ポルフィリオ・ルビロサ
ポルフィリオ・ルビロサ | |
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Porfirio Rubirosa Ariza | |
生誕 |
1909年1月22日 ドミニカ共和国 サン・フランシスコ・デ・マコイス |
死没 |
1965年7月5日(56歳没) フランス パリ |
職業 | 外交官、レーシングドライバー |
ポルフィリオ・ルビロサ | |
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基本情報 | |
国籍 | ドミニカ共和国 |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1955 |
所属チーム | プライベート(フェラーリ) |
出走回数 | 1 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1955年ボルドーGP |
ポルフィリオ・ルビロサ(Porfirio Rubirosa Ariza 、1909年1月22日 - 1965年7月5日)は、ドミニカ共和国の外交官、レーシングドライバー。プレイボーイ、セレブリティとして世界的に著名であった。
プロフィール
生い立ち
ドミニカ共和国サン・フランシスコ・デ・マコイスで軍人の家に生まれ、父が駐在武官としてフランスのパリに赴任したことから、少年期までの間を同地ですごし、17歳の時にドミニカ共和国へ戻る。
プレイボーイ
1937年に同国の独裁者のラファエル・トルヒーヨ大統領の娘であるフロール・ド・オロと結婚し、同国の駐フランス特命全権大使としてパリに赴任するものの、すぐに離婚し、第二次世界大戦中の1942年に、当時フランス最高の美女と称えられた世界的な人気女優のダニエル・ダリューと再婚する。
しかしその後もヨーロッパや南米をはじめとする世界各国の社交界でプレイボーイとして鳴らし、欧米の女優や貴族の令嬢との交際の噂が絶えず取りざたされた。
交際の噂が出ただけでも、マリリン・モンローやエヴァ・ガードナー、ジュディ・ガーランド、ザ・ザ・ガボール、キム・ノヴァク、リタ・ヘイワースなどのそうそうたる顔触れであった。さらに、アルゼンチンのファーストレディーとなるエヴァ・ペロンとの関係の噂までが取りざたされている。
なお数回の結婚(離婚)歴を持ち、フロール・ド・オロとの最初の結婚で駐フランス大使の地位を与えられたほか、ダニエル・ダリューや世界的なミリオネアのバーバラ・ハットン、ドリス・デュークとの離婚では多額の慰謝料に高級車、さらには飛行機まで手にしている。
社交界
また、レーシングドライバーやポロプレイヤーとしても活躍したほか、ジャンニ・アニェッリやアーガー・ハーン4世、ジョン・F・ケネディやその義弟のピーター・ローフォード、タキ・テオドラコプロスやアリストテレス・オナシスなどの各国のセレブリティーや王族、大富豪などの上流階級との親交を持っていた。
死去
1965年7月に、パリのナイトクラブ「ジミーズ」で行われていた、自身が所属するポロチームの祝勝パーティーの帰りにフェラーリ250GTを運転していた際に、ブローニュで他の車を避けようとして木に激突し事故死した。
レーシングドライバー
1950年と1954年のル・マン24時間レースに参戦したほか、1955年4月25日に行われたフォーミュラ1の非選手権レースとして開催されたボルドーグランプリに、プライベーターとしてフェラーリ「ティーポ500」で参戦した。なお同マシンは1952年から1953年にかけてアルベルト・アスカリが使用したものを譲り受けたものであった。