フアン・パブロ・ソリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フアン・パブロ・ソリン
名前
愛称 Juampi (フアンピ)
ラテン文字 Juan Pabro SORÍN
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1976-05-05) 1976年5月5日(47歳)
出身地 ブエノスアイレス
身長 173cm
体重 65kg
選手情報
ポジション DF / MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-1995 アルゼンチンの旗 アルヘンティノス 20 (1)
1995-1996 イタリアの旗 ユヴェントス 2 (0)
1996-2001 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 78 (11)
2001-2004 ブラジルの旗 クルゼイロ 41 (6)
2002-2003 イタリアの旗 ラツィオ (loan) 6 (0)
2002-2003 スペインの旗 バルセロナ (loan) 15 (1)
2003-2004 フランスの旗 パリ・サンジェルマン (loan) 21 (1)
2004-2006 スペインの旗 ビジャレアル 41 (7)
2006-2008 ドイツの旗 ハンブルガーSV 24 (4)
2008-2009 ブラジルの旗 クルゼイロ 1 (0)
通算 249 (31)
代表歴
1995 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 6 (0)
1995-2006 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 76 (12)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
フアン・パブロ・ソリン

フアン・パブロ・ソリン(Juan Pablo Sorín, 1976年5月5日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー解説者。ポジションはディフェンダー(左サイドバック)、ミッドフィールダー(左ウイングバック、左ウイング)。2006 FIFAワールドカップではアルゼンチン代表のキャプテンを務めた。ユダヤ人である[1]

経歴[編集]

クラブ[編集]

ブエノスアイレスに生まれ、下部リーグに属していたAAアルヘンティノス・ジュニアーズから1994年にデビューした。1995年夏にはイタリア・セリエAユヴェントスFCに移籍したが、当時リーグの外国人選手の出場枠が3人まで(パウロ・ソウザディディエ・デシャンヴラディミル・ユーゴヴィッチが在籍)であったこともあり、ベンチ入りすら出来ない試合も多く、2試合の僅かな時間出場したのみで、シーズン前半終了時にはアルゼンチンに復帰した。

CAリーベル・プレート[編集]

1996年からCAリーベル・プレートに移籍すると、エンソ・フランチェスコリアリエル・オルテガエルナン・クレスポなどのスター選手と顔を合わせ、プリメーラ・ディビシオン前期リーグで3度 (1996・1997・1999) 、後期リーグで1度 (1997) 、コパ・リベルタドーレスで1度 (1996) 、スーペルコパ・スダメリカーナで1度 (1997) の優勝を果たした。1996年にインターコンチネンタルカップでは古巣ユヴェントスFCと対戦したが、0-1で敗れた。

クルゼイロEC[編集]

2000年にブラジル・セリエA(1部)のクルゼイロECに移籍した。2シーズン半の間プレーし、2000年にコパ・ド・ブラジルを制した。2002年7月、コパ・ド・ブラジル終了後にイタリアのSSラツィオにレンタル移籍した。怪我のために半年間でわずかな試合にしか出場できず、2003年1月31日、負傷離脱したDFフェルナンド・ナバーロの代役としてスペイン・リーガ・エスパニョーラFCバルセロナにレンタル移籍した。フアン・ロマン・リケルメロベルト・ボナーノとともにEU圏外枠の3つを占めた。2月9日にカンプ・ノウで行われたアスレティック・ビルバオ戦 (2-2) でデビューし、2002-03シーズン後半戦だけで15試合に出場する順調なシーズンを送ったが、SSラツィオでUEFAカップに出場していたためにFCバルセロナでは欧州カップ戦に出場していない。移籍金が高額であったことや、EU圏外枠であったことなどが災いして、FCバルセロナへの完全移籍は実現しなかった。2003年夏、パリ・サンジェルマンFCにレンタル移籍し、クープ・ドゥ・フランスで優勝した。2004年にはクルゼイロECに復帰し、セリエAで戦った。クルゼイロECでは今日でも最も人気のある選手のひとりである。

ビジャレアルCF[編集]

2004年11月、スペインのビジャレアルCFに移籍した[2][3]。契約満了による移籍のため移籍金は発生していない。2004-05シーズンはリーグ戦でクラブの過去最高位である3位に躍進し、2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは快進撃を続け、アーセナルFCに敗れたものの準決勝に到達した。

ハンブルガーSV[編集]

2006年夏にはイングランドのポーツマスFCボルトン・ワンダラーズFCニューカッスル・ユナイテッドFCなどが獲得に興味を示したが、ドイツ・ブンデスリーガハンブルガーSVに移籍した[4]。度重なる負傷のために2シーズンで24試合にしか出場できず、2008年7月15日に契約が解除された[5]。契約は1年残っていたが、クラブ側が補償金を支払って契約解消に至っている。

クルゼイロEC復帰[編集]

2008年8月29日、シーズン終了後までの契約(2年の契約延長オプション付き)でクルゼイロECに復帰した[6]。2009年春には長女が誕生した。しかし、負傷続きでわずか1試合にしか出場できず、2009年7月28日に現役引退を発表した[7]

代表[編集]

1995年、U-20アルゼンチン代表のキャプテンとしてカタールで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場し、優勝を果たした。

1995年2月14日、ブルガリアとの親善試合でアルゼンチンA代表デビューした。1998 FIFAワールドカップ・南米予選では中心選手のひとりだったが、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップ本大会の出場メンバーからは外れた。2002年には日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップに出場し[8]ナイジェリアイングランドスウェーデンとのグループリーグ3試合に出場したが、グループリーグ敗退に終わった。

2002年11月20日に行われた日本との親善試合では先制点を挙げて勝利に貢献した。2004年7月にはペルーで開催されたコパ・アメリカ2004に出場し、準決勝のコロンビア戦 (3-0) では駄目押しとなる3点目を決めて決勝進出に貢献した。決勝のブラジル戦は延長・PK戦にもつれ込み、ソリンは4番手のキッカーとしてPKを決めたが、アンドレス・ダレッサンドロガブリエル・エインセが失敗したために優勝を逃した。

2005年にはホセ・ペケルマン監督に代表キャプテンに指名され、2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは攻撃的なディフェンダーとして4試合に出場した。コートジボワールセルビアを破って決勝トーナメントに進出、決勝トーナメント1回戦は延長戦の末にメキシコに勝利したが、準々決勝でホスト国のドイツにPK戦の末に敗れた。メキシコ戦では、マキシ・ロドリゲスにサイドチェンジのパスを送り、大会ベストゴールに選出されたボレーシュートをアシストした。2006 FIFAワールドカップ後は代表から遠ざかった。

現役引退後[編集]

クルゼイロECで現役引退後、そのままブラジルに定住。現在はポルト・アレグレに居住し、ESPNブラジルなどでサッカー解説、番組プロデュース業などで活躍している[9]

プレースタイル[編集]

長髪と豊富な運動量が武器である[10]。左サイドバック、左ウイングバック、左インサイドハーフなど左サイド全般でプレーできる。

エピソード[編集]

ガブリエル・ガルシア=マルケスヘルマン・ヘッセの小説を愛読する読書家であり、インタビューではたびたび文学についての知的な受け答えをする。自身のラジオ番組でアルゼンチンの社会情勢、経済情勢についての鋭い指摘をすることもある[11]。お気に入りのバンドはローリング・ストーンズである。

女優のソル夫人と、地方での学校設立や病院の改築資金を集める活動をしている[12][13]

個人成績[編集]

代表での年別出場試合数[編集]


アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1995 3 0
1996 2 1
1997 2 0
1998 0 0
1999 10 2
2000 7 0
2001 8 2
2002 7 2
2003 3 0
2004 14 3
2005 14 0
2006 5 1
通算 75 11

脚注[編集]

  1. ^ “Germany-Argentina: Fun Facts to Know and Tell”. New York Times. (2006年6月29日). http://worldcup.blogs.nytimes.com/2006/06/29/germany-argentina-fun-facts-to-know-and-tell/ 2010年5月7日閲覧。 
  2. ^ “Sorín signing bolsters Villarreal”. UEFA.com. (2004年11月4日). http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=254685.html 2010年1月27日閲覧。 
  3. ^ ビジャレアル、ソリンを補強”. UEFA.com (2004年11月4日). 2009年7月11日閲覧。
  4. ^ “Germans snap up Sorin”. Sky Sports. (2006年8月30日). http://home.skysports.com/transferarticle.aspx?hlid=413231 2006年8月31日閲覧。 [リンク切れ]
  5. ^ “Sorin leaves Hamburg”. Sky Sports. (2008年7月15日). http://www.skysports.com/story/0,19528,11896_3821506,00.html 2008年7月15日閲覧。 
  6. ^ “Cruzeiro acerta retorno do argentino Sorín” (Portuguese). Estadão. (2008年8月29日). http://www.estadao.com.br/esportes/not_esp233088,0.htm 2008年8月29日閲覧。 
  7. ^ “Argentino Sorín anuncia a sua aposentadoria” (Portuguese). Lance!. (2008年7月28日). オリジナルの2010年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100630123859/http://www.lancenet.com.br/noticias/09-07-26/588657.stm 2008年7月28日閲覧。 
  8. ^ Früherer HSV-Fußballer Sorin beendet Karriere” (German). transfermarkt.de (2009年7月29日). 2009年7月29日閲覧。
  9. ^ Footballista (2018年5月29日). “アルゼンチン代表OBソリンが占う メッシ×サンパオリ戦術の行方”. 2018年5月29日閲覧。
  10. ^ スポニチ ワールドサッカープラス (2006年6月30日). “野生派主将ソリン 瞳の奥に秘める情熱と知性”. 2009年8月1日閲覧。
  11. ^ スポニチ ワールドサッカープラス (2006年6月30日). “野生派主将ソリン 瞳の奥に秘める情熱と知性”. 2009年8月1日閲覧。
  12. ^ footballist、ソルメディア、2009年7月29日-8月5日合併号
  13. ^ “Jews In Sports: Sorin, Juan Pablo”. Jews In Sports. http://www.jewsinsports.org/profile.asp?sport=soccer&ID=77 

外部リンク[編集]