プトレマイオス12世

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プトレマイオス12世

プトレマイオス12世アウレテスΠτολεμαίος ΙΒ' Αυλητής紀元前117年 - 紀元前51年)は、古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ。父はプトレマイオス9世、妻はクレオパトラ6世。子にベレニケ4世クレオパトラ7世アルシノエ4世プトレマイオス13世プトレマイオス14世等。

生涯

紀元前80年プトレマイオス11世アレクサンドリア市民の反乱で殺害されると、正当な子孫ではなかったもののファラオとなる。姉妹のクレオパトラ5世(または6世)と結婚。増大するローマの圧力や内政の混乱を省みず、遊楽にふけったため笛吹き王(アウレテス)と揶揄される。但し、正統な後継者でなく(前王の従兄弟であり、プトレマイオス王家の中では傍流と看做されていたものと考えられる。)、反対勢力が多く権力基盤が脆弱であったために、ローマの支援に依存せざるを得なかったことは考慮すべきである。それでも、ローマに対する贈賄工作や貢納はエジプト国民に対する重税強化につながり、国民の不満を増大させた。

結果、諸政策で批判を浴び、自らの弟の統治するキプロスをローマに奪われ見殺しにしたことで反乱が発生し、紀元前58年に一旦退位し、ローマへ亡命した。反乱後は娘のベレニケ4世がファラオとなり、共同統治者としてプトレマイオス12世の妻クレオパトラ6世が選ばれている。

しかし紀元前55年ローマポンペイウスアウルス・ガビニウスらの支援を受けて復位、ベレニケ4世を処刑した。以後紀元前51年まで在位し、自らの後任としてクレオパトラ7世及びプトレマイオス13世に共同でファラオに就くよう言い遺し亡くなった。