フランツ・フォン・エップ

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フランツ・フォン・エップ
Franz von Epp
フォン・エップの写真 (1937年)
生年月日 1868年10月16日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国 ミュンヘン
没年月日 (1947-12-31) 1947年12月31日(79歳没)
死没地 アメリカ占領地域
バイエルン州
ニュルンベルク
出身校 バイエルン士官学校ドイツ語版
前職 陸軍軍人 (陸軍中将)
所属政党

バイエルン人民党
(1927年 - 1928年)

国家社会主義ドイツ労働者党
(1928年 - 1945年)
称号 騎士(Ritter)
一級鉄十字章
二級鉄十字章
プール・ル・メリット勲章

国家社会主義ドイツ労働者党
国防政策全国指導者
在任期間 1933年8月31日 - 1945年4月27日
指導者 アドルフ・ヒトラー

国家社会主義ドイツ労働者党
植民政策全国指導者
在任期間 1933年8月31日 - 1945年4月27日
指導者 アドルフ・ヒトラー

在任期間 1933年4月10日 - 1945年4月27日
大統領
総統
パウル・フォン・ヒンデンブルク
アドルフ・ヒトラー

バイエルン州
第7代首相
内閣 フォン・エップ内閣
在任期間 1933年3月10日 - 1933年4月10日
大統領 パウル・フォン・ヒンデンブルク

当選回数 8回
在任期間 1928年5月8日 - 1945年4月27日
国会議長 パウル・レーベ
ヘルマン・ゲーリング
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軍歴
所属組織 ドイツ帝国陸軍
バイエルン王国陸軍
エップ義勇軍ドイツ語版
ヴァイマル共和国陸軍
突撃隊
ドイツ陸軍
軍歴 1887年 - 1923年
(ドイツ帝国陸軍、
エップ義勇軍、
ヴァイマル共和国軍)
1933年 - 1945年
(突撃隊)
最終階級

名誉陸軍歩兵大将 [注釈 1]

突撃隊大将
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フランツ・リッター(騎士)・フォン・エップドイツ語: Franz Ritter von Epp1868年10月16日 - 1947年12月31日)は、ドイツ陸軍軍人政治家国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の全国指導者で軍事面の最高幹部。バイエルン州首相・国家代理官国会議員を歴任。軍人としての最終階級は名誉陸軍歩兵大将。

来歴[編集]

バイエルン軍人[編集]

父ルドルフが描いたエップの肖像画(1893年)

1868年にバイエルン王国ミュンヘンカトリック教徒の画家ルドルフ・エップドイツ語版とその妻カトリーナの第1子として生まれた。妹にはヘレンとアウグステがいる。アウクスブルクの学校で学んだ後、1887年8月16日に3年間の志願兵としてバイエルン陸軍に入隊し、第9歩兵連隊「ヴレーデ」ドイツ語版に配属される。1896年から1899年にかけて、第19歩兵連隊「ケーニヒ・ヴィクトール・イマヌエル3世」ドイツ語版に配属され、同時期にバイエルン士官学校ドイツ語版で参謀学を学んだ[1]。1896年から1900年まで、「イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世」歩兵第19連隊に所属した。

1900年、義和団の乱が発生した際には自ら志願してへ赴き、鎮圧にあたった。1900年から1901年にかけてドイツ領南西アフリカで第1野戦連隊の中隊長として、ヘレロ・ナマクア虐殺にも関与した[2]。1906年に帰国し、1908年から1912年にかけて第3師団参謀を務め、その後は少佐に昇進し大隊指揮官を務めた。

1914年、第一次世界大戦に出征し、西ザールブルクの戦闘で負傷し鉄十字章を授与され中佐に昇進する。1915年にセルビアに派遣されギリシャとの国境線に配置され、次いで南チロルに派遣される。1916年6月にはヴェルダンの戦いに従軍し、マックス・ヨーゼフ勲章ドイツ語版を授与されると同時に「騎士(Ritter)」位の叙爵を受け、以降「フランツ・リッター・フォン・エップ」と名乗った。その後はルーマニア戦線に派遣された他、西部戦線イソンゾの戦い英語版などに従軍した。1916年秋には、シビウの戦いに参加した。1917年には再びルーマニアに派遣され、秋には西部戦線とヴェネチアン・アルプスで短期間、1918年春季攻勢におけるケンメルの戦いに参加した。1918年のケンメルベルク襲撃戦では、プール・ル・メリット勲章を授与された。第一次世界大戦終結時には大佐の地位にあった。プール・ル・メリット勲章を授与され、大佐で敗戦を迎える。

フライコール・ヴァイマル共和国軍[編集]

義勇軍部隊をヴァイマル共和国軍に引き渡すエップ(中央右向き軍服の人物)とノスケ、エーベルト(1919年8月25日)

1919年、国防大臣グスタフ・ノスケの支援を受け、東部における国境防衛のためバイエルンでドイツ義勇軍(フライコール)のエップ義勇軍ドイツ語版を組織した。しかし、クルト・アイスナー率いるバイエルン政府が共和国政府による国境防衛のための徴兵を禁止したため、テューリンゲン州オールドルフに創設された。エップ義勇軍にはエルンスト・レームハンス・フランクルドルフ・ヘスグレゴール・シュトラッサーオットー・シュトラッサーなど、後のナチ党幹部になる人物の多くが参加していた[3]。700人の兵員を擁するエップ義勇軍は1919年4月から5月にかけて、他のフライコールと共に、社会主義者が組織したバイエルン・レーテ共和国を武力で打倒し、700人近い社会主義者を殺害したとされる。バイエルン・レーテ共和国打倒後、エップはヴァイマル共和国軍に入隊し、義勇軍は陸軍第21ライフル旅団としてエップの指揮下に再編成された。また彼は、その他の市警、住民防衛隊、技術緊急援助隊の責任者でもあった。

1920年3月には、カップ一揆に影響を受け、エップは急進右翼の郷土軍ドイツ語版ゲオルク・エシェリヒドイツ語版やミュンヘン警視総監エルンスト・ペーナードイツ語版とともに、バイエルンのホフマン社会民主党政権を無血クーデターで倒し、保守右翼グスタフ・フォン・カール政権を樹立した。 4月にはルール蜂起を鎮圧するため派遣された。1921年に国軍第7軍管区都市司令部兵站部長として武器調達の任務に就いていたレームの仲介でアドルフ・ヒトラーと面会し、 エップは1921年6月に少将に昇進した。1923年10月31日、右翼過激派との密接な接触による解任を回避するため中将の階級で自ら国軍を去ったが、将官服を着る権利を与えられた。その後は右翼政治活動に専念した[4]。彼は当初ヒトラーとルーデンドルフの強行策には明確な立場をとらず、あくまでレームと国軍との仲介をするだけであった。

ナチ党[編集]

エップは1927年にバイエルン人民党に入党したが、わずか1年後に離党し、1928年5月1日に59歳で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した[5]。エップはナチ党の集会に参加し、ヴェルサイユ条約破棄やドイツ再軍備、反ユダヤ主義に共感を示し、入党したことに名誉と誇りを感じるようになった[6][7]。エップは元将軍として、国軍やブルジョワ階層との繋ぎ役としての役割を期待されていた。

1928年ドイツ国会選挙ではナチ党の有力候補としてバイエルンから出馬し、国会議員に当選[8]。ナチ党は12議席を獲得し、エップはナチ党の国防政策のスポークスマンとして国会で活動した。そのため、エップの発言は国防政策に関する議題のみとなっている[9]。また、同年にナチ党国防政策全国指導者に任命された。1932年にはジュネーブ海軍軍縮会議英語版にナチ党の代表として委員の一人として派遣された。そこで大規模な反対運動を展開した。同年9月には突撃隊最高指導部に配属され、独立志向の強いレームら突撃隊幹部を制御する役目を担った。

バイエルン州国家代理官[編集]

ミュンヘン会談出席のため訪独したチェンバレンを出迎えるエップ(親衛隊員の間にいる人物、1938年9月29日)

1933年1月30日、ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により首相に任命された。3月9日にヒトラーと内務大臣ヴィルヘルム・フリックの命令を受けたエップは、突撃隊を率いてハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府を武力で解体した。4月10日、帝国政府はドイツ国民と国家を保護するための大統領令に基づき、エップはバイエルン州の国家代理官に任命され、バイエルン州の統治者となった。エップはアドルフ・ワーグナーに警察権を委譲し、ハインリヒ・ヒムラーをミュンヘン警察長官に任命した。一週間後、ヘルト政権が正式に総辞職すると、エップはワーグナーを副首相と内相に、ハンス・フランクを法務大臣に、ルートヴィヒ・ジーヴェルトを財務大臣に、ハンス・シェムを文化大臣に任命し、州政府の暫定的な指導権を引き継いだ。エップは「ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律」によって任命された最初の国家代理官となった。さらに、エップは1933年にドイツ法律アカデミーの創設メンバーの一人となった[10]

しかし、エップはこの職務において、彼は帝国を代表して、また帝国の名において行動し、バイエルン州を監督し、中央政府発令の政策を遵守する任務を負っていたが、彼には行政権はなく、州行政に関する権限は州政府議長および彼の提案による州政府学力の任免権に限られていた。またエップは、他の国家弁務官とは対照的に、党に権力基盤を持つナチスの全国指導者ではなかった。こうした背景から、実質的な地方の統治権を持つミュンヘン・上バイエルン大管区指導者のワーグナーや、エップの座を狙い、バイエルン州首相となったジーヴェルトとは意見が合わずに衝突した。1933年に、ナチ党政権に反対する勢力の「保護拘禁ドイツ語版」に反対し4,000人の釈放を企図するが、ワーグナーやヒムラー、レームの反対に遭い失敗している。しかし、ジャーナリストのエルヴェイン・フォン・アレティンドイツ語版の釈放には成功している[11]。こうした姿勢から、ベルリンの中央政府から冷遇されるようになり、バイエルン州の実権はワーグナーとジーヴェルトに二分されてしまい、エップは儀礼的な存在になってしまう。しかし、1934年6月27日にエップが大統領ヒンデンブルクに行った報告で、彼が党の路線に完全に忠実に行動したことを示されている。また、共産主義者を殺害した2人の突撃隊員に対する刑事手続きの抑制を、検察官の要請に同意することで正当化した。1936年には、ワシントンD.C.で開催された世界エネルギー会議にドイツ代表として出席した。

1934年5月5日、ヒトラーはエップをドイツの植民地を取り戻すために組織されたドイツ植民地協会の植民政策全国指導者に任命し、1943年に廃止されるまで同職を勤めた。1934年にバイエルン狩猟協会の会長に就任し、1935年7月25日には、エップは歩兵大将の階級を受け、歩兵第61連隊長に就任する[12]

第二次世界大戦中、エップは他のナチ党指導者とは距離を取ったが、表立って中央政府を批判することは避けていた[13]。寧ろエップは、国家社会主義の人種差別的な中核教義を公然と唱えた。このことは、1941年発行の雑誌『Deutschlands Erneuerung』の特集号「植民地におけるドイツ科学の課題」の「まえがき」からも明らかである。この雑誌は1917年にアルドイチェ連盟の機関誌として創刊された。国家社会主義へのエップの批判はあくまで、個々の幹部に腹を立てるだけであった。

1945年4月、副官のギュンター・カラッシオラ=デルブロークドイツ語版から、ルプレヒト・ガーングロス英語版率いる反乱組織バイエルン自由運動ドイツ語版への参加を求められる。エップは反乱に加わり、アメリカ軍の進攻に呼応して非常事態宣言を宣言し行政権を握り、降伏しようとした。しかし、軍部の支持を受けることができず、最終的にエップは計画から離脱するが、4月27日にバイエルン州首相パウル・ギースラー率いる親衛隊に逮捕されてザルツブルクに連行され、カラッシオラ=デルブロークら首謀者40人は翌28日に処刑された[14]

死去[編集]

ドイツ敗戦後、心臓病の治療のためバート・ナウハイムに移送されたが、5月9日に病院職員の密告によりアメリカ軍に逮捕され、戦争犯罪者としてモンドルフ=レ=バン英語版アシュカン収容所に収容された[15]。裁判のためニュルンベルクまで移送する予定だったが、健康状態が悪化したためミュンヘンの病院に移送され、1947年12月31日に病院内で78歳で死去した[16]。死後、遺体はミュンヘン・ヴァルトフリードホフドイツ語版に埋葬され、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンにあったドイツ陸軍のフォン・エップ将軍兵舎は国家社会主義と軍国主義への批判の観点から「砲兵兵舎」と改名された。

参考文献[編集]

  • Ein Leben für Deutschland (A life for Germany), Autobiography by Franz Ritter von Epp, Munich, 1939.
  • Wolfgang ZornEpp, Franz Xaver Ritter v. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 4, Duncker & Humblot, Berlin 1959, ISBN 3-428-00185-0, S. 547 f. (電子テキスト版).
  • Katja-Maria Wächter: Die Macht der Ohnmacht. Leben und Politik des Franz Xaver Ritter von Epp (1868–1946). Lang, Frankfurt am Main u. a. 1999. ISBN 3-631-32814-1 (= Europäische Hochschulschriften. Reihe 3: Geschichte und ihre Hilfswissenschaften. ISSN 0531-7320, 824). (Zugleich: Bonn, Univ., Diss., 1997.)
  • Andres E. Eckl (Hrsg.): S'ist ein übles Land hier: zur Historiographie eines umstrittenen Kolonialkrieges. Tagebuchaufzeichnungen aus dem Herero-Krieg in Deutsch-Südwestafrika 1904 von Georg Hillebrecht und Franz Ritter von Epp. Köppe, Köln 2005, ISBN 978-3-89645-361-7.
  • Bernhard Grau: Steigbügelhalter des NS-Staates. Franz Xaver Ritter von Epp und die Zeit des Dritten Reiches. In Marita Krauss: Rechte Karrieren in München. Von der Weimarer Zeit bis in die Nachkriegsjahre. Volk Verlag, München 2010, ISBN 978-3-937200-53-8.

外部リンク[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現役軍人としての最終階級は陸軍中将。

出典[編集]

  1. ^ Othmar Hackl: Die Bayerische Kriegsakademie (1867–1914). C. H. Beck’sche Verlagsbuchhandlung, München 1989, ISBN 3-406-10490-8, S. 430.
  2. ^ Genocide and Gross Human Rights Violations google book review, 著者: Kurt Jonassohn, Karin Solveig Björnson, 出版: Transaction Publishers
  3. ^ Eugene Davidson, The unmaking of Adolf Hitler, Google book review, publisher: University of Missouri Press
  4. ^ Wächter: Die Macht der Ohnmacht. 1999, S. 97.
  5. ^ Wächter: Die Macht der Ohnmacht. 1999, S. 116.
  6. ^ Wächter: Die Macht der Ohnmacht. 1999, S. 128.
  7. ^ Wächter: Die Macht der Ohnmacht. 1999, S. 118.
  8. ^ Reichstagshandbuch.
  9. ^ Reichstagsrede vom 22. Mai 1930.
  10. ^ Jahrbuch der Akademie für Deutsches Recht, 1. Jahrgang 1933/34. Hrsg. von Hans Frank. (München, Berlin, Leipzig: Schweitzer Verlag), S. 253
  11. ^ Elisabeth Chowaniec: Der „Fall Dohnanyi“ 1943–1945. Widerstand, Militärjustiz, SS-Willkür. München 1991, S. 559.
  12. ^ Reinhard Stumpf: Die Wehrmacht-Elite. Harald Boldt Verlag, Boppard am Rhein 1982, ISBN 3-7646-1815-9, S. 149.
  13. ^ Wächter: Die Macht der Ohnmacht. 1999, S. 230.
  14. ^ Universitätsbibliothek Regensburg – Bosls bayrische Biographie – Franz Ritter von Epp Archived 2007年6月10日, at the Wayback Machine., author: Karl Bosl, publisher: Pustet, pp. 179–180 (ドイツ語)
  15. ^ Larry Myers, Hey Nazis, I'm Coming for You: Memories of Counter Intelligence Corps Activities in World War II, Gainsway Press, Fullerton, CA 2004; pp. 329-333.
  16. ^ motlc.learningcenter.wiesenthal.org”. 2007年8月24日閲覧。