フェルディナント2世 (オーストリア大公)

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フェルディナント2世
Ferdinand II.
オーストリア大公
在位 1564年 - 1595年

出生 (1529-11-13) 1529年11月13日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリアの旗 オーストリア大公国リンツ
死去 (1595-07-15) 1595年7月15日(65歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリアの旗 オーストリア大公国インスブルック
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリアの旗 オーストリア大公国インスブルック
配偶者 フィリッピーネ・ヴェルザー
  アンナ・カテリーナ・ゴンザーガ
子女 一覧参照
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝フェルディナント1世
母親 アンナ・ヤギエロ
役職 ボヘミア総督
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フェルディナント大公
フェルディナント大公

フェルディナント2世・フォン・エスターライヒ(Ferdinand II. von Österreich, 1529年6月14日 - 1595年1月24日)は、オーストリア大公(前方オーストリア(Vorderösterreich)大公)。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世と皇后アンナ・ヤギエロの次男(第3子)として、リンツで生まれた。皇帝マクシミリアン2世の弟である。

生涯[編集]

1547年から父に命じられボヘミアの統治者になり、1556年ハンガリーにおける対オスマン帝国戦を指揮した。

1557年、フェルディナントは秘密裡にアウクスブルクの豪商ヴェルザー家出身のフィリッピーネ・ヴェルザーと結婚した[1]。この際、ヴェルザー家は男爵位を賜り貴族に列せられたが、皇族と結婚できるほど身分は高くなく、貴賎結婚であったため、フェルディナント1世以外には結婚を伏せることでようやく許されたものだった[2]。フィリッピーネとの間に生まれた子供たちは“フォン・エスターライヒ”と名乗ることは許されたものの、帝位継承権は認められず、男子についてのみブルガウ辺境伯の称号を授けられた。

1564年のフェルディナント1世の死後、父の望み通りチロル伯となった。しかし、兄マクシミリアンの要請もあり、1567年までプラハでボヘミア総督を務めた。

1580年にフィリッピーネに先立たれると、1582年に姪にあたるアンナ・カテリーナ・ゴンザーガマントヴァグリエルモ・ゴンザーガと、フェルディナントの妹エレオノーレの娘)と再婚。アンナ・カテリーナとの間には男子が生まれなかったため、チロルはフェルディナントの死後に甥である神聖ローマ皇帝Matthiasに継承された。アンナ・カテリーナの生んだ娘アンナが皇帝マティアスの皇后となると、チロルはマティアスに継承された。

子女[編集]

フィリッピーネとの間には4子が生まれた。

  • アンドレアス(1558年 - 1600年) - 枢機卿
  • カール(1560年 - 1627年) - ブルガウ辺境伯
  • フィリップ(1562年 - 1563年)
  • マリア(1562年 - 1563年)

アンナ・カテリーナとの間には3子が生まれた。

  • アンナ・エレオノーレ(1583年 - 1584年)
  • マリア(1584年 - 1649年) - 尼僧
  • アンナ(1585年 - 1618年) - 皇帝マティアスの皇后

他に2人の庶子がいた。

  • フェロニカ・フォン・フィランデルス(1551年 - 1584年) - 母親不明。ジョヴァンニ・フランチェスコ・ディ・ゴンザーガの妻
  • ハンス・クリストフ・フォン・ヘルテンベルク(1592年 - 1613年) - ヨハンナ・フォン・マイエンブルクとの子。

脚註[編集]

  1. ^ グレーシング、p. 116
  2. ^ グレーシング、p. 121

参考文献[編集]

  • ジクリト=マリア・グレーシング 『ハプスブルク 愛の物語 王冠に勝る恋』 東洋書林、1999年

関連項目[編集]

  • アンブラス城 - フェルディナント2世の居城で、愛妻フィリッピーネ・ヴェルザーに送るためにルネサンス建築に改装された。
  • 好古家 - アンブラス城には、フェルディナント2世の趣味である古美術・古道具・変わった物品が収集され、そういった物のコレクターとして知られた。
爵位・家督
先代
フェルディナント1世
前方オーストリア大公
1564年 - 1595年
次代
ルドルフ5世
爵位・家督
先代
フェルディナント1世
チロル伯
1564年 - 1595年
次代
ルドルフ2世