月20日(61歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1988-1992 |
所属チーム |
'88-'89 マーチ '90-'91 レイトンハウス '92 ジョーダン |
出走回数 | 80 (74スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 10 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1988年ブラジルGP |
最終戦 | 1992年オーストラリアGP |
マウリシオ・グージェルミン(Maurício Gugelmin, 1963年4月20日 - )は、ブラジル出身の元F1ドライバー。サンタ・カタリナ州ジョインヴィレ生まれ、パラナ州クリチバ市育ち。
経歴
スーパーマーケットのチェーンを経営する実業家の父の下、裕福な家庭で育つ。8歳でカートを始め、1980年にブラジル・カート、1981年にブラジル・フォーミュラ・フィアットでチャンピオンとなる。
1982年にイギリスに渡り、初年度にブリティッシュ・フォーミュラ・フォード1600でチャンピオンを獲得。ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000では1984年に2年目のチャンピオンを獲得するなど、実績を積み上げていく。
1985年はイギリスF3でチャンピオンを獲得し、マカオGPも制覇。1986年より国際F3000に参戦、2年目の1987年にはランキング4位となった。
F1時代
マーチ(レイトンハウス)時代
- 1988年
1988年シーズンの開幕戦ブラジルGPにて、イワン・カペリのチームメイトとしてマーチからF1デビューを果たした。この年のマーチは、ノンターボながら度々光る走りを見せ、ベネトンと共にNA勢の中心チームだった。
当初こそマシンの信頼性に苦しめられ、開幕から6戦のうち5戦でマシントラブルによるリタイアを喫したが、それ以降はシーズン終了までの10戦のうち7戦で完走を果たした。スピンないしクラッシュでリタイアしたのは第11戦ベルギーGPと第16戦オーストラリアGPの2度だけであり、後者は中嶋悟に追突されたアクシデントだった。
また、特にシーズン後半は予選・決勝を通じてしばしば上位を走行し、第8戦イギリスGPで4位、第10戦ハンガリーGPで5位に入賞。計5ポイントを稼ぎ、ランキングで13位となった。また第13戦ポルトガルGPでは、予選で自身ベストとなる5番手グリッドを獲得している。
- 1989年
1989年は、地元の開幕戦ブラジルGPにて予選12位から追い上げ、3位表彰台を獲得。第7戦フランスGPでは、スタート直後に大クラッシュに巻き込まれ横転するが、再スタートとなったレースでは快走を見せ、F1で自身唯一のファステストラップを記録(ただし、規定周回不足により完走扱いにはならなかった)。
しかし空力に対し過敏であり、信頼性も低いマシンに悩まされ、結局入賞はブラジルGPのみに終わっている(4ポイントでランキング16位)。また、9度のリタイヤと1度の予選落ちを喫した。
- 1990年
1990年、マーチのメインスポンサーであったレイトンハウスが前年にチームを買収したことで、この年よりコンストラクター名がレイトンハウスとなる。この年のマシン「CG901」は前年以上に神経質であり、特にバンピーな路面に弱かった。第2戦ブラジルGP・第6戦メキシコGPでは、カペリと揃っての予選落ちを喫したが、どちらもシリーズ有数の路面の荒れたサーキットであった。
メキシコGP直後の第7戦フランスGPでは、チームが改良型のマシン「CG901B」を用意。スムーズな路面のポール・リカールでの開催であったことや、タイヤ無交換作戦がはまったこともあり、一時カペリに次ぐ2位を走行。フェラーリのアラン・プロスト、マクラーレンのゲルハルト・ベルガーらの追撃をしのいだ。最終的には、元々信頼性に難があったジャッドエンジンが限界に達し、プロストに抜かれたところでブローしリタイアとなったが、久々の表舞台への登場となった。その後、第11戦ベルギーGPで6位に入賞している。
- 1991年
1991年もレイトンハウスから参戦。第2戦ブラジルGPでは、地元で予選8位につけ期待を集めたが、決勝直前のウォームアップで車内の消火器が噴射し、足に火傷を負い、最終的には痛みに耐え切れず序盤で棄権した。他にも時折7~9位といった上位グリッドに付け、決勝でも7位3回・8位1回を記録したが、結局ノーポイントに終わった。
基本的な戦闘力は前年以上に低下しており、カペリ共々リタイヤを連発するシーズンとなった。また同チームの経営母体の企業のオーナーの赤城明が、富士銀行の不正融資事件に関係し逮捕され、急速に資金難になったことから、1991年シーズンを持って同チームから離れることとなった。
ジョーダン時代
- 1992年
1992年には、ジョーダンに移籍。前年、初年度ながら好成績を挙げたチームであったが、この年のチームは低迷。チームメイトのステファノ・モデナが4度予選落ちを喫したのに対し、予選落ちこそ無かったものの、グリッドは毎回下位に沈んだ。決勝でも、モデナはかろうじて6位入賞を1回記録したが、グージェルミンは16戦中11戦リタイヤ、最高位11位の成績でノーポイントに終わった。
結局、この年が最後のF1となった。最終戦オーストラリアGPでは、ブレーキトラブルから激しいクラッシュを起こすというかたちでリタイヤした。
CART時代
F1を去った後は、チャンプカー(CART)に出走。主にブルース・マッコウのパックウエストチームに所属し、同じく元F1ドライバーのマーク・ブランデルをチームメイトとした。
1993年にデビュー後、1996年まではあまり好成績を残していなかったが、1997年のバンクーバーで唯一の勝利を記録。最終的にランキング4位となった。またカリフォルニア・スピードウェイで行われたレースの予選で、1周の平均時速で240.942マイル(387.7586km)を記録し、公式自動車レースの中の1周における最高速度記録を樹立した(この記録は2000年に同じカリフォルニアで、241.428マイル(388.5407km)という新記録を樹立したジル・ド・フェランによって破られた)。
その後も優勝こそないものの、ベテランらしいいぶし銀の走りで安定感を見せていたが2001年、長年病魔と闘っていた息子ジュリアーノが死去。その際には、1戦を欠場している。そして翌2002年、開幕を前に引退を表明した。
引退後
現在はアメリカに住み、植林事業を営んでいる。
エピソード
- 身長は180cm、体重は80kgと、レーサーとしては珍しい巨漢だった。
- また体力があり、初めて表彰台に立ったブラジルGPでも全く疲れた様子がなかったらしい。
- 母国の先輩・アイルトン・セナとは元ルームメイトであり、モナコのガードレールに何cmまで近付いたかを自慢し合うなど、非常に仲の良いことで知られた。
- CART時代は、「クラッシュの際のマシンと身体への衝撃を調べる」という大学の研究に協力。身体に複数の器具を付けたままレースを行っていた。
- 臨死体験についての書籍の中で、1989年フランスGPでの事故が紹介されたことがある。この中でグージェルミンは、事故の瞬間にスローモーションに感じたこと等を語っている。
- 機械いじりが好きで、プライベートでは自身の持つ乗り物のほとんどに手を加え、改造していた。このため、ドライバーとしての速さとともにメカニカル面への精通から開発能力の高さも売りとしていた。
- 自身の公式サイトで、自身にとって最も印象に残っているレースとして、1997年のCARTバンクーバーでの優勝と同年のフォンタナにおける最高速度の世界記録の樹立を、最も驚いた瞬間として1989年F1フランスGPの事故を挙げている。
グージェルミン一家
グージェルミンの家系はマウリシオの曽祖父の代から車好きの一族を成しており、マウリシオ・グージェルミンの父、アルセウ・グージェルミン(Alceu Gugelmin)は地元ではクラシックカーのコレクターとして有名な人物の一人である。
その3人の息子たちも、幼い頃からそんな家庭で育ったために早くから車に興味を示すようになり、末っ子だったマウリシオは特に車への関心が高く8歳の時にすでに車の運転を覚えていた、と、後にマウリシオ本人やアルセウらが語っている。
レースから引退して後、出身地であるクリチバ市内にある自動車博物館に、マウリシオ・グージェルミンについての常設展示としてCART時代の写真や最高速度記録を樹立した時の写真パネルなどが展示されるようになった。この博物館には設立当時、グージェルミンの一家が所蔵していた15台のコレクションからその内の14台が寄付されている。
レース戦績
F1
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | マーチ | 881 | BRA Ret |
SMR 15 |
MON Ret |
MEX Ret |
CAN Ret |
DET Ret |
FRA 8 |
GBR 4 |
GER 8 |
HUN 5 |
BEL Ret |
ITA 8 |
POR Ret |
ESP 7 |
JPN 10 |
AUS Ret |
13位 | 5 |
1989年 | BRA 3 |
SMR Ret |
16位 | 4 | ||||||||||||||||
CG891 | MON Ret |
MEX DNQ |
USA Ret |
CAN Ret |
FRA NC |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL 7 |
ITA Ret |
POR 10 |
ESP Ret |
JPN 7 |
AUS 7 | ||||||
1990年 | レイトンハウス | CG901 | USA 14 |
BRA DNQ |
SMR Ret |
MON DNQ |
CAN DNQ |
MEX DNQ |
FRA Ret |
GBR DNS |
GER Ret |
HUN 8 |
BEL 6 |
ITA Ret |
POR 12 |
ESP 8 |
JPN Ret |
AUS Ret |
18位 | 1 |
1991年 | CG911 | USA Ret |
BRA Ret |
SMR 12 |
MON Ret |
CAN Ret |
MEX Ret |
FRA 7 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 11 |
BEL Ret |
ITA 15 |
POR 7 |
ESP 7 |
JPN 8 |
AUS 14 |
NC (25位) |
0 | |
1992年 | ジョーダン | 192 | RSA 11 |
MEX Ret |
BRA Ret |
ESP Ret |
SMR 7 |
MON Ret |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 15 |
HUN 10 |
BEL 14 |
ITA Ret |
POR Ret |
JPN Ret |
AUS Ret |
NC (23位) |
0 |
CART
年 | 所属チーム | ランキング | 獲得ポイント | 最高位 |
---|---|---|---|---|
1993年 | ディック・シモン・レーシング | - | 0pt | 13位(ラグナ・セカ) |
1994年 | チップ・ガナッシ・レーシング | 16位 | 39pt | 5位(バンクーバー) |
1995年 | パックウエスト・レーシング | 10位 | 80pt | 2位(マイアミ) |
1996年 | パックウエスト・レーシング | 14位 | 53pt | 2位(ミシガン) |
1997年 | パックウエスト・レーシング | 4位 | 132pt | 優勝(バンクーバー) |
1998年 | パックウエスト・レーシング | 15位 | 49pt | 4位(ミッドオハイオ) |
1999年 | パックウエスト・レーシング | 16位 | 44pt | 4位(バンクーバー) |
2000年 | パックウエスト・レーシング | 17位 | 39pt | 2位(ナザレス) |
2001年 | パックウエスト・レーシング | - | 17pt | 7位(トロント) |