ヒトラー内閣

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1933年1月30日のヒトラー内閣の閣僚。前列左からゲーリング無任所大臣、ヒトラー首相、パーペン副首相。後列左からクロージク財務大臣、フリック内務大臣、ブロンベルク国防大臣、フーゲンベルク経済・農業食糧大臣

ヒトラー内閣(ヒトラーないかく)は、アドルフ・ヒトラー首相とするドイツ内閣。1933年1月30日に成立し、1945年4月30日のアドルフ・ヒトラーの死まで存続した。

概要

ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク1933年1月30日、ヒトラーをヴァイマル憲法下における第15代首相に任命した。この発足時点のヒトラー内閣は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と保守派・貴族の連立内閣であった。ナチ党から入閣したのは首相ヒトラー、内務大臣ヴィルヘルム・フリック、無任所大臣ヘルマン・ゲーリングの3人のみであり、施政一般に対して、副首相フランツ・フォン・パーペンの承認がなければ大統領はこれを裁可しないとの条件が付されていた。パーペンは「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語り[1]、内閣の実権を握るつもりでいた。当時の内閣は合議制であり、首相に突出した実権が与えられていたわけではなかった。さらに、ゲーリングは閣僚とはいっても無任所大臣にしかすぎなかったし、フリックは内務大臣とはいっても全国的な警察の指揮権限を持たない(連邦制を採っていたヴァイマル体制下のドイツでは、各州に独自の警察が置かれていた)という弱体ぶりであった。

ところが、パーペンは国の最重要地域であったプロイセン州(国土と人口の過半を占めるとともに首都ベルリンをその域内に収めていた)を掌握するため、自ら同州首相に就任した。この時、ヒトラーはさすがに勘所を外さず、パーペンに要求してゲーリングをプロイセン州内務大臣に就任させることに成功する。プロイセン州内務省は同州の警察を所管していたから、中央政府においては無任所大臣にすぎなかったゲーリングが国の過半と首都におよぶ警察組織の指揮権を手に入れたのである。ゲーリングはこの権限を行使してプロイセン州警察首脳部をナチ党員に入れ替え、権力基盤を確固たるものとしていった。

さらにヒトラーは、即座に国会を解散し、2月の国会議事堂放火事件後の大統領緊急令による野党の弾圧、3月の総選挙後の全権委任法成立等を通じて次第に独裁権力を掌握し、4月ごろには「内閣の中で指導者(ヒトラー)の権威が完全に確立されるに至った。もはや表決が行われる事はない。指導者が決定を下すのだ。」とゲッベルスが日記に記すほどになった[2]。以降、非ナチ党員の閣僚は辞職するか実権を失ったし、閣議すら開かれることがなくなっていった。たとえば、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクは1933年から1945年まで財務大臣を勤めたが、最後にヒトラーと面会したのは1942年であった。1933年3月にゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣として入閣したことを皮切りとして、閣僚はヒトラーに忠実なナチ党員やヒトラーの信任を得た人物に入れ替えられていった。

ナチ党の権力掌握(マハトエアグライフング)を通じて、ナチ党とドイツ国家は一体化が進められた。その結果、ナチ党の有力者で内閣の大臣を兼ねた者は強大な政治的権限をふるった(国民啓蒙・宣伝大臣ゲッベルス、航空大臣ゲーリング、等)。中には、ナチ党組織を権力基盤としつつ、類似分野を担当する政府機関と権力闘争をくりひろげ、ついには後者を圧倒して閣僚職を手中に納めた者(親衛隊全国指導者で内務大臣を兼任することとなったヒムラー、ドイツ労働戦線指導者で無任所大臣を兼任することとなったライ、等)もいる。一方、閣僚であっても、ナチ党に基盤を持たない者は政治的実権を持たず、その大臣号も名誉職や事務担当者に過ぎないものとなった(財務大臣シュヴェリン・フォン・クロージク、労働大臣ゼルテ、等)。ただし、ナチ党に確固たる基盤を持たない者であっても、最高指導者ヒトラーの信頼を受けてさえいれば、その度合いに比例して強大な権力をふるうことができた(経済大臣時代のシャハト、軍需大臣シュペーア、外務大臣リッベントロップ、等)。ナチ党の幹部ではあってもヒトラーからの信任が薄い者は、閣僚としての権限は充分ではなかった(東部占領地域大臣ローゼンベルク、等)。

発足時のヒトラー内閣

ヒトラー内閣歴代閣僚

首相
副首相
外務大臣
内務大臣
財務大臣
司法大臣
国防大臣(1935年6月23日-1938年2月5日)
国防軍最高司令部総長(1938年新設)[3]
経済大臣
労働大臣
  • フランツ・ゼルテ(1933-45、鉄兜団→ナチ党)
運輸大臣
  • パウル・フライヘア・フォン・エルツ・リューベナッハ(1933年 - 1937年、男爵、郵政大臣兼任)
  • ユリウス・ドルプミュラー(1937年 - 1945年、ナチ党)
郵政大臣
農業食糧大臣
農政大臣(1936年 - 1942年)
食糧大臣(1944年 - 1945年)
国民啓蒙・宣伝大臣(1933年3月13日新設)
航空大臣(1933年5月5日新設)
  • ヘルマン・ゲーリング(1933年 - 1945年、ナチ党、空軍総司令官・国家元帥
科学・教育・国民文化大臣(de:Reichsministerium für Wissenschaft, Erziehung und Volksbildung)(1934年5月1日新設)
宗教大臣(de:Reichsministerium für die Kirchlichen Angelegenheiten)(1935年7月16日新設)
軍需大臣
兵器・弾薬大臣(1940年3月17日-1943年)
軍需・軍事生産大臣(1943年-1945年)
東部占領地域大臣(de:Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete)(1941年12月17日新設)
無任所大臣
国務相

上述の大臣は「Reichsminister」(大臣、相、国家大臣、帝国大臣、国大臣、ライヒ大臣などと訳される)と呼ばれる上級の大臣職であった。ドイツ政府にはこのほかに、イギリスの閣外相に相当する下位の大臣職が存在し、「Staatsminister」(国務大臣、国務相などと訳される)と呼ばれていた。この地位にあったことが確認されるのは下記の2名である。ただし彼らは「Staatsminister im Rang eines Reichsministers」つまり閣僚待遇の国務相と位置づけられていた。

閣僚待遇国務相、ベーメン・メーレン保護領担当(1943年8月20日新設)
閣僚待遇国務相、指導者兼首相の大統領官房長(Chef der Präsidialkanzlei des Führers und Reichskanzlers)

ヒトラーの遺書による内閣

1945年、ヒトラーは自殺に先立って遺書をしたため、自らの後継者としてデーニッツ海軍元帥を大統領に任命するとともに、デーニッツが率いるべき政府の閣僚をすべて指名した。ただし、こうした内容を盛り込んだヒトラーの遺書は3通作られて総統地下壕から外部(デーニッツ宛、中央軍集団司令官フェルディナント・シェルナー元帥宛、ミュンヘンのナチ党文書館宛)に送られたものの、いずれも移送中に隠匿されてしまい、全文が知られるには終戦後の調査を待たなければならなかった。したがって、この遺書の中で当時に公表され、一応は任命が発効したといえるのは、ベルリンの総統官邸地下壕にいたゲッベルスとナチ党官房長マルティン・ボルマンがデーニッツに電報で知らせた部分、すなわち大統領デーニッツ、首相ゲッベルス、ナチ党担当大臣ボルマン、外務大臣ザイス=インクヴァルトの4名だけであった。さらに、大統領となったデーニッツはヒトラーの遺言による閣僚指名を黙殺し、自らの内閣としてフレンスブルク政府を組織した。

※( )内は任命当時の職

関連項目

  • フレンスブルク政府 - ヒトラーによって後継大統領に指名されたデーニッツが対連合国交渉のためにフレンスブルクで組織した政府。5月23日に連合軍によって解体、閣僚の全員が逮捕された。

参考文献

脚注

  1. ^ エヴァルト・フォン・クライスト=シュメンツィン (en)「Die letzte Möglichkeit」よりの引用、トーランド、124p
  2. ^ 南、指導者-国家-憲法体制における立法(1)、4月22日のゲッベルス日記
  3. ^ 1938年以降、国防大臣を任命せず、国防軍最高司令部を新設して総統ヒトラーが国防軍を直接掌握。国防軍最高司令部総長は国務大臣と同位とされた。