プリマス植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プリマス植民地
Plymouth Colony
プリマス植民地の位置
公用語 英語
首都 プリマス
統治者 知事
人口 到着時:102名、解消時:約7,000名
設立
解消
1620年11月13日
1691年10月17日
通貨 英ポンド

プリマス植民地(プリマスしょくみんち、: Plymouth Colony, New Plymouth, The Old Colony)は、1620年から1691年までの北アメリカにおけるイギリス植民地の魁けである。最初の入植地は、ジョン・スミス船長によって前もって探査され名付けられていたニュープリマスだった。この入植地は植民地の首都となり、現在はマサチューセッツ州プリマスとなっている。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。

歴史[編集]

プリマス植民地は、後にピルグリム・ファーザーズとして知られるようになる宗教的分離派によって設立され、バージニア植民地ジェームズタウンと共に、イギリスが設立した北アメリカにおける最も初期の植民地であり、ニューイングランド地域では最初の相当な大きさのある恒久的入植地となった。インディアンのスクァント酋長の助けを得て、植民地の成功を請け合ってくれたマサソイト酋長と条約を結ぶことができた。プリマス植民地は、インディアン戦争の戦いの中でも最も初期で血腥いものとなったフィリップ王戦争では中心的な役割を果たした。最終的にプリマス植民地はマサチューセッツ湾植民地と合併した。

プリマス植民地はアメリカの歴史の中で特別の役割を果たした。プリマスの市民は、ジェームズタウンの多くの入植者の様に起業家であるよりも、宗教的迫害を逃れ、神を崇めるために適した場所を探したものだった。植民地の社会的また法的体系は市民の信仰に密接に結びついたものだった。プリマス植民地の多くの人々と、またそれを取り巻く出来事はアメリカの神話となり、感謝祭という北アメリカの伝統となった事柄やプリマス・ロックという記念碑を生んだ。プリマス植民地は比較的短期間で消滅したものの、今日でも「アメリカン」と言われるものの重要な象徴になってきた。

発端[編集]

スクルービーの村。1607年までピルグリムの本拠だった。

プリマス植民地は、後にピルグリムとして知られるようになった一群の人々によって創設された。その集団の中核は成人の40%、家族集団の56%であり[1]ジョン・ロビンソン牧師、ウィリアム・ブリュースター司祭、およびウィリアム・ブラッドフォードが先導した宗教的分離派信徒の一部だった。イングランドのノッティンガムシャー州スクルービーの町にいる時に、信徒達は宗教的迫害の圧力を感じるようになった。1604年のハンプトンコート会議で、イングランド王ジェームズ1世ピューリタンプロテスタント分離派を望ましくないものと宣言し、1607年、ヨーク大司教は幾人かの信徒の家を襲って牢獄に収監した。[2][3]このために信徒達は1609年にイングランドを離れ、オランダに移動して、最初はアムステルダムに、後にライデンに住み着いた。[4]

ライデンで信徒達はその選んだままに信仰する自由を味わったが、オランダの社会はこれら移民達には馴染めないものだった。スクルービーの町は農業に基づく地域社会であり、ライデンは産業の盛んな中心地であって、生活の速度がピルグリムには随いて行けないものだった。さらに信徒の社会は結び付きの強いままだったが、子供達はオランダの習慣と言語に慣れ始めた。ピルグリムは、この時もイギリス王室からの迫害と無縁では無かった。1618年にウィリアム・ブリュースターがイングランド王とイングランド国教会を強く批判する文書を出版すると、イギリス当局はブリュースターを逮捕するためにライデンにやってきた。ブリュースターは逮捕を免れたが、この出来事は信徒達にイングランドからはもっと離れた所に移動しなければならないという動機を与えた。[5]

1619年6月、ピルグリムは、ニューネーデルラントのケープコッド南部に入植する機会をオランダの影響力を避けたいと思ったために辞退した後[6]、ロンドン・バージニア会社からハドソン川河口に入植する許可を与える土地特許を得た。次に、植民地建設がその宗教を広め利益にも繋がる手段と考えるピューリタン実業家の集団であるマーチャント・アドベンチャラーズを通じて、移民のための資金を集めた。アメリカに到着したときに、ピルグリムはその負債を支払うために働き始めた[7]

マーチャント・アドベンチャラーズからの資金を元に、ピルグリムは食料を購入し、2隻の船メイフラワー号スピードウェル号の運賃を支払った。1620年早々に出発するつもりだったが、航海計画の変更や資金面の問題を含め、マーチャント・アドベンチャラーズとの間に片付けなければならないことが出てきたために、数ヶ月遅れることになった。ピルグリムがオランダのデルフスハーフェン港からスピードウェル号で出発したのは1620年7月だった。[8]

メイフラワー号の航海[編集]

メイフラワー号スピードウェル号と落ち合うためにイングランドのサウサンプトンに寄港し、物資や他の乗船客を乗せた。サウサンプトンで一行に加わった乗船客の中には、一年の大半を隠れて過ごしていたウィリアム・ブリュースターを含む数人のピルグリムと、ピルグリムにとっては「異邦人」と見られる一群の者達がいた。この後者の集団の大半はマーチャント・アドベンチャラーズの募集に応じた者であり植民地の統治を行うと共に、植民地を立ち上げるための付加的な働き手という位置付けだった。異邦人の中には植民地の軍事的指導者となるマイルス・スタンディッシュ大西洋航海中の指揮者となるべくマーチャント・アドベンチャラーズに指名されていたクリストファー・マーチン、およびウィリアム・シェイクスピアの「テンペスト」のモデルにもなったと言われ、植民地経営に失敗した経験のあるステファン・ホプキンスがいた。[9]

ピルグリムの船出

メイフラワー号スピードウェル号のアメリカへの出発は更に遅れた。マーチャント・アドベンチャラーズとの考えの不一致でサウサンプトンでしばらく留まった。総人数120名の乗客は、メイフラワー号に90名、スピードウェル号に30名が分乗し、8月15日にやっと出航した。[10]いざ、サウサンプトンを出港したものの、スピードウェル号に重大な水漏れが発生し、即座にダートマスに帰港する必要が生じた。修理が完了しても、今度は追い風を得られずにさらに遅れた。2隻の船はランズ・エンド岬を過ぎて200マイルも行かないうちに、またスピードウェル号に水漏れが発生して、イングランドへ後戻りを余儀なくされた。今回はプリマス港だった。スピードウェル号は航海に耐えられないと判断され、移民を諦めた者もいたが、残りはメイフラワー号に乗り移り、既に積載量の多かった船がさらに混雑することになった。後に、スピードウェル号の船長が当てにならない大西洋を越える航海を避けるために意図的に罷業したのだという風評が広まった。[11]

メイフラワー号は102人の移民を乗せて、1620年9月6日にプリマスを出港した。僚船のスピードウェル号は無く、具体的にハドソン川河口に移住することを認める土地特許を持って新世界へ船出した。途中で強い西風に会いまたメキシコ湾流のせいもあって、航海は2ヶ月を要した。11月9日ケープコッドの海岸沖で陸地を発見した。メイフラワー号は指定されたハドソン川河口の場所に上陸するために南に向かおうとしたが、ケープコッドとナンタケット島の間の浅瀬、ポーラックリップ海域で障害が起こった。冬に向かおうとしている時期であり、食料も危険なまでに底を突いた状況だったので、乗船客は北へ戻り、当初の上陸計画を棄てることにした。[12]

白人の探検と入植[編集]

ジョン・スミス船長が1616年に作成した「ニューイングランドの記述」の表紙

ピルグリムはその地域で初めての人間ではなかった。その地域固有のインディアン以外にも、ヨーロッパ白人による1世紀近い探検、漁労および入植の歴史があった。ジョン・カボット1497年ニューファンドランド島を発見し、イギリスは北アメリカの東海岸に広大な領有権を主張することになった[13]。ニューイングランドの初期の地図の一つは、1540年頃、地図製作者ジャコモ・ガスタルディによるものだったが、ケープブレトン島をナラガンセット湾と見誤っていた。この誤りでニューイングランドの海岸の大半が消えていた[14]。ヨーロッパの漁師は16世紀から17世紀の大半をニューイングランド海岸沖で操業していた。

フランス人サミュエル・ド・シャンプラン1605年にこの地域を探検した。特にプリマス港を探索して「セントルイス港」と名付け、そこと周辺の土地の広範で詳細な地図を作成した。プリマスの町が間もなく造られることになるインディアンの集落、「パチュケット」が将来白人にとっては「楽しみな入植地」としてシャンプランの地図に載った。しかし、メイフラワー号が到着する15年前に、イギリス人漁師によってこの地域にもたらされた病気が、この地域のインディアンの90%を絶滅させていた。この病気は天然痘だと一般に考えられていたが[15]、最近の研究に拠るとあまり知られていないレプトスピラ症だった可能性があると結論付けられた [16]。ピルグリムが入植したことに対してインディアンからの抵抗がほとんど無かったことは、その植民地とイギリスによるアメリカ大陸の植民地化そのものを成功に導いた重要な要因になった可能性がある。

ポパム植民地、別名セントジョージ砦はプリマス会社(プリマス植民地と関係は無い)によって組織され1607年に開設されていた。現在のメイン州の海岸に造られたこの植民地は、内部の政治的な闘争や、病気と厳しい気候によって悩まされ続けていた。この植民地は1608年に放棄された[17]

ジェームズタウンで名を上げたジョン・スミス船長は、プリマス植民地近くを1614年に探検し、ニューイングランドという名前を付けたとされている。スミスはインディアンたちの言葉を聞き書きして、多くの地名を付けた。ピルグリムが最初に入植する場所は、スミスによって当初アッコマックと呼ばれた。イングランド王ジェームズ1世の息子、当時皇太子だったチャールズ1世と相談して、スミスはアッコマックをニュープリマスと変えた。1616年にスミスが出版した地図「ニューイングランドの記述」(A Description of New England)では「ニュープリマス」(New Plimouth、綴りが1文字異なる)と書かれている[18]

メイフラワー号の入植者が最初にケープコッドを探検したとき、白人が以前にそこで多くの時を過ごした証拠に出くわした。白人の砦の跡を発見し、墓を暴くと白人成人男性とインディアンの子供の遺骨があった。[19]

プロビンスタウンとプリマスへの上陸[編集]

メイフラワー号は、1620年11月11日プロビンスタウン港に碇を降ろした。ピルグリムはその地域に入植する特許を得ていなかったので、乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。そこには植民地を創設する法的な根拠が無いとこぼした。これに応えて、まだ海上にある船に留まっていた一団の移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約」(盟約書)を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、多くの移民の心配を解き放つ目的には役だった。[20]

メイフラワー誓約の署名

この一団は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、移民達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟とピルグリムが残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中でインディアンの墓を暴き、またインディアン・コーンの埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界でピルグリムの子として生まれた最初のイギリス人になった。シャロップは11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。将来の展望から考えて唯一評価できる結果は、インディアンの墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたコーンを見付けて持ち帰ったことだった。ケープコッドの3回目の探検は12月6日に出発した。このときに、現在のイースサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地のインディアンとちょっとした衝突があった。ピルグリムは適当な入植地の確保が難しかったことと、インディアンのコーンを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。[21]

移民達は12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所には駄目出しをした。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後にインディアンが最近放棄していたパチュケットという名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう一つの重要な理由は、以前のインディアンの村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足を踏み入れた場所だとされている。[22][23]

入植者達が入った地域は1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。

最初の冬[編集]

ピルグリムの上陸

12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20名の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製のプラットフォームが造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。[24]

新世界における最初の冬の間に、メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102名いた乗客のうち45名が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の一年間、すなわち1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、5月にももう一人死んだので、感謝祭を迎えられたのは4人に過ぎなかった。

1月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食料の荷卸しが始まった。2月半ば、土地のインディアンと数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。2月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。[25]ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた[26]

1621年3月16日、インディアンとの最初の公式な接触が起こった。現在のメイン州ペマクィドポイント出身のサモセットという名のインディアンが大胆に入植地の中に歩いて来て、「ようこそ、イギリス人」("Welcome, Englishmen!" )と叫んだ。サモセットはヨーロッパ人から奴隷にされてヨーロッパに送られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。インディアン集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。彼らはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトであると想い違いした。

マサソイト酋長はワンパノアグ族インディアンの一支族ポコナケット族の酋長だったが、白人は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見なした[27]。しかし、インディアンの酋長は合議制のなかの「調停者」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない[28]。しかし白人たちは「酋長」を「首長」と誤認してしまい、以後のインディアン部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。合議を経ていない白人の要求は当然インディアン社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。

白人たちはパチュケットの出身で、マサチューセッツ族名「ティスクァンタム」として知られるスクァントの存在も知った。スクァントはヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイトの部族員との会合を手配する約束をした。[29]

マサソイトとスクァントはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイトが初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにコーンの埋蔵品を盗んだことも知っていた。[30]スクァントは1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに連れ去られ、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として、続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間を過ごしてきていた。1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの案内人としてニューイングランドに戻ってきたが、マサソイトとその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてスクァントを取り戻した。[31][32]

サモセットは、3月22日にスクァントを含むマサソイトの代理人らと共にプリマスに戻ってきた。マサソイト自身もその後間もなく加わった。贈り物の交換後にマサソイトとカーバー知事は正式な和平条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイトはその同盟者がプリマスと平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた[33]

マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし上述したように、インディアンの酋長は「指導者」ではないので、部族員にこれに反発する者がいたとしても彼にこれを制限する権限は無い。

4月5日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した[34]。最初の冬で102人の乗客のうち、半数近くが死んでいた[35]。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2, 3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記した[36]コールズヒルの墓の幾つかが1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。[37]

最初の感謝祭[編集]

最初の感謝祭

1621年遅くの秋の祭りは、後に「最初の感謝祭」として知られるようになったが、ピルグリムにとっては知るよしもないものだった。ピルグリムは感謝祭として知られる祭りは認識していたが、それは信徒の幸運のために、神を崇め感謝する敬虔な儀式だった。ピルグリムが感謝祭と呼んだ最初のものは1623年に行われたものだった。この時、新たな移民と物資が到着するという知らせが届いたことに反応したものだった。この出来事は恐らく7月に起こり、まる一日の祈りと礼拝、およびささやかな祝宴が行われた。[38]

アメリカ合衆国ではこの出来事を記念して毎年11月末に、より適切な言葉「収穫祭」として祝われている。最初のお祭りは恐らく1621年10月早くに開催され、生き残ったピルグリム51名とマサソイトの一党90名と共に祝われた。この催しに関する3つの当時の資料が残っている。ウィリアム・ブラッドフォードによる「プリマス・プランテーションについて」(Of Plimoth Plantation)、エドワード・ウィンスローによる「モートの関係」(Mourt's Relation])、および植民地の書記官でブラッドフォードの甥だったナサニエル・モートンによる「ニューイングランドの記憶」(New England's Memorial)である。お祭りは3日間続き、入植者が購った多くの種類の水鳥、野生の七面鳥および魚と、インディアンが気前よく与えた5頭の鹿が饗宴に供された[39]

インディアンとの初期の関係[編集]

マサソイトとその一党が去ると、スクァントはプリマスに残って、ニューイングランドで生き残る方法をピルグリムに教えた。例えば死んだ魚を使って大地に肥料を与えることである。メイフラワー号が去って間もなく、カーバー知事が突然亡くなった。ウィリアム・ブラッドフォードがその後継者に選ばれ、植民地の成長期の多くの期間を引っ張っていくことになった。[40]

マサソイトが約束したように、多くのインディアンが1621年の中頃にプリマスを訪れ、和平を誓った。7月2日、ピルグリムの1隊がエドワード・ウィンスローの引率で、酋長との交渉を続けるために出発した。この中には通訳としてスクァントも含まれていた。数日間の移動後に、一行はマサソイトの本拠、ナラガンセット湾に近いソワムズ集落に着いた。食事と贈り物の交換後に、マサソイトはイギリス人と排他的交易盟約を結ぶことに同意し、この地域にしばしば現れて交易を行っていたフランス人を排除することになった。スクァントは一行を離れてその付近を歩き回り、幾つかの部族と交易関係を築いていた。[41]

7月遅く、ジョン・ビリングトンという名の少年が入植地の周りの森の中でしばらく行方不明になった。少年はノーセット族に発見されたと記録されている。ノーセット族はピルグリムが前年の最初の探検中にコーンの種を盗んだケープコッドのインディアンと同族だった。イギリス人はビリングトンをプリマスに戻して貰うために代表団を組織した。ピルグリムは少年を返還して貰う替わりに盗んだコーンをノーセット族に弁償することに同意した。この交渉はその地域のインディアンとの和平確保に発展した。[42]

ジョン・ビリングトンの解放についてノーセット族と交渉している間に、ピルグリムはマサソイトが経験しつつある問題を知った。マサソイト、スクァントおよび数人のワンパノアグ族がコービタント酋長らのいるナラガンセット族に捕まっていた。マイルス・スタンディッシュを指導者とする10名の部隊が組織され、コービタントを探して処刑するために出発した。

コービタントは酋長であって、指導者のような部族を「率いる」存在ではない。しかし白人はこれを理解できないから、彼を捉え処刑したがったのである。

コービタントを探している間に、スクァントが逃げ、マサソイトも部族に戻ったことが分かった。スタンディッシュの部隊によって、数人のインディアンが傷つき、プリマスで治療を受けた。スタンディッシュの部隊はコービタントを捕まえることには失敗したが、武力を示したことでインディアンからはピルグリムに対して一目置かれ、その結果、その地域で勢力を持つ部族のうち、9人の酋長が、この中にはマサソイトやコービタントも含まれていたが、ジェームズ国王に対する忠誠を誓う条約に9月に署名した。[43] インディアンは文字を持っていないから、「署名」というのは名前の代わりに「X印」を書き込むというものである。

1622年5月、スパロー号という船が、この地域で新しい入植地を探す目的でマーチャント・アドベンチャラーズに派遣された7人の男達を運んできた。その後2隻の船が続き、60名のすべて男の入植者を運んできた。彼らは7月と8月をプリマスで過ごした後、北へ向かって今日のウェイマスに入植しウェサガセットと名付けた。[44]ウェサガセットの入植地は短命に終わったが、土地のインディアンとイギリス人との間の政治的な関係を劇的に変えるような出来事を起こすことになった。ウェサガセットに対するインディアンの武力による反発があるという報告を受けて、マイルス・スタンディッシュはウェサガセットを守るための民兵隊を組織した。

しかし、スタンディッシュは何の攻撃も無かったことが分かったので、先制攻撃を掛けることにした。インディアンから攻撃が無かったのに、白人は進んで攻撃を仕掛けたのである。歴史家のナサニエル・フィルブリックによって「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれているこの事件で、スタンディッシュはマサチューセッツ族の「傑出した2人の軍事指導者」と思い込んでいるインディアン二人を、食事を共にし交渉を行うという名目でウェサガセットの宿舎におびき出した。

インディアンの社会は合議制であり、「軍事指導者」などというものは存在しない。スタンディッシュは指導者と想定される者の殺害を企んで、これを実行したのである。スタンディッシュの部隊は何の疑いも抱いていなかった2人のインディアンを刺し殺した。オブタキーストという土地の酋長がスタンディッシュの部隊に追跡されたが、ウェサガセットで捕まえた3人のイギリス人捕虜と共に逃げてしまい、捕虜は後に処刑された。[45]ウェサガセットは短期間で放棄され、残った者はプリマスの町に合流した。[44]

スタンディッシュの騙し討ちによるインディアン虐殺の話は、インディアンの間に直ぐに広まった。多くのインディアンは、さらなる虐殺を恐れて、集落を捨てて逃げ出した。フィルブリックは次の様に記している「スタンディッシュの襲撃は取り返しがつかないほどにその地域の人間関係を傷つけた...それは新たな平衡状態が生まれる前のことだった。」[46]エドワード・ウィンスローはその1624年の回顧録「ニューイングランドからの良い知らせ」(Good News from New England)の中で次の様に記している「彼ら(インディアン)はその家を諦め、取り乱した人のようにあちこち走り回り、沼地や荒れ地に住んで、種々の病気を流行らせ、そして多くが死んだ」[47]。 土地の部族から供給される毛皮という交易手段を失い、ピルグリムはマーチャント・アドベンチャラーズに対する負債を払うための収入源を失った。「スタンディッシュの虐殺」は、地元の縄張りを強化するというよりもむしろ、植民地に悲惨な結果をもたらした。ウィリアム・ブラッドフォードはマーチャント・アドベンチャラーズに送った手紙に次の様に記している「我々は交易に大きなダメージを受けた。我々が毛皮を得ていたインディアンがその住まいから逃げ出したからだ。」[46]スタンディッシュの攻撃による唯一のプラス側の効果といえば、ピルグリムが密接に同盟を結んでいる、マサソイトらワンパノアグ族の力を増大させたことだった。[46]

プリマスの成長[編集]

人口の推移[44]
年月 人口
1620年12月 99人
1621年4月 50人
1621年11月 85人
1623年7月 180人
1627年5月 156人
1630年1月 約300人
1643年 約2000人
1691年 約7000人

1621年11月、ピルグリムがニューイングランドに最初の一歩を記してからほぼ一年後に、マーチャント・アドベンチャラーズによって送られた2番目の船が到着した。フォーチュン号には37名の新しい入植者が乗っていた。しかし、船の到着が予想されたものではなく、多くの補給物資も無かったので、入植者が増えたことは植民地の資源に歪みをもたらすことになった。フォーチュン号の乗客の中には、元ライデンの信徒が数人混じっていた。ウィリアム・ブリュースターの息子のジョナサン、エドワード・ウィンスローの兄弟のジョン、およびフィリップ・ド・ラ・ノイエだった。ノイエは後に姓をデラノに変えたが、その子孫が後のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトである。フォーチュン号はまた、マーチャント・アドベンチャラーズからの手紙も運んできた。それは彼らの支援に対して約束していたメイフラワー号に載せて返すはずの商品が無かったことで植民地を非難するものだった。フォーチュン号は500ポンドの価値のある商品を載せてイギリスへの帰途に就いた。それは負債の返済スケジュールを守る以上のものだった。しかし、フォーチュン号はイギリスに船荷を届ける前にフランスに捕獲されてしまい、植民地にとってさらに大きな負債を作ってしまった。[48]

1623年7月、また2隻の船が到着し、新たに96名の入植者を運んできた。アンソニー・ダイク船長のアン号とその10日後に着いたリトルジェイムズ号だった。ライデンから来た人々の中にはウィリアム・ブラッドフォードの未来の妻、アリスが含まれていた。アン号で来た入植者の中には辺境での生活に適合できず、あるいは植民地にとって望ましくない者も居り、翌年イングランドに戻った者もいた。グリーソン・アーチャーに拠れば、「残った者達はマーチャント・アドベンチャラーズとの協定下に植民地に加わろうとはしていなかった。彼等は自分達の社会に入植する、あるいは少なくともプリマスの入植者が規制されている制約を受けないという、マーチャント・アドベンチャラーズとの合意の上でアメリカに渡ってきていた。入植者に宛てられ、商人13人の署名がある手紙には、これらの事実が挙げられ、新参の者は特有の条件で受容されることを促していた。」新しく到着した者達には、プリマス・ロックの1マイル (1.6 km) 南、ホブス・ホールと呼ばれるイール川沿いの土地が当てられ、後にウェリングスリーとなった。 1623年9月、別の船で失敗したウェイマスの植民地を再度建設する入植者が到着し、一時的にプリマスに滞在した。1624年3月には、更に何人かの入植者と初めての牛が到着した。1627年の牛を分割するリストでは、156名の植民者が13の植民地のそれぞれ12の区画に分かれていたとある。[49]もう1隻、これもメイフラワー号と名付けられた船がライデンの信徒35名を1629年8月に運んできた。1629年から1630年に着いた船は多くの乗客を運んできた。正確な数字は分からないが、当時の文書では1630年1月までに植民地にはおよそ300名が居た。1643年、軍隊に従軍できる男性が600名いたことは、全人口は2,000名くらいになっていたことを示している。植民地を解散することになる前年の1690年、最も人口の多いプリマス郡の総推計人口は3,055名だった。[44]この時の植民地全体の白人人口はおよそ7,000名だったと推定できる。[50]比較のために1630年から1640年の間、つまりピューリタンの大移住の時代にマサチューセッツ湾植民地だけで2万人以上の白人入植者が到着したと推定されている。また、1678年のニューイングランド全体のイギリス人人口は6万人台だったといわれる。プリマスが最初の植民地であるという事実にも拘わらず、マサチューセッツ湾植民地に吸収されるとき、プリマス植民地は比較的小さかったことになる。[51]

軍事的な歴史[編集]

マイルス・スタンディッシュ[編集]

当初からマイルス・スタンディッシュがプリマス植民地の軍事的指導者だった。スタンディッシュは最初の部隊を組織してニューイングランドに足を踏み入れ、プロビンスタウン港に着いたときはケープコッドの探検隊を率いた。3回目の探検隊の時もスタンディッシュが率いていたが、最初の遭遇と呼ばれる出来事で、スタンディッシュがピルグリム入植者としてインディアンへの最初の発砲を行ったという記録がある。最終的にプリマスに着いた時、入植地の防御配置を決めたのは、ライデン大学で軍事工学に関する訓練を積んできたスタンディッシュだった。スタンディッシュは最初の冬の2月に動ける男を軍隊組織に繰り入れた。2度目の冬には、入植地を囲む大きな防柵を設計し建設の手配をすることに関わった。スタンディッシュは初期に2回インディアン集落に対する襲撃を率いた。一つは白人にとって「反逆者」であるコービタントを見付けて罰するためのもので、これは不成功に終わった。もう一つは、「スタンディッシュの襲撃」と呼ばれるウェサガセットでの残酷な虐殺だった。最初の頃は土地のインディアンの尊敬を集める効果があったが、2回目の時は、インディアンを怯えさせ逃散させるだけで交易の収入の道を閉ざされた。[52]

ピクォート戦争[編集]

ニューイングランドで最初の全面戦争は1637年ピクォート戦争だった。戦争の原因は1632年に遡る。現在のコネチカット州ハートフォード近くのコネチカット川渓谷の支配権を巡ってオランダ人毛皮交易者とプリマスの役人との間に紛争が起こった。

オランダ東インド会社とプリマス植民地双方の代表は、ピクォート族から土地を公正に購入したと主張した。しかしインディアンに「土地を売買する」という文化は無く、彼らはこれを理解していない。また酋長は全権委任された代表でも部族長でもないので、書類に酋長が「X印」を書いたからこの土地から出て行け、と白人に言われても、インディアンは納得するはずがなかった。インディアンの土地で、インディアン、イギリス人、オランダ人の代理戦争が始まった。

マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の入植者がその地域に入ろうとするオランダ人を追い出そうとしていたので、土地の奪い合いが起こっていた。イギリス人入植者の流入はピクォート族にとっても脅威だった。この地域のもう一つの同盟部族であるナラガンセット族とモヒガン族は元からピクォート族の敵であり、イギリス人の側に付いた。表だった敵意を開始させた出来事は、1636年のジョン・オールダム船長の船の捕獲と殺人だった。この出来事はピクォート族の同盟者に非難が向けられた。1637年4月、ジョン・エンディコットによるピクォート族集落の襲撃がピクォート族戦士によるウェザーズフィールドへの報復攻撃を生み、30名ほどのイギリス人入植者が殺された。これがさらに報復を呼び、ジョン・アンダーヒル船長とジョン・メイソン船長に率いられた襲撃で、現在のミスティック近くにあったピクォート族の集落は灰燼に帰し、300名のピクォート族が殺された。プリマス植民地は実際の戦闘にほとんど関わらなかった。[53]

ピクォート戦争に続いて、ニューイングランドの4つの植民地、マサチューセッツ湾植民地、コネチカット植民地ニューヘイブン植民地およびプリマス植民地が、ニューイングランド植民地連合と呼ばれる防衛盟約を結成した。エドワード・ウィンスローは、その外交力で知られていたが、植民地連合の主唱者となった。ウィンスローがライデンに居たときのネーデルラント連邦共和国で積んだ経験が同盟を作るために使われた。ジョン・アダムズは後の時代に植民地連合を連合規約の前身と考えていた。連合規約は合衆国全体を統括する政府の最初の試みだった。[54]

フィリップ王戦争[編集]

メタコメット(フィリップ王)。ポール・リビアの木版画

メタコメット酋長は、「フィリップ王」の名でも知られており、マサソイトの下の息子でワンパノアグ族の酋長の座を承継し、一族の優れた調停者だった。メタコメットは、兄のワムスッタ、別名アレクサンダーの1662年の突然死によって酋長(世話役)を継ぐことになった。[55]

戦争の原因はイギリス人入植者が増え続け、土地の要求も増えていったことだった。インディアンからの「土地購入」が増えるにつれて、インディアンは狭い領土内に制限されることになった。メタコメットの様なインディアンの調停者達は、土地が失われていくことに不満を抱き、それを遅らせるかあるいは取り戻すかする方法を探していた。[56]特に関心が向けられたのは、スワンシーの町の建設であり、そこはワンパノアグ族の大集落マウントホープから数マイルしか離れていなかった。プリマスの議会が軍事力を使ってワンパノアグ族の土地を町の入植者に売却するよう強制し始めた[57]

紛争の引き金になったのは、1675年のジョン・ササモンという「祈るインディアン」の死だった。ササモンはメタコメットの助言者であり友人でもあったが、ササモンがキリスト教に改宗したことで、二人は決別していた[57]。ササモンの殺人で告発されたのは、メタコメットの最も上位の副官の何人かだった。

インディアンの酋長に階級は無く、「上位」も「下位」もない。酋長は同じ立場であって「副官」など存在しない。すべては白人の思い込みで、酋長が「告発」されたのである。

12名のイギリス人と6名の祈るインディアンの陪審員は殺人罪のインディアン被告を有罪とし死刑を宣告した[58]。今日、メタコメットの部下が実際に殺人を犯したのかそうではないのかという議論が持ち上がっている[57]。そもそも酋長(世話役)であるメタコメットに、「部下」など存在しない。インディアン社会に「上司」や「部下」など命令系統は存在しない。

ワンパノアグ族はマウントホープに近いその本拠で戦いの準備を始めており、イギリス人農園を襲ってその資産の略奪を始めた。これに反応してジョサイア・ウィンスロー知事は民兵隊を招集し、ワンパノアグ族の本拠に向けて進軍を始めた。戦争が始まった。[59]

ワンパノアグ族は、身代金を取るために武装していない女性や子供を攻撃した。そのような攻撃の一つで、メアリー・ローランドソンを捕まえ、その小さな子供達を殺した。捕虜になったローランドソンの備忘録が当時のインディアンの文化について多くの情報を歴史家に与えることになった[60]

戦争は1675年の残りと翌年まで続いた。イギリス人はインディアンを会戦に持ち込もうとしたが、インディアンがこれを避けてゲリラ戦の形態を採ったので、イギリス人は常に面食らうばかりだった。ベンジャミン・チャーチ大尉は友好的なインディアンの協力を求める動きを続けており、メタコメット達のやり方であるとしてもインディアンとの戦い方を学ぼうとしていたが、どのインディアンも潜在的な敵と考え信用しないプリマスの指導者達にそのやり方を拒絶されていた。最終的に、ウィンスロー知事とプリマスの軍事指導者ウィリアム・ブラッドフォード少佐(故人となったウィリアム・ブラッドフォード知事の息子)が折れて、チャーチにイギリス人とインディアンの連合軍を作る許可を与えた。チャーチはサコネットとの同盟を結び、共同軍で大きな戦いを避けまくっていたメタコメットの追跡を始めた。1676年の7月中、チャーチの部隊は何百ものインディアンを、大きな戦闘もなく捕まえたが、メタコメットは逃れ続けた。チャーチはイギリス側に付くことに同意したインディアン捕虜に恩赦を与える許可を得たので、その部隊は大きく脹れ上がった。[61]メタコメットはポカセットのインディアンに殺された。戦争は間もなく圧倒的なイギリス側の勝利で終わった。[62]

この戦争でイギリス人成人男性人口の8%が死んだと見積もられているが、どこから見ても大きな数字である。しかしインディアンに与えた影響はもっと大きかった。多くの者が殺され、逃亡し、奴隷として他所に売られたので、ニューイングランドのインディアン人口は60ないし80%は減ってしまった。[63]

プリマスの終焉[編集]

1686年、この地域全体がニューイングランド自治領と呼ばれる一つの政府の元に組織化された。自治領にはプリマス植民地の他に、ロードアイランド、マサチューセッツ湾、コネチカットおよびニューハンプシャーの各植民地が含まれていた。1688年には、ニューヨーク、ウエスト・ジャージー、およびイースト・ジャージーが追加された。自治領の総督はエドマンド・アンドロスが指名されたが、全く人気が無く、自治領は長く続かなかった。プリマス植民地は反発し1688年4月に自治領から脱退した。自治領全体は1688年の名誉革命の報せが届いた時に崩壊した[64][65]

しかし、プリマス植民地の自治権回復も長くは続かなかった。インクリーズ・マザーに率いられたニューイングランドの代表団が、自治領時代に無効化された植民地特許を返して貰うためにイギリス本国へ交渉に行った。プリマス植民地にとって特に事態を悪くしたのは、元々設立の時から正式な特許を得ていなかったことだった。プリマスは正式の特許を得たいという願いが叶えられず、プリマス植民地をマサチューセッツ湾植民地に付属させるという新しい勅許が下った。プリマス植民地を終わらせる公式の宣言日は1691年10月17日であり、新しい総督ウィリアム・フィップスがマサチューセッツ湾植民地勅許を持って来た1692年5月14日に有効なものとなった。プリマス議会の最後の公式招集日は1692年6月8日だった。[64][66][67]

社会生活[編集]

宗教[編集]

植民地での宗教に最も重要な人物はジョン・ロビンソンであり、元々スクルービーでの牧師で、ライデン時代の分離派指導者だった。ロビンソンはニューイングランドの地を踏むことはなかったが、彼の神学的声明の多くがプリマスの教会でその本質と性格を形作った[68]。例えば、ロビンソンは、女性と男性は自然法に従って異なる社会的役割があり、どちらも神の前では劣るものではないと述べた。女性と男性は違いがあるが、教会、家庭、および社会では全体として補完的な役割があると教えた。しかし、ロビンソンはしばしば女性の役割に劣った性格を割り当てた。女性達のことを「弱い容れ物」(weaker vessel)と呼んだ[69]。宗教的な理解に関しては、女性を教育し「導きその前に立つ」のが男の役割であると宣言した[69]。また女性はその夫に「従う」べきものとした[69]。ロビンソンはまた、子供を育てる適当な方法について、体罰を強く強調して厳格に育てることを説いた。子供の自立に向けた自然の傾向は原罪の顕現であり、抑えられるべきものと信じた[70]

ピルグリム自身は、イギリス国教会の世俗的な拘束を取り去ることを求めたピューリタンと呼ばれるイギリスの宗教運動の一部だった。この運動は教会をより原始の状態に戻して、初期の教父によってなされたようなキリスト教信仰を実行することを求めた。ピューリタンは、聖書が信仰的教えの唯一の根拠であり、キリスト教に付け加えられた物、特に教会の伝統に関して付け加えられた物は、キリスト教の信仰には無いものと信じた。ピルグリムはイギリス国教会の中で改革を目論むピューリタンとは異なり、イギリス国教会から「分離」することを求めることで、ピューリタンとは一線を画していた。ピルグリムをネーデルラントに、さらにニューイングランドに誘ったのは、イギリス国教会の外から信仰に携わりたいという願いそのものだった[71]

プリマス植民地の各町は一つの教会の教区と考えられた。後年幾つかの大きな町は2ないし3個の教区に分けられた。教会の礼拝に出席することは植民地の全ての住人に義務付けられ、教会員であることは個人的な改宗を通じて神の恩寵を受けた者に限られた。プリマス植民地では、単なる信仰の告白が受け入れられる者に要求される全てだったと推測される。これは他のピューリタン教区よりも自由な原則だった。例えば、マサチューセッツ湾植民地では、正式な教会員になろうという者には厳密で詳細な尋問が課されるのが普通だった。教会には中央組織が無かった。個別の教区ではそれぞれの教会員の標準を決め、独自の牧師を雇い、それぞれの務めを果たした[72]

教会は疑いもなく植民地の最も重要な社会的施設だった。聖書は社会の第一の宗教的書物であるだけでなく、主要な法律書でもあった。[73]教会に行くことだけで絶対ではなく、教会員であることが社会的に必要だった。教育は純粋に宗教目的のために行われた。植民地の法律は、「少なくとも聖書が十分に読めるようになり」、「キリスト教の主要な原理原則」を理解できるように、親が子供に教育を受けさせることを特に求めた。[74]一家の男性の長者は、家族、子供、および従僕まで全員の宗教的幸福に責任あることが期待された[74]

ほとんどの教会はその教会員に対して2つの制裁、すなわち酷評と破門を使った。酷評は、宗教的および社会の規範に従わなかった行いを正式に叱責することであり、破門は、教会員の身分を完全に取り上げることだった。密通から公的な場での泥酔まで社会的悪と認識されたものの多くは、公共の罰を通してよりも教会の懲罰を通して取り扱われた。教会の制裁は教会員の外では公式の認識を得なかったので、民事や刑事の告訴という結果にはならなかった。それにも拘わらず、このような制裁は社会を制御する強力な道具だった[75]

ピルグリムは幼児の洗礼を行った。公的な洗礼儀式は通常生まれてから6ヶ月以内に執り行われた。[76]

結婚は宗教儀礼と言うよりも公共的なことと考えられた。そのような手配はライデン時代に広まった習慣であり、ネーデルラントでは普通のことだった。しかし、ピルグリムはこの手配を聖書に適うものと考えた。聖書には牧師が結婚式を差配するとは書いてないとしてもである[77]

宗教的な指導者によって取り入れられたピューリタンの神学以外に、プリマス植民地の人々は超自然に対して強い信仰があった。プリマスの住人にその作品が良く知られたピューリタンの神学者、リチャード・グリーナムは問題を解決するために魔法に頼ることに対し激しく批判した。ピルグリムは自分達に降りかかるほぼ全ての厄災に悪魔の仕事を見ていた。黒魔術は現実的で顕在するものだった。人々に不幸をもたらす邪悪な魂の存在を信じた。例えば、1660年、ジェレミア・バローズの溺死についての審問は、所有していたカヌーに責があるという結論を出した。[78] 17世紀のマサチューセッツ湾植民地で魔女裁判が起こったが、プリマスで同様なことが起こったという証拠は無い。魔法は1636年のプリマス裁判所による法典には重大な犯罪とされているが、プリマス植民地で魔法使いとして実際に判決が下った例は無かった。法廷記録には魔法使いの正式な告訴が2件あったことを示している。最初は1661年のグッドワイフ・ホームズで審問にもならなかった。2番目は1677年のメアリー・イングラムで、審問に付され無罪放免となった[79]

結婚と家庭生活[編集]

エドワード・ウィンスローとスザンナ・ホワイトは、1620年から1621年の厳しい冬の間にお互いの伴侶を亡くしており、プリマスで初めて結婚するカップルとなった。ブラッドフォード知事が結婚式を執り行った[77]

結婚は植民地の成人住民にとって正常な状態と考えられた。多くの男は20代半ばに、女は20歳頃に最初の結婚を行った[80]。再婚は特別なことでは無く、寡婦および男やもめは再婚するように社会的また経済的圧力を受けた。平均して、寡婦および男やもめは半年から1年以内に再婚した。結婚適齢期に到達した成人の多くが60代まで生きたので、人生の3分の2は結婚した状態で過ごした。[81]

結婚という制約の中で、女と男は法的にも社会的立場からも平等とは考えられなかった。しかし、17世紀ヨーロッパの標準と比較すると、プリマス植民地の女性はより広い法的、社会的権利を持っていたことは注目すべきである。教会の考え方から、女は神の前では男と対等だった。家族全体でともに礼拝を行い、神の恩寵は全ての信仰告白したキリスト教徒に平等に与えられるものだった。しかし、ピューリタンの家庭での女性は子供を育てたり家事を取り仕切る伝統的な女性の役割を期待された。[82]

女性に権利がほとんど無かったヨーロッパとは異なり、プリマスの女性は広い財産と法的な権利を享受できた。プリマスの寡婦はその夫の遺言から法的に排除されるのではなく、遺産の3分の1の相続は保証された。プリマスの女性は契約の相手とされ、その顕著な例が婚前契約書だった。嫁となる者は(その父親ではないところに注意)、結婚によって資産の結合に関する契約に入ることが普通だった。幾つかの場合、特に再婚の場合、女性は夫とは別に資産を管理できる排他的な権利を与えられた。[83][82]女性は偶にプリマスの陪審員になることでも知られた。17世紀の法習慣では注目すべきことである。歴史家のジェイムズ・スコットとパトリシア・スコットは、アン・バットソンの子供の死に関する1678年の審問で、陪審員は5名の女性と7名の男性だったことを例に挙げている[84]

植民地の一家族当たり人数は今日のアメリカの標準から考えると多い[85]。出産は間を空けたので子供の年は平均的に2歳離れていた。ほとんどの家庭は同じ屋根の下に5, 6人の子供がいたので、母親が出産を終えてしまう前に成長した子供を外に出すことも希なことではなかった。出産で死ぬ母親や子供の死亡率も高かった。出産30回に1人の母親が死に、平均して5人に1人の母親が出産の時に死んだ[86]。新生児の死亡率も高く、1歳未満で死ぬ確率は12%だった。1995年の新生児死亡率が0.76%であることと比較すれば、その高さが分かる[87]

植民地の家族構成は「核家族」が普通であり、近い親戚は近くに住んだ。成人になった者は家を出て自身の世帯を造ることが期待された。両親と生まれた子供が同じ家に住むことに加えて、多くの家庭は他の家庭から子供を預かることもあり、また年季奉公の従僕を抱える家庭もあった。より裕福な家庭は奴隷を所有した[88]

幼年時代、思春期、および教育[編集]

子供達はだいたい8歳くらいまで、母親の直接庇護のもとに置かれ、その後に他の家族の里子に出されることが希ではなかった[89]。このようなやり方で子供を外に出すことには多くの理由があった。里子に出されてから商売のやり方を学んだり、読み書きを教えられる子供がいた。植民地で決定されるほとんどすべての事項と同様に、子供を里子に出すことには宗教的な理由があったと思われる。子供の実の親は子供に対する愛情が深く、適度に鍛えることが出来ないと考えられた節がある。他の家庭環境に子供を置くことで、子供が甘やかされてダメにされる危険性が減った[90]

思春期はプリマス植民地で認識される人生の一段階ではなかった。また青年から成人になったことを祝う習慣も無かった。重要な転換期は様々な年齢で起こったが、どれも「成年に達すること」としての行事は無かった。子供達は8歳になると、家業の手伝いをしたり、あるいは里親の元で仕事の仕方を学んで、大人達の人生の役割を学び始めることが期待された[89]。ほとんどの子供達は8歳頃に宗教的目覚めを経験し、教会員となった[91]

孤児となった子供達は14歳でその保護者を選ぶ権利があった。16歳で男は軍隊に入る適格者となり、犯罪に対する裁判のような法的に責任有る大人とも考えられた。21歳という年齢は男が独り立ちする最低線とされたが、実際には20代半ばになることが多かった。21歳は相続を開始できる年齢とも見なされたが、法律では故人の権利を尊重しその遺志でもっと早い年齢でも可能にしていた[92]

プリマス植民地では実際の学校は希だった。最初の実際の学校が作られたのは植民地設立後40年が経っていた。植民地議会が正式の公的学校を作ることを承認したのは1673年であり、当時の予算で作られたのはプリマスの町だけだった。1683年までに他に5つの町でこの予算が付いた[93]

若者の教育は、学校が通常のことになった後でさえも、学校の主要な領分と考えられることは無かった。教育の大半は両親と里親の役割だった。プリマスでは年季奉公が通常のことではなかったが、里親が自分達のやっていることを全て子供達に教えることが期待された。教会も子供の教育で中心的な役割を果たした[94]。子供達に文字を教える主要な目的は聖書を自分で読めるようにすることだった[95]

政府と法律[編集]

組織[編集]

プリマス植民地はイギリス政府から独自の政府を作ることを認める勅許を得ていなかった。しかし、統治の手段が必要だった。1620年11月21日にプロビデンス港に到着したメイフラワー号に乗っていた41名の働ける男達によって署名されたメイフラワー盟約書は、植民地で最初の統治法を決める文書だった。正式の法律は1636年に法典化された。植民地の法律はイギリスの慣習法と聖書の中に書かれている宗教的な定めとの融合だった[73]

この植民地ではほとんど全ての成人男性に市民権を与えた。"Full citizens"とか"freemen"(自由人)という言葉は、選挙権や被選挙権のような地域における全ての権利と特権を持つことを意味した。 自由人になるためには、既に自由人であるものの後援を取り、議会に認められる必要があった。後に自由人を申請し認められるまでには1年間待つという規定ができ、また特にクエーカー教徒が自由人になることを防ぐために宗教的な制約も設けられた[73]。自由人であることは年齢的な制限もあった。公式な最低年齢は21歳だったが、実際には25歳から40歳の間に引き上げられ、平均的には30代の前半だった[96]

プリマス植民地知事[97]
知事
1620 ジョン・カーバー
1621-1632 ウィリアム・ブラッドフォード
1633 エドワード・ウィンスロー
1634 トマス・プレンス
1635 ウィリアム・ブラッドフォード
1636 エドワード・ウィンスロー
1637 ウィリアム・ブラッドフォード
1638 トマス・プレンス
1639-1643 ウィリアム・ブラッドフォード
1644 エドワード・ウィンスロー
1645-1656 ウィリアム・ブラッドフォード
1657-1672 トマス・プレンス
1673-1679 ジョサイア・ウィンスロー
1680-1692 トマス・ヒンクリー

植民地で最も権威有る者は知事であり、当初は自由人による選挙で選ばれたが、後に議会の毎年の選挙で指名されるようになった。議会は知事を補佐するための内閣を構成する「助手」を7人選出した。知事と助手は、町の主要な管理者となる「警察署長」と、植民地の主要な公僕である「メッセンジャー」を指名した。これらの者は布告を出版し、土地の測量を行い、刑を執行し、その他の責務を果たす責任があった[73]

議会は植民地の立法府であり司法府でもあった。自由人の数に応じて選出され、通常は植民地の首都であるプリマスで開催された。司法については定期的に「グランド・エンクエスト」が開催された。これは大陪審のようなものであり、自由人の中から選出された者が信頼できる告発に対して苦情を聞き宣誓して告訴を行った。議会と、後には町や郡の裁判所が刑事や民事の裁判を取り仕切ったが、最終宣告は自由人の陪審員団によってなされた[73]

法律[編集]

議会は立法府として必要とされる法律の布告を行うことができた。植民地の初期は、これらの法律が正式には何処にも蓄積されなかった。1636年、これらの法律が初めて体系化され「1636年法律書」として出版された。この法律書は1658年、1672年および1685年にも出版された[73]。これらの法律の中には、税金の取り立てや土地の分配に関するものが含まれていた[98]。議会は入植地による地方政府を作る手段として郡区を設立したが、それらの町の中での土地分配を具体的に支配する権利を持っていた。新しい土地が自由人に認められた場合、その認められた個人のみが入植を認められるものとされた[99]。議会の許可無しに個々の入植者がインディアンから土地を購入することは禁じられた[100]。政府はワンパノアグ族との間の壊れやすい平和を認識しており、インディアンの土地を全て買い占めて彼らを悩ませるようなことは避けようとした[101]

法律は犯罪とそれに対する刑罰も定めた。死刑に相当する幾つかの犯罪があった。裏切り、殺人、魔術の行使、放火、同性愛、強姦、獣姦、姦通ならびに実の親を冒涜したり殴ったりすることだった[102]。実際に死刑を執行することは極めて希だった。唯一、性に関連する1642年のトマス・グランジャーによる獣姦事件は死刑が執行された[103]。1679年にエドワード・バンパスという男が「両親を殴り虐待した」廉で死刑を宣告されたが、精神異常という理由で重い鞭打ち刑に変えられた。[104]おそらく最も知られた死刑の適用はジョン・ササモン殺人の廉で告訴されたインディアンの例であろう。このことが「フィリップ王戦争」の原因となった[105]。名目上死刑に値する犯罪でも、姦通は通常公的に辱められることで扱われた。姦通を犯した者は、ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」の中のヘスター・プリンのやり方で、衣類に"A.D."の文字を縫い込んだものを着ることを強制された。[106][107][108]

年季奉公について規定した法律もあった。これはある人が報酬無しである期間働くことで負債を支払ったり、訓練を積んで貰うことを規定する法律だった。法律によれば、年季奉公を行う者は知事または助手による登録を必要とし、奉公期間は6ヶ月以上とされた。さらに法律は、雇い主が奉公する者に必要とされる期間を短縮してはならないこと、イギリスで奉公期間が始まった者はプリマスでその期間を満了させなければならないと規定していた[109]

公的な標章[編集]

現在プリマスの市章として使われているものは、1629年にプリマス植民地の標章としてデザインされたものである。これはセントジョージの十字架を付けた楯の中に4人の姿を表したものであり、明らかにインディアンの服装で、ジャン・カルヴァンの燃える心臓を捧げている。この標章は1931年までプリマス郡でも使われた[110]

地理[編集]

境界[編集]

この地域には明快な土地特許が無かったので、入植者達は政府を作る勅許無しで定着し、その結果、何処までが植民地の統治が及ぶものか特に初期ははっきりしなかった。1644年、「古植民地線」が、1639年の測量に基づいて、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の間の境界として公式に認められた[111]

1677年のニューイングランド地図。西が上になっている。

ロードアイランド植民地との境界は事情がもっと複雑だった。1636年ロジャー・ウィリアムズが現在のポータケットの近く、レホボース地域に入植した。ウィリアムズはプリマスがその地域の領有主張を維持しているために強制退去させられた。そこでポータケット川の西岸に移動してロードアイランド植民地の核となるプロビデンスの入植地を創った。ここは1644年に正式に「プロビデンス・プランテーション特許」を得て成立した。ロードアイランドとプリマスの双方から様々な入植者がこの地域に入植を始め、プリマス植民地の西の境界はさらに不明瞭なものになった。この問題がすべて解決したのは1740年代のことであり、プリマス植民地は既になくなっていた。ロードアイランドはマサチューセッツ湾植民地との間に論争があった地域について1693年に特許を得ていた。1746年、王室の布告でナラガンセット湾の東側の海岸をロードアイランド植民地に付属するものとし、ニューポート郡の本土側の部分と現在のブリストル郡の全部を含めた[112][113]。その境界はその後も論争を続け、マサチューセッツ湾植民地がマサチューセッツ州となって遙か後の1898年になってやっとロードアイランド州との決着がつき、批准された。

郡と町[編集]

バーンスタブル郡の地図、1890年

プリマス植民地の歴史の大半を通じて、「町」が一つの主要な管理単位であり、植民地を政治的に区分するものだった。プリマス植民地が初めて正式に郡に分かれたのはニューイングランドの自治領形成に動いていた時期の1685年6月2日だった。この時、3つの郡が創設され次のような町で構成された。[114]

ケープコッドのバーンスタブル郡[115]
  • バーンスタブル、郡庁所在地、1639年設立、1650年町制施行。[116]
  • イーサム、「最初の遭遇」の場所、1644年設立、1646年ノーセット町制施行、1651年改称。[117]
  • ファルマス、1616年設立、1686年サクーンセット町制施行。[118]
  • サンドイッチ、1637年設立、1639年町制施行。[119]
  • ヤーマス、1639年町制施行。[120]
ブリストル郡バザーズ湾およびナラガンセット湾の海岸沿い。一部は後にロードアイランドに割譲された。[121]
  • トーントン、郡庁所在地、1639年町制施行。[122]
  • ブリストル、1680年町制施行。マサソイトとメタコメットのそれぞれ首都だったソワムとモンタープ(マウントホープ)を含む。1746年にロードアイランドに割譲。[113]
  • ダートマス、1664年町制施行。「フィリップ王戦争」の時にインディアンとの重大な殺し合いがあった。またメタコメットたち160名が降伏した場所でもあり、降伏者は後に奴隷に売られた。[123]
  • フリータウン、1683年町制施行。最初の入植者によって「自由人の土地」と呼ばれた。この「自由人」とはイギリス白人に限定したものである[124]
  • リトルコンプトン、サコネットとして1682年町制施行。1746年にロードアイランドに割譲。現在はニューポート郡。[125]
  • レホボース、1644年設立、1645年町制施行。ロジャー・ウィリアムスが入植した現在のロードアイランド州ポータケットの近くだが、最初のレホボースとは別の地。[[126]
  • ロチェスター、1638年設立、1686年町制施行。[127]
  • スワンシー、1687年ワンナモイセットの町として設立、1668年スワンシーとして町制施行。フィリップ王戦争の最初の被害者が出た。[128]
プリマス郡、ケープコッド湾の西部海岸に位置する。[129]
  • プリマス、郡庁所在地、および植民地首都、1620年設立、1691年の植民地終息まで最大かつ重要な入植地だった。[130]
  • ブリッジウォーター、マイルス・スタンディッシュがマサソイトより購入、最初の名前はダックスベリー・ニュー・プランテーション、1656年ブリッジウォーターとして町制施行。[131]
  • ダックスベリー、マイルス・スタンディッシュが設立、1637年町制施行。著名な住人として、ジョン・アルデン、ウィリアム・ブリュースターおよびトマス・プレンス知事がいた。[132]
  • マーシュフィールド、1640年町制施行。フィリップ王戦争の時の植民地知事ジョサイア・ウィンスローの故郷。[[133]
  • ミドルバラ、1669年ミドルベリーとして町制施行。ワンパノアグ族の首都マウントホープとプリマスとの中間点に位置することから名前が付いた。[134]
  • シチュエート、1628年設立、1636年町制施行。1676年メタコメットの軍勢に攻撃された主要地点。[135]

人口動態[編集]

イギリス人[編集]

プリマス植民地のイギリス人は大まかに3つの範疇に分けられる。ピルグリム、異邦人、および特殊人である。ピルグリムは後に北方にマサチューセッツ植民地を建設したピューリタンのように、ジャン・カルヴァンの教えに忠実に従うプロテスタントの仲間だった。しかし、内部からイングランド国教会を改革しようと望んだピューリタンとは異なり、ピルグリムは国教会をほとんど過去のものとなったも同然の組織と見ており、その中から脱出しようとした[71]。ピルグリムという名前は、実際に分離主義者自身によって使われたのではなかった。ウィリアム・ブラッドフォードはこの集団を呼ぶときに「ピルグリム」(巡礼者)という言葉を使ったが、彼はこの言葉を宗教的な使命をもって旅する人々の集団を定義するために総称的に用いた。我々が現在ピルグリムと呼ぶ人々によって使われた言葉は「聖人達」("Saints")だった。彼らはこの言葉を、カルヴァン主義予定説信仰に同意し、神に選ばれし者の中の特別な位置を示すために使った[136]

ピルグリムすなわち「聖人達」以外にメイフラワー号に乗っていた残りの物は「異邦人」として知られていた。この集団は、マーチャント・アドベンチャラーズによってメイフラワー号に乗せられた非ピルグリム入植者を含んでいた。また、植民地の歴史を通じて他の理由でやってきた後続の入植者や、ピルグリムの宗教的理想に必ずしも執着しない人もいた[137][138]。3番目の集団は、「特殊人」として知られ、後続の入植者の集団で、自らアメリカ行きの「特殊な」手段に費用を支出しており、植民地の負債を払う必要のなかった者達だった[139]

異邦人と特殊人の存在はピルグリムにとってはかなりの悩みの種だった。1623年には、2つの集団の間にクリスマスの祝い方について紛争が発生した。ピルグリムにとってクリスマスは特別な意味を持たなかった。更に異邦人の集団が近くにウェサガセットの入植地を造ったとき、ピルグリムは感情的にも資源の面でも、異邦人の規律の足りなさに強く神経を逆撫でされた。結果的にウェサガセットの入植地は失敗し、ピルグリムはこれを罪深い民に対する神の摂理と見なした[140]

プリマスの住人は初期の移住者と後から来た者とを識別する言葉を使った。入植者の第一世代は1627年以前に到着した者と一般に考えられ、自分達で「古い来訪者」("Old Comers")あるいは「種をまく人」("Planters")と呼んだ。後の世代は第一世代のことを「先祖」("Forefathers".)と呼んだ[141]

家族数[編集]

1970年、歴史家のジョン・デモスがピルグリムに関するかなり包括的な人口動態調査を行い「小さな共和国」を発表した。この報告書では、植民地の平均的家族の子供の人数は第1世代で7.8人だったのに対し、第2世代で8.6人、第3世代で9.3人と増加した。幼児の死亡率もこの間に減少し、第1世代で生まれた子供が21歳に達するのは7.2人だったのに対し、第3世代では7.9人となった[142]。平均寿命は男の方が女より高かった。21歳まで成長した男は平均寿命が69.2歳だった。この中で55%以上が70歳以上まで存命し、15%足らずが50歳前に亡くなった。女性の場合、子育てに固有の難しさのために、これらの数字がかなり低かった。21歳まで成長した女の平均寿命は62.4歳だった。この中で45%足らずが70歳以上まで存命し、約30%が50歳前に亡くなった[142]

フィリップ王戦争のとき、プリマス植民地だけが成人男性人口の8%を失った。この戦争が終わるまでに、ニューイングランドにあった約100の町の3分の1が焼け出され放棄された。このことはニューイングランドにおけるイギリス人人口にかなりの影響を与えた。[67]

インディアン[編集]

ニューイングランドのインディアンは部族間の同盟が緩い状態にあり、「国家(Nations)」と呼ばれたのは現在と同じである。これら同盟の中に、ニップマック族マサチューセッツ族ナラガンセット族ニアンティック族モヘガン族およびワンパノアグ族がいた[53]。幾つかの重大な出来事により、インディアンの人口は激減した。最初の出来事はウェサガセットでの「スタンディッシュの襲撃」であり、これがインディアン達を恐怖させ、多くはその集落を捨てて飢餓と疫病で多くの者の死という結果になった[46]。次の出来事はピクォート戦争であり、その結果はピクォート族の壊滅と地域の力関係の変化ということになった[53]。3番目はフィリップ王戦争であり、ニューイングランド南部のインディアン総人口の80%が死亡または逃亡という形になり、地域の人口構成に劇的な変化を及ぼした。多くのインディアンがカリブ海や他の地域にプランテーション用の奴隷として売り飛ばされた[63]

黒人奴隷[編集]

プリマス植民地の富裕な家庭ではアフリカ西海岸から輸入した黒人奴隷を所有しており、白人の年季奉公とは異なり、「個人の所有物」として、他の財産と同様に相続された。奴隷の所有はそれほど広く行われていたわけではなく、所有するために必要な富がまだ蓄積されていなかった。1674年、マーシュフィールドのトマス・ウィレット船長の財産目録には、200ポンドの価値で「8人の黒人」と記されている。当時の他の財産目録でも奴隷の資産価値は1人当たり24-25ポンドであり、多くの家庭の財政能力を超えていた。1689年のブリストルの町の統計では、そこに住む70家族の中で1家族のみが奴隷を所有していた[143]。植民地の中に奴隷の数が少なかったので、議会は黒人奴隷に関する法律を通すことも無かった[109]

経済[編集]

植民地ができて最初の2年半は資産共有の体制を採っていた。個人資産も労働階級も無かった。町のために栽培された食料は平等に分配された。ウィリアム・ブラッドフォードは次の様に記した。

この皆が共有した生活とその条件の中で経験され、何年もまた敬虔で謹厳な男達の中で試みられた事柄は、プラトンなどその後の世代に称賛された古代人の概念が空しいことを証しており、私有財産を無くし共有社会とすることは、彼等を幸福にもしまた繁栄させることにもなる。彼等の方が神よりも賢明であるかのようである。この社会にとってこれまで多くの混乱と不満を生んで遅れを生じさせていたものが、彼等の利益と慰めになっている。. [144]

1623年までに飢餓に直面したプリマス植民地指導者達は別の行き方を選んだ。各人に私有地を割り当てることで生産性が増したことは明らかである。再度ウィリアム・ブラッドフォードは次の様に記している。

彼等は惨めな生活の中でうち萎れてしまわないように、如何にすれば以前より多くのトウモロコシを収穫できるか、以前よりも良好な収穫を得られるかを考え始めた。遂には多くの議論の後で、知事が(彼等の中でも主立った者の助言で)譲り、全員が個々に所有する土地にトウモロコシを植え、その栽培は彼等に任せ、他のことは全て以前のままにさせることにした。家族の人数に応じて各家族に土地を割り当てた。そのために現時点で使うため(相続のときには分割しない)の土地とし、少年や青年まで全てに範囲を拡げた。このことは良好な結果を生んだ。あらゆる働き手が勤勉になり、知事などが使った手段によるよりも多くのトウモロコシが植えられ、知事は問題を処理する手間が減り、大きな満足感を生んだ。女性は進んで畑に出るようになり、子供達にも共にトウモロコシを植えさせた。以前ならば弱者とか能力が足りないとか主張し、強制すれば専政とか抑圧だとか考えられたことだった。.[144]

プリマス植民地は共有財産制と自由市場制とを比較した時に、生産性に効果をもたらした好例として引き合いに出されてきた。法律を変えることで労働者それぞれが栽培する食料を保有することを認め、生産性が格段に上昇し、植民地を飢餓から救った。.[145][146]

プリマス植民地の富の大きな源泉は毛皮貿易だった。マイルス・スタンディッシュがウェサガセットでインディアンを騙し討ちした襲撃で、白人はインディアンの信用を失った。この虐殺が引き起こした交易の混乱は、植民地の者に多年大きな苦境を強いることになった。このことはウィリアム・ブラッドフォードが、植民初期の経済的な困難さを生んだ要因として直接引き合いに出している[46]。植民地の者はその替わりに漁業で収入を得ようとした。ケープコッド湾の海は優れた漁場として知られていた。しかし、植民者は海上での技に欠けており、それほど経済的困難さを救う効果が無かった[147]。プリマス植民地は地域全体との交易を行い、はるか遠いメインのペノブスコットまで交易基地を造った。ニューアムステルダムのオランダ人ともしばしば交易を行った[148]

経済状態は植民地に牛が到着したことで改善された。何時最初の牛が到着したかは不明であるが、1627年に牛の放牧地を分けたことは植民地における土地の私的所有の方向に動いたことを示している[149]。牛は植民地の重要な富の源泉となった。1638年に牛は平均して28ポンドで売れた。しかし、大移住の間の移民の増大は牛の価格を下げた。1638年に28ポンドで売れた牛が1640年にはわずか5ポンドだった[150] 牛以外に、豚、羊、および山羊も育てられた[23]

農業もプリマス植民地経済の重要な位置付けになった。植民地の人々はインディアンから農耕法を教わり、作物を選んだ。トウモロコシ、スカッシュ、カボチャ、豆類およびジャガイモを育てた。ピルグリムはインディアンから輪作を行うことや死んだ魚を肥料にすることを学び、農業生産性を改善した。インディアンの作物以外にも、植民地の人々は旧世界の作物を持ち込んだ。カブ、ニンジン、エンドウ豆、小麦、オオムギおよびオートムギだった[151]。ウィスキーはインディアンを酔わせ、土地権利書に署名させるために大いに活用された。「夢による啓示」を重要視するインディアンたちはウィスキーに耽溺し、身を滅ぼしていくものも多かった。

全体的にプリマス植民地にはほとんど現金が無かったので、富は所有物という形で蓄積された。毛皮や家畜のような交易品は価格変動があるものであり、富の蓄積のためには頼り難いものだった。衣類や装身具のような商品は住民にとって経済的安定性の重要な資源だった[152]。これは「すべてのものを共有する」というインディアンの文化と正反対の思想だった。インディアンたちは売るつもりもなくその土地を白人たちに奪われていった。

遺産[編集]

プリマス植民地は72年間という比較的短い期間存続したが、設立とそれに続く期間におこった出来事はアメリカ合衆国の芸術、伝統および神話の中で生き続けている。

芸術、文学および映画[編集]

ウィリアム・ブラッドフォードによる「プリマス・プランテーションについて」
アダム・ウィラールツ作「デルフスハーフェン港から新大陸へのピルグリムの出発」(1620)、ボストン美術館

ピルグリムの最も早い芸術の表現は、そのアメリカ到着前に既になされた。オランダの画家アダム・ウィラールツが1620年にデルフスハーフェンからのピルグリムの旅立ちの様子を描いていた[153]。同じ光景が1844年、ロバート・ウォルター・ウェイアによって再度描かれ、作品はアメリカ合衆国議会議事堂の大広間に掛けられている。プリマス上陸や「最初の感謝祭」など、プリマス植民地の様々な光景を記録するための多くの絵画が制作された。その多くは植民地の歴史を保存するために1824年に造られた博物館と歴史協会であるピルグリム・ホールに集められている[154]

プリマス植民地の生活に関する当時の証言は、極めて重要な歴史文書と文学作品の古典になってきた。ウィリアム・ブラッドフォードによる「プリマス・プランテーションについて」、およびブラッドフォード、エドワード・ウィンスローその他による「モートの関係」は、どちらもメイフラワー号の乗客によって書かれた証言であり、大西洋を越える航海や植民初期のことに関する多くの情報を与えてくれている。ベンジャミン・チャーチは「フィリップの戦争に関する興味有る過程」を含み、フィリップ王戦争の幾つかの証言を書き残したが、これは18世紀を通じて人気有るものだった。この作品の1つの版が1772年にポール・リビアによって挿絵を施された。他にも、「神の主権と善意」はフィリップ王戦争の時にインディアンに捕まってその社会でしばらく生活したイギリス人女性、メアリー・ローランドソンの視点から証言を集めたものである[155]。後世のヘンリー・ワズワース・ロングフェローによる「マイルス・スタンディッシュの交際」はプリマス植民地の生活をロマン的にまた一部フィクションを交えて描いたものである[156]

ピルグリムに関する映画も多い。「マイルス・スタンディッシュの交際」は何回か映画化された[157]スペンサー・トレイシーを起用した1952年の映画「プリマス・アドヴェンチャー」[158]、ヒストリー・チャネルによって制作された2006年のテレビ・ドキュメンタリー「絶望的な渡海:メイフラワー号の真実」[159]などがある。

感謝祭[編集]

アメリカ合衆国は毎年11月第4木曜日に感謝祭の祝日を祝う。この日は連邦の祝日であり、家族が集まって伝統的に七面鳥を主餐とする食卓を囲む。この日の公的な催しはパレードやアメリカンフットボールの試合である。この祝日は1621年にプリマスで催された収穫を祝う祭り、「最初の感謝祭」を称える意味がある。その様子は植民地の書記官でブラッドフォードの甥だったナサニエル・モートンによる「ニューイングランドの記憶」に記録されている。

毎年の感謝祭は最近創られたものである。19世紀初期、アメリカ合衆国政府は感謝祭を国民の祝日にすると宣言したが、1回限りの宣言であって、戦闘の勝利のような特別の出来事を祝う意味合いのものだった。米英戦争が終わってから間もなく北東部の諸州が毎年11月に感謝祭を祝うようになった。今日の感謝祭は、ボストンの「レディズマガジン」の編集者サラ・ジョセファ・ヘイルという一人の女性の働きによるものである。ヘイルは1827年から、ピルグリムの最初の収穫祭を記念して毎年感謝祭を国民の祝日にするよう論説を書いた。40年近い後の1863年、エイブラハム・リンカーンは11月の最後の木曜日を、最初の近代的感謝祭と宣言した。フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国議会が最終的に11月の第4木曜日に変えた。1941年、この祝日は公式の連邦祝日であると議会によって認められた[160][161]

感謝祭の祝日を発展させる今日の催しの中では、ナショナル・フットボール・リーグの感謝祭クラシック・ゲームや、ニューヨークのメーシーズ感謝祭パレードが伝統となっている。

プリマス植民団に虐殺され土地を奪われた、ワンパノアグ族らニューイングランドのインディアン団体「ニューイングランド・アメリカ・インディアン連合」は、この日を呪わしい「白人によるインディアンの虐殺と侵略の日」(「全米哀悼の日」)とし、虐殺された先祖への弔意を示す黒い腕章を着け、「白人によるワンパノアグ族虐殺の歴史を忘れるな」との標語を掲げ、抗議のデモを行っている。

プリマス・ロック[編集]

プリマスの岩

ピルグリムの上陸を忍ぶ象徴の一つがプリマス・ロックである。プリマスの上陸地点近くにあった花崗閃緑岩の大きな岩の露出部である。しかし、この岩が上陸地点にあったということに言及している当時の証言は無い。ピルグリムが上陸地点に選んだのは岩場ではなく、清水を確保し魚が取れた小川だった[162]

最初にプリマス・ロックを実際の上陸地点だとしたのは、1741年の当時90歳のトマス・フォーンスであり、その父親は1623年つまり最初の上陸の3年後にプリマスに到着していた。この岩は後に支柱に支えられた屋根で保護された。1774年、岩を掘り出すことが試みられたが2つに割れてしまった。幾つかのかけらがプリマスの中心部にあるタウン・スクェアに置かれた。1880年、埋まったままの方の岩が掘り出され、壊れたかけらも元のように付けられた。その後何十年も、お土産に岩のかけらを持ち帰る者がおり、残った岩は今ではアービング博物館の複合的建物の中で保護されている。この博物館には、渡航船の復元であるメイフラワー2世号、1620年の入植地を再現したプリマス・プランテーション、および17世紀インディアンの集落を再現したワンパノアグ集落がある[163]

1970年には、「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」として、華やかな式典行事が行われた。

しかし白人にとって記念すべきこの岩は、インディアンたちにとっては侵略と民族浄化の忌まわしい象徴である。この「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」が式典に乱入し、抗議行動を行った。

スー族AIM活動家のラッセル・ミーンズらはこのとき、記念展示されていた「メイフラワー2世号」に乗りこんでマストにAIMの旗を掲げ、また土砂を満載したトラックを乗り付け、「プリマスの岩」を土砂で埋めてみせた。

メイフラワー協会[編集]

メイフラワー子孫の総合協会、略してメイフラワー協会は1620年にメイフラワー号で到着した102名の乗客の一人かそれ以上の血を引くことが証明された人々による系譜的な組織である。この協会は1897年にプリマスで創られた。この協会は1千万人のアメリカ人が子孫だと主張できると言っている。メイフラワー号乗客との関係を調べたい人には協会が調査サービスを提供できる[164]

脚注[編集]

  1. ^ Patricia Scott Deetz; James F. Deetz (2000年). “Passengers on the Mayflower: Ages & Occupations, Origins & Connections”. The Plymouth Colony Archive Project. 2006年5月19日閲覧。
  2. ^ Philbrick (2006) pp 7-13
  3. ^ Addison (1911), foreword "From a Pilgrim Cell", pp xiii?xiv
  4. ^ Addison (1911), pp 51
  5. ^ Philbrick (2006), pp 16-18
  6. ^ Rothbard, Murray Rothbard (1975). “"The Founding of Plymouth Colony"”. Conceived in Liberty. 1. Arlington House Publishers 
  7. ^ 入植初期に経験した苦労と、その代表者の堕落や管理不行き届きのために、負債が実際に支払われたのは1648年だった Philbrick (2006), pp 19-20, 169
  8. ^ Philbrick (2006), pp 20-23
  9. ^ Philbrick (2006) pp 24-25
  10. ^ Addison (1911), pp 63
  11. ^ Philbrick (2006) pp 27-28
  12. ^ Philbrick (2006), pp 35-36
  13. ^ Croxton, Derek (1991年). “The Cabot Dilemma: John Cabot's 1497 Voyage & the Limits of Historiography”. Essays in History. Corcoran Department of History at the University of Virginia. 2007年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月3日閲覧。
  14. ^ Edney, Matthew H.. “The Cartographic Creation of New England”. Osher Map Library and Smith Center for Cartographic Education, University of Southern Maine. 2007年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月3日閲覧。
  15. ^ Koplow, David A. (2003年). “Smallpox The Fight to Eradicate a Global Scourge”. University of California Press. 2009年2月22日閲覧。
  16. ^ Marr JS, Cathey JT. New hypothesis for cause of an epidemic among Native Americans, New England, 1616–1619. Emerg Infect Dis [serial on the Internet. 2010 Feb. http://www.cdc.gov/EID/content/16/2/281.htm DOI: 10.3201/edi1602.090276
  17. ^ Popham Colony: The First English Colony in New England”. www.pophamcolony.org. 2007年5月3日閲覧。
  18. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 69-71
  19. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 46-48
  20. ^ Philbrick (2006) pp 41
  21. ^ Philbrick (2006), pp 55-77
  22. ^ Philbrick (2006), pp 78-80
  23. ^ a b Johnson (1997), pp 37
  24. ^ Philbrick (2006), pp 80-84
  25. ^ Philbrick (2006), pp 88-91
  26. ^ プリマス植民地の初代知事はジョン・カーバーと認識されている。en:List of colonial governors of Massachusettsを参照
  27. ^ Philbrick (2006), pp 93, 155
  28. ^ 『Readings in Jurisprudence and Legal Philosophy』(Felix S. Cohen、1952年)
  29. ^ Philbrick (2006), pp 93-94
  30. ^ Philbrick (2006), pp 94-96
  31. ^ Philbrick (2006), pp 52-53
  32. ^ West, Elliot. Squanto in Weinstein and Rubel (2002), pp 50-51
  33. ^ Philbrick (2006) pp 97-99
  34. ^ Philbrick (2006) pp 100-101
  35. ^ Addison (1911), pp 83-85
  36. ^ Patricia Scott Deetz; James F. Deetz (2000年). “Mayflower Passenger Deaths, 1620-1621”. The Plymouth Colony Archive Project. 2007年4月19日閲覧。
  37. ^ Addison (1911), pp 83
  38. ^ Travers, Carolyn Freeman. “Fast and Thanksgiving Days of Plymouth Colony”. Plimoth Plantation: Living, Breathing History. Plimoth Plantation. 2007年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月2日閲覧。
  39. ^ Primary Sources for "The First Thanksgiving" at Plymouth”. Pilgrim Hall Museum (1998年). 2008年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年3月30日閲覧。 note: this reference contains partial transcriptions of two documents, Winslow's Mourt's Relations and Bradford's Of Plimoth Plantation, which describe the events of the First Thanksgiving
  40. ^ Philbrick (2006), pp 102-103
  41. ^ Philbrick (2006), pp 104-109
  42. ^ Philbrick (2006) pp 110-113
  43. ^ Philbrick (2006) pp 113-116
  44. ^ a b c d Deetz, Patricia Scott (2000年). “Population of Plymouth Town, County, and Colony, 1620-1690”. Department of Anthropology, University of Virginia. 2007年3月31日閲覧。
  45. ^ Philbrick (2006) pp 151-154
  46. ^ a b c d e Philbrick (2006) pp 154-155
  47. ^ Winslow, Edward (1624年). “Chapter 5”. Good Newes From New England. The Plymouth Colony Archive Project. 2007年5月17日閲覧。
  48. ^ Philbrick (2006) pp 123-126, 134
  49. ^ Residents of Plymouth according to the 1627 Division of Cattle”. Plimoth Plantation: Living, Breathing History. Plimoth Plantation. 2007年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月2日閲覧。
  50. ^ Leach, Douglas Edward (Sep., 1951). “The Military System of Plymouth Colony”. The New England Quarterly 24 (3): pp. 342-364. doi:10.2307/361908. http://links.jstor.org/sici?sici=0028-4866(195109)24%3A3%3C342%3ATMSOPC%3E2.0.CO%3B2-H 2007年4月3日閲覧。.  note: login required for access
  51. ^ Taylor, Norris (1998年). “The Massachusetts Bay Colony”. 2007年3月30日閲覧。
  52. ^ Philbrick (2006), pp 57-58, 71, 84, 90, 115, 128, 155
  53. ^ a b c Perspectives: The Pequot War”. The Descendants of Henry Doude. 2007年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月2日閲覧。
  54. ^ Philbrick (2006) pp 180-181
  55. ^ Philbrick (2006) pp 205
  56. ^ Philbrick (2006) pp 207-208
  57. ^ a b c Aultman, Jennifer L. (2001年). “From Thanksgiving to War: Native Americans in Criminal Cases of Plymouth Colony, 1630-1675”. The Plymouth Colony Archive Project. 2007年5月17日閲覧。
  58. ^ Philbrick (2006) pp 221-223
  59. ^ Philbrick (2006) pp 229-237
  60. ^ Philbrick (2006) pp 288-289
  61. ^ Philbrick (2006) pp 311-323
  62. ^ Philbrick (2006) pp 331-337
  63. ^ a b Philbrick (2006) pp 332, 345-346
  64. ^ a b Timeline of Plymouth Colony 1620-1692”. Plimoth Plantation (2007年). 2007年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月2日閲覧。
  65. ^ Demos (1970), pp 17
  66. ^ Demos (1970), pp 17-18
  67. ^ Weinstein and Rubel (2002), pp 64-65
  68. ^ Demos (1970), foreword pp x.
  69. ^ a b c Demos (1970), pp 83-84
  70. ^ Demos (1970) pp 134-136
  71. ^ a b Maxwell, Richard Howland (2003年). “Pilgrim and Puritan: A Delicate Distinction”. Pilgrim Society Note, Series Two. Pilgrim Hall Museum. 2003年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2003年4月4日閲覧。
  72. ^ Demos (1970), pp 8
  73. ^ a b c d e f Fennell, Christopher (1998年). “Plymouth Colony Legal Structure”. The Plymouth Colony Archive Project. 2007年4月2日閲覧。
  74. ^ a b Demos 1970, pp 104-106, 140
  75. ^ Demos (1970), pp 8-9
  76. ^ Demos (1970), pp 132
  77. ^ a b Philbrick (2006), pp 104
  78. ^ Deetz and Deetz, pp 87-100 and endnotes
  79. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 92-98 and endnotes
  80. ^ Demos (1970), pp 151
  81. ^ Demos (1970), pp 66. Demos names the following figures for life expectancy: 21歳になった男性の平均寿命は70歳、女性は63歳だった。
  82. ^ a b Demos (1970), pp 82-99
  83. ^ Demos (1970), pp 66. Historian John Demos quotes a 1667 contract between John Phillips and Faith Doty which states "The said Faith Doty is to enjoy all of her house and land, goods and cattles, that shee [sic] is now possessed of, to her owne [sic] proper use, to dispose of them att [sic] her owne [sic] free will..."
  84. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 99-100
  85. ^ Whipps, Heather (2006年9月21日). “Census: U.S. household size shrinking”. MSNBC.com. 2007年5月11日閲覧。 MSNBCによる研究では今日のアメリカの一家族当たり人数は2.6人である。Demos (1970), pp 192 では、移民後第3世代までに、平均的な家庭の出生数は9.3人、このうち成人する子供は7.9人だった。両親の数を加えると、1軒の家に平均10人がいたことになる。
  86. ^ Demos (1970), 64-69
  87. ^ Travers, Carolyn Freeman (2007年). “Common Myths: Dead at Forty”. Plimoth Plantation. 2007年5月11日閲覧。
  88. ^ Demos (1970), pp 62-81
  89. ^ a b Demos (1970), pp 141
  90. ^ Demos (1970), pp 71-75
  91. ^ Demos (1970), pp 146
  92. ^ Demos (1970), pp 147-149
  93. ^ Demos (1970), pp 142-143
  94. ^ Demos (1970), pp 144
  95. ^ Demos (1970), pp 104
  96. ^ Demos (1970), pp 148
  97. ^ Governors of Plymouth Colony”. Pilgrim Hall Museum (1998年). 2007年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月2日閲覧。
  98. ^ Demos (1970), pp 7
  99. ^ Demos (1970), pp 10
  100. ^ Demos (1970), pp 14
  101. ^ Philbrick (2006), pp 214-215
  102. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 133 cite the first eight examples (treason-adultery), Demos (1970) pp 100 mentions the last
  103. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 135
  104. ^ Demos (1970) pp 102. バンパスの実際の宣告文は「柱に縛り付けて鞭打ち」だったが、「気が狂っているので、そうでなければ死刑に値するものである」という注釈がついていた。
  105. ^ Philbrick (2006), pp 223
  106. ^ Johnson (1997), pp 53
  107. ^ Demos (1970), pp 96-98
  108. ^ Deetz and Deetz(2000), pp 143
  109. ^ a b Galle, Lillian (2000年). “Servants and Masters in the Plymouth Colony”. The Plymouth Colony Archive Project. 2007年5月17日閲覧。
  110. ^ Martucci, David (1997年). “The Flag of New England”. 2007年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月3日閲覧。
  111. ^ Payne, Morse (2006年). “The Survey System of the Old Colony”. Slade and Associates. 2007年4月3日閲覧。
  112. ^ The Border is Where? Part II”. The Rhode Islander: A depository of opinion, information, and pictures of the Ocean State. blogspot.com (2007年). 2007年4月3日閲覧。
  113. ^ a b Town of Bristol”. EDC Profile. Rhode Island Economic Development Corporation (2007年). 2007年7月13日閲覧。
  114. ^ Deetz and Deetz (2000), 巻末注はプリマス植民地の一部として20の町を挙げている。下記のリストに加えて、マーサズ・ヴィニヤードのエドガータウンとティスベリー、ナンタケット島のナンタケットを含んでいる。しかし、1890年の「マサチューセッツ・ガゼティア」を含む他の資料では、マーサズ・ヴィニヤード(デュークス郡)とナンタケット島は自治領になる前の時代にニューヨーク植民地に属し、プリマス植民地を独立した国としては終息させることになった1691年勅許まで正式に領内とされることはなかった。ハル、ウェイマスやヒンガムのような「古植民地線」より北の町は、プリマスの入植者によって創設されたかマサチューセッツ湾植民地との境界が造られた1644年以前にプリマス植民地の一部として一時的に管理された町だった。
  115. ^ Nason, Elias (1890年). “Barnstable County Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  116. ^ Nason, Elias (1890年). “Barnstable Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  117. ^ Nason, Elias (1890年). “Eastham Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  118. ^ Deyo, Simeon L. (1890年). “Chapter XX”. History of Barnstable County, Massachusetts. republished in 2006 online by CapeCodHistory.us. 2007年7月13日閲覧。
  119. ^ Nason, Elias (1890年). “Sandwich Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  120. ^ Nason, Elias (1890年). “Yarmouth Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  121. ^ Nason, Elias (1890年). “Bristol County Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  122. ^ Nason, Elias (1890年). “Taunton Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  123. ^ Nason, Elias (1890年). “Dartmouth Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  124. ^ Nason, Elias (1890年). “Freetown Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  125. ^ The Little Compton Historical Society Home Page”. The Little Compton Historical Society (2005年). 2007年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月13日閲覧。
  126. ^ Nason, Elias (1890年). “Rehoboth Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  127. ^ Rochester (MA) Town History”. Town of Rochester, Massachusetts (2007年). 2007年7月13日閲覧。
  128. ^ Nason, Elias (1890年). “Swansey Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。 note: some confusion exists over the correct spelling of Swansea. The modern spelling is used here.
  129. ^ Nason, Elias (1890年). “Plymouth County Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  130. ^ Nason, Elias (1890年). “Plymouth Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  131. ^ Nason, Elias (1890年). “Bridgewater Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  132. ^ Nason, Elias (1890年). “Duxbury Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  133. ^ Nason, Elias (1890年). “Marshfield Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  134. ^ Nason, Elias (1890年). “Middleborough Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  135. ^ Nason, Elias (1890年). “Scituate Massachusetts, 1890”. Massachusetts Gazetteer. 2007年4月3日閲覧。
  136. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 14
  137. ^ Cline, Duane A. (2006年). “The Pilgrims and Plymouth Colony: 1620”. Rootsweb. 2007年4月4日閲覧。
  138. ^ Philbrick (2006) pp 21-23
  139. ^ Demos (1970), pp 6
  140. ^ Philbrick (2006) pp 128, 151-154
  141. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 14 and endnotes
  142. ^ a b Demos (1970), Appendices, pp 192-194
  143. ^ Demos, pp 110-111, also see Demos's footnote #10 on pp 110
  144. ^ a b Bradford, William, "Of Plymouth Plantation 1620–1647" edited by Samuel Eliot Morison 1952, pages 120–121
  145. ^ Reason Tv - The Pilgrims and Property Rights”. Reason.com. 2010年11月10日閲覧。
  146. ^ The Great Thanksgiving Hoax”. The Ludwig von Mises Institute. 1999年11月20日閲覧。
  147. ^ Philbrick (2006), pp 136
  148. ^ Philbrick (2006), pp 199-200
  149. ^ Deetz and Deetz (2000), pp 77-78. 牛に関する最初の記録は1624年の「3頭の雌牛と1頭の雄牛」の到着となっているが、これが最初の到着だったかどうかは疑問がある。
  150. ^ Chartier, Charles S.. “Livestock in Plymouth Colony”. Plymouth Archaeological Rediscovery Project. 2007年5月3日閲覧。
  151. ^ Johnson (1997), pp 36-37
  152. ^ Demos (1970) pp. 52-53
  153. ^ Philbrick 2006, pg 22
  154. ^ History Paintings”. Pilgrim Hall (1998年). 2007年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月5日閲覧。
  155. ^ Philbrick (2006) pp 75, 288, 357-358
  156. ^ Philbrick (2006) pp 354
  157. ^ IMDB search: Miles Standish”. IMDB. 2007年4月5日閲覧。
  158. ^ Plymouth Adventure (1952)”. IMDB. 2007年4月5日閲覧。
  159. ^ The Mayflower (2006)”. IMDB. 2007年4月5日閲覧。
  160. ^ Wilson, Jerry (2001年). “The Thanksgiving Story”. Holiday Page. Wilstar.com. 2007年4月5日閲覧。
  161. ^ History of Thanksgiving: A Timeline”. Twoop.com (2006年). 2007年4月5日閲覧。
  162. ^ Philbrick (2006) pp 75, 78-79
  163. ^ Philbrick (2006) pp 351-356
  164. ^ The Mayflower Society Home Page”. General Society of Mayflower Descendants (2006年). 2007年7月13日閲覧。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Addison, Albert Christopher (1911). The Romantic Story of the Mayflower Pilgrims. The Plymouth Colony Archive Project. http://etext.virginia.edu/users/deetz/Plymouth/addisontxt.html 2007年4月30日閲覧。 
  • Deetz, James; Patricia Scott Deetz (2000). The Times of Their Lives: Life, Love, and Death in Plymouth Colony. New York: W. H. Freeman and Company. ISBN 0-7167-3830-9 
  • Demos, John (1970). A Little Commonwealth: Family Life in Plymouth Colony. New York: Oxford University Press 
  • Johnson, Paul (1997). A History of the American People. New York: HarperCollins. ISBN 0-06-016836-6 
  • Philbrick, Nathaniel (2006). Mayflower: A Story of Courage, Community, and War. New York: Penguin Group. ISBN 0-670-03760-5 
  • Weinstein, Allen; David Rubel (2002). The Story of America: Freedom and Crisis from Settlement to Superpower. New York: DK Publishing. ISBN 0-7894-8903-1 

外部リンク[編集]