フランクフルト大公国

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フランクフルト大公国
ドイツ語: Großherzogtum Frankfurt
フランス語: Grand-duché de Francfort
フランス第一帝政従属国
1810年–1813年
国旗 国章
フランクフルトの位置
1812年時点のフランクフルト大公国。
首都 アシャッフェンブルク
政府 専制君主制
大公
 •  1810年 - 1813年 カール・テオドール・フォン・ダールベルク
 •  1813年 ウジェーヌ・ド・ボアルネ
歴史・時代 ナポレオン戦争
 •  創立 1810年2月16日
 •  解体 1813年12月
面積
 •  1810 5,173 km² (1,997 sq mi)
人口
 •  1810年推定 302,100人
     密度 58.4人/km²  (151.3人/sq mi)
前身
後継
自由都市フランクフルト
アシャッフェンブルク侯国
ナッサウ=オラニエ=フルダ侯領
ハーナウ伯領
ヴェッツラー伯領
自由都市フランクフルト
バイエルン王国
ヘッセン大公国
ヘッセン選帝侯領
プロイセン王国
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国

フランクフルト大公国(フランクフルトたいこうこく、ドイツ語: Großherzogtum Frankfurt)は、1810年から1813年の間に、現在のドイツに存在した王国である。マインツ大司教領英語版自由都市フランクフルト英語版を合わせて成立したナポレオンの衛星国であった。

歴史[編集]

1813年のオーストリア軍とバイエルン=フランス連合軍によるフランクフルト橋での戦闘。作者不明、フランクフルト歴史博物館英語版所蔵。

フランクフルト市は1806年の神聖ローマ帝国解散にともなって、帝国自由都市としての地位を失った。フランクフルト市は前マインツ大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクに与えられ、フランクフルト大公国となった。

1810年、ダールベルクがレーゲンスブルク侯国をバイエルン王国に割譲することを余儀なくされると、彼は残りの領土のアシャッフェンブルクヴェッツラーフルダ英語版ハーナウ英語版、フランクフルトを新しいフランクフルト大公国に統合した。

フランクフルト大公国と称されたもののダールベルクはアシャッフェンブルクに残り、領土はフランスの弁務官によって支配された。また、憲法によって大公国は、ダールベルクの死後はナポレオンの養子、ウジェーヌ・ド・ボアルネが継承することが決められた。

ナポレオンのライプツィヒでの敗戦を受けて、ダールベルクは1813年10月26日に退位してウジェーヌに譲位した。同年12月、反仏同盟軍の攻撃により大公国が消滅、占領されたフランクフルト市は自由都市に復し、大公国の大半はバイエルン王国に併合された。

脚注[編集]