ハンス・ラウター

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ハンス・アルビン・ラウター
Hanns Albin Rauter
生誕 1895年2月4日
オーストリア・ハンガリー帝国
クラーゲンフルト
死没 1949年3月25日
オランダ王国
スヘフェニンゲン
所属組織 オーストリア=ハンガリー陸軍
突撃隊(SA)
親衛隊(SS)
軍歴 1914年‐1919年(オーストリア軍)
1933年‐1935年(突撃隊)
1935年‐1945年(親衛隊)
最終階級 親衛隊大将
指揮 オランダに進駐した親衛隊及び警察
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ハンス・アルビン・ラウター:Hanns Albin Rauter、1895年2月4日 - 1949年3月25日)は、ナチス・ドイツ親衛隊の将軍。第二次世界大戦中にドイツ軍に占領されていたオランダ親衛隊及び警察高級指導者を務めた。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。

略歴[編集]

ナチ党入党前[編集]

1895年、オーストリア=ハンガリー帝国クラーゲンフルトに生まれた。1914年にオーストリア陸軍に入隊。第一次世界大戦では山岳部隊の中隊長の副官を務めた。1915年に負傷をして戦線から離脱。負傷が激しかったため、結局大戦の終結まで戦場に復帰はできなかった。1918年7月に予備役中尉に昇進している。

戦後の1919年から1921年にかけてズデーテンラントで義勇軍(フライコール)の活動に参加した。その後、オーストリア護国団傘下のシュタイアマルク防衛本部ドイツ語版の活動に参加し、その主要なリーダーの一人になっていった。

ナチ党入党後[編集]

1927年にラウターはアドルフ・ヒトラーと初めて会談し、防衛本部の活動への支援を取り付けた。1933年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)がドイツで政権を掌握するとオーストリアを出国、ナチ党へ入党すると共に突撃隊に在籍し大佐まで昇進した。

1935年2月20日にラウターは親衛隊へ移籍し、親衛隊上級大佐の階級が与えられた。はじめ親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの側近くに特務将校として仕えた。1936年4月初めに一時親衛隊本部で勤務したが、まもなくヒムラーの副官に戻された。1938年11月までヒムラーの側に仕えた。その後、地方の勤務となり、親衛隊地区「南東」(本部ブレスラウ)に配属された。

オランダ親衛隊及び警察指導者[編集]

第二次大戦中、ドイツ軍がオランダを占領した後の1940年6月26日、親衛隊少将の時に「北西」親衛隊及び警察高級指導者、および親衛隊上級地区「北西」指導者に任じられた(本部デン・ハーグ)。これはオランダに進駐する親衛隊と警察を指揮する役職であった。以降ドイツの敗戦までこの地位を維持し、オランダの占領政策を遂行した。

国家弁務官(総督)としてオランダの統治にあたったアルトゥル・ザイス=インクヴァルトとともにオランダで行われた激しいユダヤ人狩りに責任を負う。ラウターはオランダのユダヤ人を死の収容所へ移送させるまでの中継収容所としてオランダ北東にヴェステルボルク通過収容所、オランダ南部にヘルツォーゲンブッシュ通過収容所(de:KZ Herzogenbusch)(フュフト収容所)を設置させた。移送列車の確保にも尽力し、オランダ在住ユダヤ人の移送を強力に推し進めた。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクもその犠牲者の一人となった。

ラウターは1942年9月24日にハインリヒ・ヒムラーに対して次のような報告書を書いている。

これまで我々は刑事上の理由でマウトハウゼンへ送られたユダヤ人と合わせて2万人以上をアウシュヴィッツへ移送しました。オランダ全土には12万人の追放すべきユダヤ人がいます。もっともこの中にはユダヤ人混血者が含まれており、これらの者は結局しばらくはオランダに留め置くことになるでしょう。これらの者の数はおよそ2万人。しかし私は、国家弁務官の同意も得て、子供がいない限り、混合婚ユダヤ人も全員移送するつもりです。該当するのはおよそ6000人です。したがって混合婚ユダヤ人のうち1万4000人ほどが当分オランダに留まることになります。オランダにはいわゆる『雇用拡大(オランダ福祉省が実施する労働奉仕)』があり、これはユダヤ人を労働させるべく、隔離された企業やキャンプに送る制度です。我々はこれに手を付けておりません。ここにいるユダヤ人は現在7000人。我々は10月までに8000人にしたいと考えています。これら8000人のユダヤ人には2万2000人の扶養家族がいます。10月1日に私は拡大雇用キャンプを強襲し、同日のうちに外にいる家族も逮捕して、ヴェステルボルクフュフトに建てられた巨大収容所へ入れるつもりであります。毎週2列車ではなく3列車を獲得できるよう努力したいと思います。この3万人のユダヤ人はクリスマスまでに国外へ移送するつもりであります。これで合計で5万人のユダヤ人が追放されることとなり、オランダからユダヤ人が半数消えます。10月15日にはオランダの全ユダヤ人を法律保護外に置く布告を出します。すなわち大規模な警察活動を開始します。オランダ国内のユダヤ人はすべてユダヤ人大収容所へ送られるでしょう。特に許されたユダヤ人以外はもはや誰一人としてユダヤ人はオランダに住むことはできません。ユダヤ人を匿ったり、国外へ逃亡せしめたアーリア人は、財産を没収のうえ、強制収容所へ送ります。ユダヤ人の大量逃亡を防ぐためであります。 — [1][2]

1945年3月6日の夜、乗用車で移動中のラウターと司令部スタッフは、偶然、ドイツ軍制服を着てパトロール隊に扮して、トラックをハイジャックしようとしたレジスタンスの検問を受けた。同乗者は全員射殺されたが、ラウター自身は死んだふりをして助かった。翌日、ドイツ軍パトロールにより救出され、病院にて療養生活を送ることになった[3]

戦後[編集]

特別法廷でのラウター

終戦後、入院していた病院でイギリスの王立憲兵英語版に拘束され、捕虜となっていたラウターはオランダ政府に引き渡され、戦争犯罪人として特別法廷にて裁判にかけられた。1949年1月12日に死刑判決を受け[3]、3月25日にスヘフェニンゲンにおいて銃殺刑に処された。ラウターには5人の遺児がいた[4]

親衛隊階級[編集]

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『アンネのおもかげ』72ページ
  2. ^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』446ページ
  3. ^ a b 『ドイツ武装SS師団写真史2』168ページ
  4. ^ 『Allgemeine-SS』446ページ