パウル・ハウサー

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パウル・ハウサー親衛隊中将(当時)

パウル・ハウサー(Paul Hausser, 1880年10月7日 - 1972年12月21日)は、ドイツの軍人。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の戦闘部隊武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。最終階級は親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将(SS-Oberstgruppenführer und Generaloberst der Waffen-SS)。柏葉・剣付騎士鉄十字章受章者。

生涯

陸軍軍人

ドイツ帝国領邦プロイセン王国ブランデンブルク州ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに生まれる[1][2][3]。父はプロイセン軍人クルト・ハウサー(Kurt Hausser)少佐[3]。母はその妻アンナ(Anna)(旧姓オット(Otto))。

父と同じくプロイセン軍人の道を進み、1892年にポンメルン地方ケスリン(de)にある士官学校に入学[3]。1896年からベルリンリヒターフェルデ(de)にあるプロイセン王国高級士官学校 (de)へ移り、1899年まで在学した[3][4]

1899年に少尉に任官するとともにプロイセン第155歩兵連隊に入営し、同連隊に1907年まで勤務した[5][2][3][4]。1908年から1911年にかけてプロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学[3][4]。1909年から1912年にかけては海軍で空中観測員も務めている[3][5]。1912年から参謀本部に配属となり、地図部門に勤務した[3][4][5]。1913年10月に参謀大尉に昇進するとともにバイエルン王国皇太子ループレヒトの参謀となる[2]

第一次世界大戦がはじまると第6軍団に配属され、第109歩兵師団の参謀将校となる[2]西部戦線ルーマニアバルト諸国で戦った[1][5]

戦後もヴァイマル共和国軍に残留[1][6]。1921年から1923年まで第2師団参謀を務め、ついで1923年から1925年まで同師団第4連隊第3大隊長となり、さらに1925年から1926年末まで第2軍管区司令部(Wehrkreis-Kommando II)(第2師団)の参謀長となる[3][6]。1927年から1930年まで第10歩兵連隊の連隊長に就任[3][6]。さらに1930年から1932年にかけてはマグデブルクの第4軍管区歩兵指導者(Infanterieführer IV)を務めて、訓練を担当した[6][3][7][8]。1931年2月に少将に昇進した。1932年1月31日に退役するとともに名誉階級中将の階級を贈られた[3][4][9]。陸軍軍人として理想的な出世コースを進んだハウサーであったが、彼の辛辣な言葉は国防軍内に多くの敵を作っていたという[10]

1932年2月に退役軍人から組織される右翼団体鉄兜団に加入した[9]。鉄兜団ではブランデンブルクの地方指導者(Landesführer)を務めた[3][10]

親衛隊

1933年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を獲得すると、鉄兜団は突撃隊に吸収されることになり、1934年3月にハウサーは突撃隊大佐の階級が与えられるとともにブランデンブルクの突撃隊予備部隊の司令官に任命された[3][4][6]

だが、同年6月30日に発生した突撃隊幹部の粛清後、第一次世界大戦で同じ連隊に勤務していた戦友の、パウル・シャルフェ(Paul Scharfe)(後の親衛隊法務本部本部長)から親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーを紹介される。ヒムラーが親衛隊内に武装部隊を育成しようとしていた思惑もあって、1934年11月15日に親衛隊に移籍(隊員番号239,795)。[9][3][6]。 同年12月14日にはライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー親衛隊政治予備隊(SS-Politische Bereitschaft)が統合されて武装親衛隊の前身である親衛隊特務部隊(SS-Verfügungstruppe,略称SS-VT)が編成された[10]。ハウサーはこの編成にあたって中心的役割を果たした[10]。各地の政治予備隊を連隊「ドイッチュラント」(連隊長フェリックス・シュタイナー親衛隊大佐)と連隊「ゲルマニア」(連隊長カール・マリア・デメルフーバー(Karl Maria Demelhuber)親衛隊大佐)の二個連隊に集約した[11]

ブラウンシュヴァイクの親衛隊士官学校(SS-Junkerschule)の創設にも携わり、その初代校長に就任した[6]。さらに1935年8月から1937年5月にかけては二つの親衛隊士官学校の総監に就任した[12]。1936年6月から1937年10月にかけては親衛隊本部第1部の作戦指導部(Führungsamt)の部長に就任した[13][3]。また同年10月1日には親衛隊本部の下に親衛隊特務部隊総監職が新設され、ハウサーが就任した[14][15]。1937年5月1日にナチ党に入党(党員番号4,138,779)[3][16]

こうした地位に基づいてハウサーは親衛隊特務部隊の教育に当たり、「ヒムラーの政治的兵士たち」を実戦に出せるレベルに叩き上げた。ハウサーの活躍が後に精鋭と評される部隊群を生み出したと言える[17]。しかしながら特務部隊総監でありながらハウサーが特務部隊の指揮権を握るのは容易ではなかった。特務部隊の前身である政治予備隊が一般親衛隊親衛隊地区に属していた事もあり、親衛隊地区司令官との間で特務部隊の指揮権の争いが起こった[18]。またライプシュタンダルテ司令官ヨーゼフ・ディートリヒも独自の指揮権を主張してハウサーの指揮権を拒絶していた[18][11]。それでもハウサーが鍛えた特務部隊員とライプシュタンダルテの隊員の練度の差が広がってくるとディートリヒもハウサーに訓練を任せざるを得なくなっていった[19][20]

第二次世界大戦

1943年4月1日、ロシアハリコフ。前線視察に訪れたヒムラー(中央)。ヒムラーの右がハウサー。左はヴァルター・クリューガー

第二次世界大戦が始まり、ポーランド侵攻が開始されると親衛隊特務部隊の「ドイッチュラント」連隊が装甲師団「ケンプフ」(de)(師団長ヴェルナー・ケンプフ少将)に組み込まれた。同師団は主力たる装甲部隊が陸軍の連隊、歩兵部隊が特務部隊の「ドイッチュラント」連隊で構成される陸軍と親衛隊特務部隊の混合師団だった。ハウサーはポーランド戦中、師団「ケンプフ」において陸軍部隊と特務部隊の連絡役を務めていた[21]

ポーランド戦後、親衛隊特務部隊は武装親衛隊と名称を変え[22]、ライプシュタンダルテを除く親衛隊特務部隊三連隊でもって親衛隊特務師団が編成され、ハウサーがその師団長に就任した[21][3]

1940年の西方電撃戦ではハウサー率いるSS特務師団はB軍集団に属してオランダへ侵攻し、ついでフランス戦に転じた。フランスでの戦勝後、再編されて「SS師団ライヒ」となった。この師団はバルカン半島の戦いにも参加し、ベオグラードを陥落させた。

1941年、ハウサーと師団はハインツ・グデーリアン将軍の率いる第2装甲集団の一員として独ソ戦に参加。モスクワの戦いで軍の先鋒として活躍し、ハウサーは階級を親衛隊大将に進め、騎士十字章を受章するも、戦闘中に右目を負傷し失明。師団長の座をヴィルヘルム・ビットリヒに譲り、1年間前線から離れる。

翌1942年、ハウサーはSS装甲軍団司令官に就任した。このSS装甲軍団は、LSSAH師団ダス・ライヒ師団(ハウサーの古巣である)、トーテンコプフ師団ヴィーキング師団の4個SS師団により編成されるものであった。 ハウサー軍団はハリコフの守備に就くが、スターリングラードを守っていたフリードリヒ・パウルス元帥の第6軍が降伏すると、ハウサー軍団も包囲殲滅の窮地に陥る。しかし、ヒトラー総統は「死守命令」を下し、SS装甲軍団はハリコフで降伏か全滅を待つだけとなった。この時、1943年2月15日、ハウサーは総統命令を無視し全軍の撤退を下命した。ヒトラーは激怒し、ハウサーの降格を口にしたが、そうしている最中もハウサーはマルキアン・ポポフ率いるソ連戦車軍を撃破し、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の指揮下で行われた反攻作戦に従事、ハリコフの奪回に成功している。続いてクルスクの戦いでもハウサーの装甲軍団は活躍し、大戦果を挙げた。なお、この一連の武勲に対して柏葉騎士十字章にを受章。降格の話は消えることとなる。

1944年、SS装甲軍団は改編されてハウサーは第2SS装甲軍団司令官に任命され、西部戦線に配置されることとなる。彼はその軍団を率いてノルマンディーの戦いに参加していたが、所属していた第7軍司令官のフリードリヒ・ドルマン上級大将が自殺したため国防軍を信用していなかったヒトラーの意向もありハウサーは第7軍司令官に昇格された。その後、第7軍を率いて必死の防戦を行うもヒトラーは状況を理解せずリュティヒ作戦を発動、ドイツ軍の反撃は失敗し逆に多くの将兵がファレーズ・ポケットに取り残されかねない危機的な状況に陥る。しかし連合軍による包囲網が完全に完成していなかったことも幸いし、ハウサーは第7軍の少なくない部分を包囲網から撤退させることに成功する。しかし最後まで前線に残って指揮を執っていたため銃撃され重傷を負い、後送された。第7軍の指揮は部下のハインリッヒ・エーバーバッハ装甲兵大将が引き継ぐ事となった。ハウサーはこの功績を認められ、柏葉剣付騎士十字章を受け、階級も親衛隊上級大将へ進み、翌年1月にはG軍集団司令官に昇任するが4月には解任されている。その月の30日、ヒトラーは自殺し、ドイツは降伏、戦争は終結することとなる。終戦直前に解任されているものの、終戦時には西部戦線において親衛隊の降伏を指揮した。

戦後

1948年まで米軍の捕虜収容所に拘留されていた。ニュルンベルク裁判では弁護側証人として出廷しており、武装親衛隊は他の親衛隊組織と異なり純粋な軍事組織であると主張した[23]

戦後は旧武装親衛隊員相互扶助協会(HIAG)の活動に従事し、武装親衛隊の名誉回復に尽力した。武装親衛隊は完全に国防軍軍人と同じであり、また非常に多国籍化された軍隊であったためNATO軍の先駆けともいえると主張した[23]。1966年には回顧録『武装SSは他の兵士たちと全く同じ(Soldaten wie andere auch. Der Weg der Waffen-SS)』(ISBN 978-3921242469)を著した[24]

東西冷戦の中で西ドイツの空気も変わったこともあり、ハウサー達の努力の結果、武装親衛隊員に課せられていた様々な法的制限の問題についてはほぼ解決した。1972年にルートヴィヒスブルクで死去した[23]

逸話

「総統の死守命令」を無視し、ハリコフから撤退を命じた時の言葉、

「わたしのような老人にはそれでかまわん。だが、表にいる若者達にそれを強いることはできぬのだ。直ちにわたしの命令を軍団に通達したまえ」

[要出典]

は戦史に残る名言とされる。この決断で貴重な装甲軍団は生還し、ドイツ軍の反攻作戦が可能となった。

キャリア

陸軍階級

親衛隊階級

受章

参考文献

  • 芝健介『武装SS ナチスもう一つの暴力装置講談社選書メチエ、1995年。ISBN 978-4062580397 
  • ジョージ・H・スティン(en) 著、吉本貴美子 訳『詳解 武装SS興亡史 ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45吉本隆昭監修、学研〈WW selection〉、2001年。ISBN 978-4054013186 
  • 広田厚司『武装親衛隊 ドイツ軍の異色兵力を徹底研究光人社、2010年。ISBN 978-4769826569 
  • ハインツ・ヘーネ著 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社フジ出版社、1981年。ISBN 978-4892260506 
    • ハインツ・ヘーネ著 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社 上』講談社学術文庫、2001年。ISBN 978-4061594937 
    • ハインツ・ヘーネ著 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社 下』講談社学術文庫、2001年。ISBN 978-4061594944 
  • 山崎雅弘『ドイツ軍名将列伝:鉄十字の将官300人の肖像』学研M文庫、2009年。ISBN 978-4059012351 
  • 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977 
  • 『武装SS全史I』学研〈欧州戦史シリーズVol.17〉、2001年。ISBN 978-4056026429 
  • 『武装SS全史II』学研〈欧州戦史シリーズVol.18〉、2001年。ISBN 978-4056026436 
  • Mark C. Yerger (2003) (英語). German Cross in Gold Holders of the SS and Police, Volume 1 - Das Reich: Kurth Amlacher to Heinz Lorenz. R. James Bender. ISBN 978-0912138947 

出典