フェデリコ・ツッカリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェデリコ・ツッカリ
フェーデ・ガリツィアによる肖像画(1604)
誕生日 1542年/1543年
出生地 サンタンジェロ・イン・ヴァード
死没年 1609年7月20日
死没地 アンコーナ
テンプレートを表示

フェデリコ・ツッカリ: Federico Zuccari, 1542年/1543年頃 - 1609年7月20日)またはフェデリーゴ・ズッカロ: Federigo Zuccaro)、ズッケリ: Zuccheri)は、イタリアマニエリスム画家建築家。イタリア国内外で活動した。

生涯[編集]

フェデリーコ・ツッカリは、1569年に画家オッタヴィアーノ・デ・ツッカレッリスとアントニア・ネーリの第8子、三男としてウルビーノ公国のサンタンジェロ・イン・ヴァード(現マルケ州)に誕生した(兄弟は以下の通り:タッデーオ、バルトロメア、フェデリーコ、ヤコポ、ルーチョ、マウリツィオ、アロイシオ、マルコ・アントニオ)。

彼の画業は1550年、ローマで既に画家として成功を収めていた居た13歳年上の兄タッデオの工房に入った時に始まる。父親が息子を法学の道に進ませようと考え、長男のいるローマへ連れ出したことがきっかけだった。兄タッデーオは、弟の絵画、素描への卓越した才能に気が付き、彼を工房に入れ芸術的訓練を受けさせることにしたのである。 1565年10月14日、フィレンツェのアカデミア・デル・ディゼーニョに登録し、続いて、タッデーオが1560年11月17日に既に会員となっていたテッラサンタのサン・ジョヴァンニ組合に加入した。 兄の助手としてフェデリーコが行った最初期の仕事は、ローマ教皇ピウス4世の小邸宅の装飾およびパラッツォ・ファルネーゼの装飾であった。 その他、画業の初期に帰せられる作品は以下の通りである。

フェデリーコはミケランジェロによって開始されたバチカンのパオリーナ礼拝堂装飾(en:Cappella Paolina)を完成させるために、またキアロスクーリの間のフレスコ画装飾を修繕するために、ローマ教皇グレゴリウス13世によりローマへ招聘された。その後、ブリュッセルを訪問し、タペストリー織工のための実物大下絵の連作を制作した。1574年には、イングランドに渡り、イングランド女王エリザベス1世スコットランド女王メアリー、ニコラス・ベーコン卿(en:Nicholas Bacon)、フランシス・ウォルシンガム卿(en:Francis Walsingham)、ノッティンガム伯チャールズ・ハワード1世(en:Charles Howard, 1st Earl of Nottingham)らの肖像画制作の依頼を受けた。 この時期の重要な作品として、ルキアノスによるアペレスの記述に想を得た《誹謗の寓意》が挙げられる。

その後、《二匹の犬と男》(フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)、《天使たちと死せるキリスト》(フィレンツェ、ボルゲーゼ美術館所蔵)を制作した。1585年に、フェデリーコはスペイン王フェリペ2世から、年2000クラウンの報酬で、完成したばかりのエル・エスコリアル修道院の装飾の仕事を依頼された。フェデリーコは1586年1月からローマに帰還する1588年末までそこで働いたが、ツッカリの描いた絵は(ツッカリの前に仕事をしていたエル・グレコのもの同様)フェリペ2世に気に入られず、多くは塗り直された。とはいえ、別れは平和的だった。「我々は彼ではなく、彼を我々の元に送った人々を非難すべきである」とフェリペ2世は言った[1]。ツッカリの後を引き継いだのはペッレグリーノ・ティバルディ(Pellegrino Tibaldi)だった。 1595年、ツッカリはローマ教皇シクストゥス5世承認の設立勅許状を得て、アカデミア・ディ・サン・ルカを設立し、その初代校長になった。バルトロメーオ・カルドゥッチ(Bartolomeo Carducci)はツッカリの教え子だったと言われている。

フィレンツェでフェデリーコは元アンドレア・デル・サルトの家で過ごし、その隣に彼の発案による風変わりな建物を建設した。その内部を日常風景を表すルネッタ装飾で飾り、自画像と家族を描きこんでいる。

ジョルジョ・ヴァザーリ、ツッカリ、パッシニャーノ《最後の審判》の細部

親戚で、トスカーナ宮廷で一目置かれていたフィオラヴァンティ・ディ・グッファイアの伝手により、ヴァザーリの死により未完のままとなっていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラのフレスコ画を完成させる仕事を獲得し、助手パッシニャーノと共に完成した。

フェデリーコは、ジローラモ・ジェンガの娘フランチェスカ・ジェンガとウルビーノにて結婚し、7人の子供をもうけた。

同時代人ジョルジョ・ヴァザーリと同様に、ツッカリは美術評論および美術史編纂に尽力した。1604年にはパヴィーアで『 アカデミア・デル・ディゼーニョの起源と進歩。ローマ出身の画家・彫刻家・建築家について(Origine et Progresso dell'Academia del Dissegno, De Pittori, Scultori e Architetti di Roma)』、1605年にはマントヴァで『素描・絵画・彫刻・建築の愛好家への書簡(Lettera a Principi et Signori Amatori del Dissegno, Pittura, Scultura et Architettura, scritta dal Cavaglier Federico Zuccaro, nell'Accademia Insensata con un lamento della Pittura, opera dell'istesso)』、1607年にはトリノにて彼の主著とされる 『画家・彫刻家・建築家のイデア(l'Idea dé Pittori, Scultori et Architetti)』が出版された。さらにイタリアを始めとするヨーロッパ諸国への旅行記も記している。1608年の『Passaggio per l'Italia con la dimora di Parma』と『Passata per Bologna e Ferrar』は著名である。

アカデミー重視で反自然主義の画家フェデリーコは、カラヴァッジョの絵画を見苦しいものとして受け付けなかった。

1585年から1588年にかけてスペイン王フェリペ2世の宮廷画家となったフェデリーコは、1588年、フェリペ2世から貴族の称号と高額の年金を受けとった。

1591年にイタリアに帰還したツッカリは、死の直前にカヴァリエーレ(騎士)の称号を獲得し、1609年7月20日、アンコーナにて70歳で病死した。

脚注[編集]

  1. ^ Trevor-Roper, Hugh; Princes and Artists, Patronage and Ideology at Four Habsburg Courts 1517-1633, Thames & Hudson, London, 1976, p 69

参考文献[編集]

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Zuccaro". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press.
  • Freedberg, Sydney J. (1993). in Pelican History of Art: Painting in Italy, 1500-1600, Penguin Books Ltd.

外部リンク[編集]