フランシス・ブーシェ

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フランシス・ブーシェFrancis Bouchet)は、フランス映画監督テレビプロデューサーである。モーリス・シェレール(のちのエリック・ロメール)、ジャック・リヴェットとともに『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』誌を創刊したことで知られるヌーヴェルヴァーグの映画作家である。

来歴・人物[編集]

1948年前後から、当時20代のリセ教師だったモーリス・シェレールが主宰するシネクラブである「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」に参加し始める。同クラブには当時まだ10代だったジャン=リュック・ゴダールリスボンからソルボンヌに留学していたシェレールと同世代のエルネスト・ド・スーザらがいた。1949年7月29日 - 8月5日ジャン・コクトーを会長としアンドレ・バザンらが主宰したシネクラブ「オブジェクティフ49」が開催した「呪われた映画祭」に同シネクラブのメンバーも参加、フランソワ・トリュフォーと出会う。1950年5月、同クラブが発行していた機関誌の改変を主導、批評誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』としてロメール、リヴェットとともに創刊する[1]。同誌にはゴダールがハンス・リュカス名義で記事を書いていた。同誌は11月には廃刊して、バザンらによる『カイエ・デュ・シネマ』創刊に合流する。

1950年代後半から、ロメール、リヴェット、ゴダール同様に映画製作の現場に入っていく[2]。1958年、劇作家のレイモン・ヴォジェルがドキュメンタリー作家クリス・マルケルとともに撮ったドキュメンタリー『Le Siècle a soif(世紀は渇いている)』に、助監督として参加している[3]

1961年に監督した『Fleurs de feu(火の花)』は、ブーシェによる最初の本格的短篇映画のひとつであり、ジャック・ラカリエールの小説を原作にミシェル・サンドレに音楽を依頼した[4]。1963年には短篇『Liberté de la nuit(夜の自由)』を撮り[5]、翌1964年には『Le Temps d'une nuit(ある夜の時間)』を撮る。『ある夜の時間』の撮影は、4年後にボリス・ヴィアン原作の映画『うたかたの日々』(1968年)の撮影監督となったジャン=ジャック・ロシュがつとめており、出演に俳優のジェラール・ダリュー、歌手のコレット・マニーの名が見られ、音楽にジャズサックス奏者ギイ・ラフィット、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)のスコアを書いたジャズピアニストマルシャル・ソラルを起用している。

1970年代からはテレビドキュメンタリーの世界に入っていく。レジスタンス運動に参加した女性の民族学者ジェルメーヌ・ティヨンに取材したドキュメンタリー『Un certain regard: Germaine Tillion』を演出したり(1974年9月14日放映)、ジュール・ヴェルヌに関して取材した30分のドキュメンタリー『Les Voyages de Monsieur Verne』を演出している(シリーズ『Fenetre sur』、1978年10月12日放映)。また『6x2』(1976年)で数学者ルネ・トムへのインタビューを行ったゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィル同様に、テレビドキュメンタリー『René Thom ou la théorie des catastrophes(ルネ・トムあるいはカタストロフ理論)』の演出もしている。

その後、1980年代には少なくともテレビプロデューサーとしての活動を行っていたようだが、エリック・ロメールの述懐にその名が登場する以外は、フランシス・ブーシェの名を思い出されることは少なく、資料も断片的である。日本で公開された作品は、編集技師をつとめたジョゼ・ベナゼラフ監督の『湖のもだえ』のみである。ヌーヴェルヴァーグ前夜、そして初期を彩る知られざる固有名詞である。

フィルモグラフィ[編集]

関連事項[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ジャン・ナルボニによるロメールへのインタビュー(Le goût de la beauté1983年、再版ポケット版 ISBN 2080815113、邦訳『美の味わい』、梅本洋一武田潔訳、勁草書房1988年 ISBN 4326800224)を参考にした。Rohmer interview(英語)で読むことができる。
  2. ^ ロメール、リヴェット、ゴダール同様に習作短篇を撮ったという資料は現状見当たらない。
  3. ^ BiFiのLe Siècle a soifに確認できる。
  4. ^ Michel Sendrezに確認できる。
  5. ^ BiFiのAntoine Duhamelのフィルモグラフィに確認できる。

外部リンク[編集]