ノート:旧制高等学校

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早稲田大学高等学院[編集]

早稲田大学高等学院の説明が直接こことは関係なかったので専用のページに移したら 著作権侵害で消されてしまったんですが

  • 早稲田大学の高等予科を廃し、旧制高等学校として早稲田大学附属早稲田高等学院を発足させた。後に、第一・第二高等学院に分化したが、終戦後に新制高等学校として早稲田大学附属早稲田高等学院を発足させ、現在の早稲田大学高等学院となった。一般的に、大学予科並びに旧制高等学校は戦後に「大学教養部」として再編成されたが、高等学院は「大学附属高校」として新制高等学校に移行された唯一の例である。
(早稲田大学高等学院のホームページより)
  • 1920(大正9)年4月 旧制度の高等予科を廃して、当時の高等学校令にもとづき新たに早稲田大学附属早稲田高等学院が発足。
  • 1922(大正11)年  3年修業制の第一部と2年制の第二部を、それぞれ第一高等学院・第二高等学院として独立。第二高等学院は大学構内の新設校舎に移された。
  • 1949(昭和24)年4月 旧第一高等学院(新宿区戸山町)を土台に、新制高等学校としての、早稲田大学附属早稲田高等学院が新発足。
  • なお、上記文章の「旧第一高等学院を土台に」とは"旧第一高等学院の土地、校舎および精神を引き継ぎ"の意味であり、新制校と旧制校の間に直接の連続性はない。

早稲田大学高等学院は、早稲田大学が大学令により認可された際に、大学予科として認可されたものです (参照: 『早稲田大学百年史 第三巻』。1987年3月発行)。大学令第十四条で、大学予科の 「設備、編制、教員及教科書」 は高等学校高等科の規定に準ずる旨定められており、これを受けて高等学院の学則も、「各科ノ学科課程ハ大正八年文部省令第八号高等学校高等科学科課程ニ拠ル」 (第二章第二条) と定めています。
従って、早稲田大学高等学院は精神的には旧制高等学校ですが、法的には大学令に基づく三年制の大学予科であり、慶應義塾大学予科や後に設立された日本医科大学予科・東京慈恵会医科大学予科などと同格です。早稲田高等学院を 「旧制高等学校」 に加える場合は、これら私大の三年制予科も同列に記載すべきであると考えますがいかがでしょうか。-Hasec 2006年7月7日 (金) 19:47 (UTC)[返信]

廃校時のナンバースクール名称[編集]

  • ナンバースクールって廃校時は「○○大学第△高等学校」のように新制大学と旧制高校の名前を併記するようになってたんでしょうか。もしそうならば、第七高等学校造士館は「単に」造士館の名を外しただけではなく、何らかのタイミングで「鹿児島大学」を冠されたってことになるとおもうのですが。--textex 2005年9月27日 (火) 06:50 (UTC)[返信]
廃校時の名称はナンバースクールに限ったことではなく旧制高校一般に関わっていて、戦後になってもしばらくは旧制学校は存続していて、どの旧制高校も学制改革後学生がいなくなるまでの一年間新制大学に包括される形で存続していました。例えば[1]は九大の事例でしかもナンバースクールではありませんが、四段落目に戦後の一時期「○○大学××高等学校」となっていたことが書かれています。七高の場合ですが、昭和21年3月に造士館が外され「第七高等学校」になり、24年5月の鹿大発足にともなって「鹿児島大学第七高等学校」(25年3月廃止)となっています。61.87.47.197 2005年10月5日 (水) 00:34 (UTC)[返信]

高等学校令[編集]

も、おそらく、改正が何度かあったのだろうと思いますが、その中で新しい学校制度が付け加えられたりしてないのでしょうか? 一般論として、そういうケースでは、一つの法律で定められているから社会的役割が近く、別の法律に定められているから別物だ、とはなりませんよね。見方が分かれるようなことはないのですか-- 150.29.178.59 2006年8月28日 (月) 10:39 (UTC)[返信]

高等学校令(明治27年勅令第75号、 高等学校令(大正7年勅令第389号)、 この2例しかありません。

百科辞典的な意味合いで厳密性を求めるものであるなら、旧制高校と大学予科とは似て非なるものであり、大学予科をもって旧制高校と見なすことは教育史においては大きな誤解を生む原因かと思います。法的な位置づけも制度も異なるものを同列に扱うことは好ましくないものと思います。旧制高校と大学予科では特権の大きさが大きく異なります。 また旧制高等学校は高等教育機関としての位置づけであり、中等教育機関である現在の高校とは性格を異にするものです。 この項目の記述においては両者を混同して述べているものであり、正直申し上げ後半部は大学予科の項目に移動する方が適切かと思います。如何でしょうか?

つるかめ様、整理が進んで喜ばしく思います。ところで、教育史というのは、法律上の制度史というほどの意味なのでしょうか? 一般論ですが、同種のものを括って論じる(説明する)ことは有効だと思います。で、主要な意味、すなわち、狭義が「正しく」、それ以外は「間違い」というのは、なんか変です。言葉上、いくつかの解釈が有りうるけれども、一般にはこれを指す、くらいの表現でなんとかなりませんか。--MAXi 2006年8月29日 (火) 04:07 (UTC)[返信]
MAXi様、法制史という意味ではありません。現代社会に存在しない旧制高校という概念を理解するにあたり曖昧な定義は如何なものかという意味合いで申し上げました。特に制度として触れたことの無い世代の方々が、この概念を理解することは非常に難しいと思います。狭義に(厳密性)を理解した上で、自己の意見を述べることには何ら問題はないかと思いますが、最初から曖昧なまま理解することは知識を得る上で不適切かと思います。昨今旧制高校にたいする評価を見ておりましたらこの定義自体がかなり曖昧なものとなっているものが確かに見受けられます。旧制高校の神髄を高等学校令による設置に限定しますと学習院がこれから漏れます。では全ての帝国大学への進学権という意味合いでは帝大の予科は明らかにこれから外れますし、北海道帝国大への進学は旧制高校からとて極めて限定的なものでしたので、これを一言で言い表すことは極めて困難です。

ただ、戦前の高等教育を考えると、帝国大学と大学令によって設置された大学とでは出自や社会的影響が極めて大きく異なることが伺えます。帝国大学をキーワードにした場合、その進学権が保証されていた高等学校令に基づく高等学校及び学習院、広義においては三帝国大学の予科までが旧制高等学校とする例が多いようです。

しかしこの概念を間際無く拡大していくと、旧制高校とは旧制中学、大学予科、旧制高等専門学校、・・・と尋常小学校、国民小学校と大学を省いた全ての諸学校を含むこととなります。麦茶とビールとウイスキーを飲み物として同種のに扱うことには若干の抵抗があります。少なくとも大学予科は立派な高等教育制度として機能していましたので、別項による詳細な説明の方が望ましいような気がしますが、概念として理解する上では併記もやむを得ないかとも思います。如何でしょうか?つるかめ

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学校教育の役割を、初等、中等、高等教育の3段階に分けて考えるとき、中等教育機関にその定義として初等と高等の「つなぎ」の役割を与えると、旧制高等学校は中等教育機関になっちゃいます。これでは多分、不都合が生じます。高等教育、中等教育をどう考えたらいいでしょうか? Wiki上で--MAXi 2006年9月1日 (金) 15:16 (UTC)[返信]

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今の高等学校を念頭において議論しては的がはずれます。一般論とし現在の中等教育機関は中学校と高校であり二つの機関を一つの等級に論じることは誤っていません。戦前の高等教育機関は複線型になっています。中等教育機関である中等学校や実業学校以後に修学するものは原則的に全て高等教育機関です。高等教育機関としては、旧制高等学校、大学、旧制専門学校、高等師範学校、大学予科等があります。高等学校は「繋ぎ」ではなく立派な高等教育機関かと言えると思います。戦前の高等教育機関は全て戦後「大学」と名の付くものになったと考えれば差し支えないかと思います。高等教育をご参考にされては如何でしょうか?  つるかめ 2006年9月2日 (土) 01:21 (UTC)

学制改革後の学校名が変です[編集]

例えば武蔵や成蹊(旧制)が大学に移行した?いずれも新制高等学校への移行だと思いますが?

旧制から新制に移行するに当たり、学校当局においても制度的な意味を理解できず各所で混乱が見られました。武蔵、成蹊、成城、甲南、学習院、東京高校の高等科に関して移行の位置づけは新制大学への転換と考えるべきかと思います。どうしてもその新制高校への継続性を主張されるのなら尋常科が新制高校になったと考えられます。ただし、各学校の考え方や精神的な意味合いで高等学校への移行を標榜する場合がありますが、制度的な位置づけは旧制高等学校→新制大学とするべきです。東京大学教育学部附属中等教育学校を例にとって見てお考え下さい。高等教育機関から中等教育機関への移行は実態として馴染まないかとおもいます。上記7年制の学校は全て新制大学とその付属または系列の中高に移行しています。厳密に言うなら高等科は新制大学に、尋常科は新制中高に移行と理解することが妥当かとおもいますが如何でしょうか。つるかめ 2006年9月3日 (日) 02:41 (UTC)


> しかし、成蹊・成城の新制中高が大学附属色の強い共学校となったのに比して、武蔵は難関大学へ多く進学する男子進学校のままなので、東大等への難関大学への進学という伝統・精神的な面での旧制武蔵を継承したのは新制武蔵中高と考えられる(卒業年次もそのように扱われている)。

武蔵大学は突然降って沸いて来た大学なのでしょうか?。卒業生か在校生の方の記述かと思いますが、教育制度を考慮し、精神的な継承論や自称の継承論ではなく客観的かつ教育制度的な継承を記述をさせたほうが百科事典としては相応しいかと思います。こちらできちんと議論されたほうがよいのではないでしょうか。お考えは如何ですか。つるかめ 2006年9月12日 (火) 12:02 (UTC)

1931年設立の太陽観測部をはじめとする旧制高校時代発足の校友会活動が全て現在の中高校側に属している。というのは客観的な事実ではないでしょうか。また、新制高等学校の開設が昭和23年、同中学と大学の開設が翌年であります。このことから少なくとも武蔵は旧制高校から新制高校へ移行したと考えるのが妥当だと思われます。 --61.194.5.152 2010年8月15日 (日) 13:47 (UTC)[返信]

追記。現在の高校の卒業生名簿は旧制高校時代の最初から現在まで続く形になっています。参考までに --61.194.5.152 2010年8月15日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

学習院に関する文献[編集]

つるかめ様によって学習院の記述が拡充されて大変に嬉しく思います。学習院は華族学校ということもあるのかなかなかいい資料がなかったので正しい情報が入るのはよいことだと思います。私もその文献を調査してみたいのでお手数ですが、つるかめ様教えて頂けませんでしょうか。その情報を元に学習院大学なども改定できれば、と考えています。よろしくお願い致します。--秋の虹 2006年9月28日 (木) 12:38 (UTC)[返信]

簡単な沿革でしたら大学HPをご覧になれば如何でしょうか?また竹内洋「学歴貴族の栄光」にも学習院関連の記述が見られますし、三島由紀夫関連の本でも旧制の学習院の様子がうかがえます。一番よいのは大きめの図書館で学習院の学校年史をみれば詳しく判るかと思いますが。多分国立国会図書館にはあるかと思います。誰でも閲覧できますよ。つるかめ 2006年9月29日 (金) 08:02 (UTC)

入学時期について[編集]

大正11 (1922) 年に旧制高校・大学の入学時期が9月から4月へと変わったことは知っているのですが、それまでは基本的には中学卒業が3月、高校入学が9月と考えてよいのでしょうか。--Jazzy 2007年2月8日 (木) 11:34 (UTC)[返信]

学習院に関して[編集]

学習院に関しては学習院学制などにもあたりましたが、学習院という大きな枠組みがあり、その中に「初等(学)科」「中等(学)科」「高等(学)科(補習科)」を「置ク」されていたという状況です。学習院自体が第二次世界大戦前の教育体系から外れた特別な存在であったので、議論の余地があることも承知していますが、法令原文や学習院側の説明の仕方などを含めて考えると本項目の説明は学説から外れていないと思いますがいかがでしようか。--秋の虹 2007年5月21日 (月) 01:33 (UTC)[返信]

秋の虹様、問題定義ありがとうございます。議論が深まることは素晴らしいことです。さて、学習院についてですが、8年制の高等学校相当機関であるという位置付けについては同意頂けるものかと思います。しかしながら高等科をして8年制というものはあまりに乱暴すぎる表現ではないでしょうか?。あくまで高等科は、他に5年制の中等科と6年制の初等科をもつ学習院の一部門です。大きな誤解があるかともわれるのは現在の学習院は私立の学校法人ですが、当時の学習院は官立であり、今でいう私立学校法人ではありません。学習院という教育機関があり高等科、中等科、初等科を包含した組織が学習院です。設置主体は官立の学習院でありそれ故、学習院高等科を8年制の高等学校と言い切るのは言葉の意味としておかしいのではないでしょうか?。「武蔵高等学校」と「武蔵高等学校高等科」は同じ意味ではありません。武蔵高等学校に包含されたものが部門の一つに高等科、尋常科、初等科があるのです。学習院についても同様ではないでしょうか。「旧制高校たる学習院」である学習院高等科の中等科・・・等の表現はおかしくありませんか?
なお、学説というものは一つ一つの「事実」の積み重ねであり、それこそ決まった形などあろうはずがありません。もし、ご覧になった文献にそのような記述があるのでしたら、事実誤認である可能性をも考えるべきです。同窓生やHP等については正確性客観性などはほとんど気にされず記述される方も多く見受けられます。床屋談義と事実認識は区別するべきです。くどいようですが、歴史認識は客観事実の積み重ねの上に立脚するべきと考えます。思いこみや、事実の歪曲、創造、想像は極力排除するべきです。ウィッキは百科事典です。むろん全ての項目について正確あるべきですが残念ながらそうではないのは明白でしょうが、このように議論を重ね知恵の集大成として成り立つことに価値があるのだと思います。
このノートの先頭部、早稲田高等学院の記述につきましても、高等学院HPの記述は現在訂正されております。僭越ながら学校にこの内容で疑義を投げかけたところ、即座に訂正されました。これも議論の成果です。私の拙い意見は以上です。つるかめ 2007年5月21日 (月) 14:02 (UTC)
ご提起のほどありがとうございます。私も学習院学制に関しては調査をしている段階ですのでつるかめさんのご意見は大変に助かります。
まず学習院自体が当時の教育行政では埒外にあったということを我々は認識する必要があります。その上で旧制高等学校の記事として記述をどのようにするのか、ということが問題として問われるわけです。
まず、学習院そのもの関してですが、これは学習院学制に基づいた教育を行うために宮内省管轄下にある組織です。これは学習院官制によって定められています。
組織として学習院というものがあり、その中に初等(学)科・中等(学)科・高等(学)科が設置されています。これは学習院学制に定められている内容です。
その上でこの記事におけ記載内容を考えると「学習院」としてしまうことは無理があると考えます。なぜならばこの記事はあくまで「旧制高等学校」に関する記事であるからです。ここの記事で挙げられている固有名称は全て個別の教育機関を指しています。その中に教育機関の運営主体である「学習院」を並べてしまうのは無理があります。
ただ、つるかめさんが懸念されるように現在の記述がベストといえないのも事実です。そこでこの部分の記述を以下のようにすることを提案致します。
[[学校法人学習院|学習院]]の[[学習院高等科 (旧制)|高等科]](現在の[[学習院大学]])
第二次世界大戦前の学習院は、学習院学制及び学習院官制に基づいて設置された宮内省直轄の教育機関であった。学習院は学習院学制及び学習院規則に基づいて初等科・中等科・高等科を設置しており、このうち高等科はシステムとして旧制高等学校に非常に似通った形態であった。さらに学習院の高等科は1921年より他の高等学校とまったく同等に帝国大学への進学が完全に保証された学校の為、便宜上ここに分類する。
さらに「八年制」という中見出しも削除します。これでつるかめさんのおっしゃる懸念も解消されると思いますが、いかがでしょうか。--秋の虹 2007年5月22日 (火) 01:56 (UTC)[返信]
もう一つ提起しておきます。説明文は本文の別記載となっている学習院に関する部分を削除して、それをここへ移動させます。さらに若干修正をしています。
[[学校法人学習院|学習院]]の[[学習院中等科 (旧制)|中等科]]・[[学習院高等科 (旧制)|高等科]](現在の[[学習院高等科]]・[[学習院大学]])
学習院は、学習院学制に基づいて設置された官立の学校である。また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。当初は初等学科(6年)、中等学科(5年)、高等学科(2年)、と区分されていたが、1919年に初等科、中等科、高等科と改称された。当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていたことから旧制七年制高等学校に類似していると説明されることが多い。当初は帝国大学への進学も完全に保証されたものではなく、高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れが生じた場合、院長の推薦によりのみ帝国大学への進学が許された。他の旧制高校高等科卒業生と全く同等に帝国大学への進学が許されるようになったのは1921年のことである。さらにその後、高等科は3年となり、八年制の形態となった。
学習院の記述が分断しているのは良くないのでその他の部分でまとめてみてはどうかと思いました。こちらのほうがより正確かもしれません。なお、学習院学制の原文にあたったところ、高等学科は専修科の修業年限を準用するという記述があり、専修科は二年という記述がなされています。高等科が3年制になった時期が資料などから判るようでしたらソースとともに提示して頂ければ幸いです。--秋の虹 2007年5月22日 (火) 02:24 (UTC)[返信]
秋の虹様、非常にクリアーに整理されていると感じます。確かに8年制という便宜上の呼称は相応しくないかと私も考えます。そもそも高等学校令に示されているものは高等科、並びに尋常科であり、私立4校の初等教育機関に関しては高等学校の項目で触れる必要はないのかもしれません。ただ、武蔵を省く3私立高等学校が初等教育機関をも包含した総合教育機関であったことを考えると、学習院を一括りにすることになんら問題はないかとおもいます。
なお手許の資料をみますと某黄色い表紙の「学歴貴族の栄光と挫折」の巻末年表に、「明治17年学習院高等科、宮内省に移管される」という表現がありますが、私は著者の認識間違いと考えています。「学習院」が正当な表現だと考えます。どこかでお会いする機会があれば問いただしてみようと考えておりますが、残念ながら未だ機会に恵まれておりません。(笑)
ご質問の件ですが、私の私見とお断りした上であまり答えにもなっていないかと思いますが、考えをお伝えします。学習院高等科が高等学校と同じ権能を得る過程は、明治33年に始めて制度として条件付きの無試験入学が認められましたが、それ以前から不完全な形ではありますが進学が可能でした。ちなみに完全に条件が撤廃され全く同等の地位を確立したのは大正10年の文部省令二七号による「学習院高等科は大学の関係に付いては之を高等学校高等科と看做す」によります。ということはすでに明治33年には高等学校にほぼ一致した教育体制になっていたものと思われます。なお学習院高等科の設置は、秦郁彦「旧制高校」p133によりますと明治23年とあります。帝国大学への進学は当然のことながら高等学校と同等の教育課程を経ている必要があるかと思われますので、高等学校の全身、高等中学校時代は修業年限2年、明治27年の高等学校令では修業年限3年ですので、それにリンクしている可能性が非常に高いと思われます。なお、前出の本も含めて多くの本は細かい記述に多くの錯誤が多く見受けられますので、もし学術的な発表を目指しておられるなら更なるウラ取りも必要かと思われます。今日のところはこのへんで・・・。つるかめ 2007年5月23日 (水) 15:24 (UTC)
「学習院高等科移管」ではないですが、確かに学習院関係は誤った史料が多く、学習院自体もあまり史料をまとめていないのでなかなか難しいところではあります。より正確な記述ということで、現時点の情報をまとめて、後段の内容を本文に反映させたいと思います。
個人的な見解ですが、学習院は全く別格な存在であったので扱いが難しいですね。学校法人の記事と教育機関は分離するというのがプロジェクト学校で合意の得られている内容であるため、現在は便宜的に学習院高等科 (旧制)という記事を立てていますが、むしろこういう分離の仕方ではなく、リダイレクトになっている「学習院」を記事として一つ独立させて、そこに色々な経緯をまとめた方がよいとか、まだまだ色々と議論をしなければならないことは多そうです。
どこのページが適切か判りませんが、学校法人学習院のノートで戦前の学習院をどうまとめていくかに関して議論をしても良いかもしれません。--秋の虹 2007年5月24日 (木) 08:35 (UTC)[返信]
学校法人の件については、旧学習院は学校法人ではなく教育機関そのものであるのでその旨明示の上、記述するほうがより正確かと思います。厳密性において明らかに学校法人という枠組みには分類できません。現在の学校制度の捉え方で理解するのはやはり無理があるのは致し方ないものではないでしょうか。厳密に言うならば「学習院」とは初等科6年、中等科5年、高等科3年の14年の教育課程を持つ教育機関です。私としてはこれを便宜上とは言え「学習院高等科」と記述するのは余りに正確性、厳密性に欠けるものと考えます。(旧制)学習院と記述するほうが適切ではないでしょうか?
「学習院高等学校高等科」というものが存在しないところに、高等学校という意味において高等科と記述するのでは百科事典として正確性を損なうものと思います?少なくとも言葉として混同は避けるべきです。学校法人という枠に囚われる必要は全くないかとおもいます。学校法人ではないですし・・・。つるかめ 2007年5月25日 (金) 09:32 (UTC)

合意事項に関して、今ひとつ。学習院高等科が3年制になった時期は、少なくとも帝国大学への進学権が保証された以前のことかとおもいます。上でも述べたようにおそらく高等中学が高等学校に改組された明治27年(1894年)のことと推察します。なぜなら当時の最高権威である帝国大学への進学に短縮特例コースが存在することになります。中等学校の4修制度が発足したのが大正7年(1918年)ですからそれ以前に短縮コースを取ることが出来たとは考えられません。また制度的に帝国大学への進学が可能となったのは(院長推薦無しにということ)明治33年のことです。条件が完全に撤廃されたのが、大正10年(1921年)です。もし不完全なまでもそのようなバイパス的近道の課程が存在するならそれこそ貴族的特権として明治期とて非難は免れないでしょう。またもしそれが存在することを立証できれば、教育史上にののこる珍制度として立派な論文が書けます。7年制の高等学校の成立は大正期の高等学校令の改正によるもので、中等学校の課程を4年で修了することが可能となるとともに4年制の尋常科を設けたことによります。このように制度というものは、かなり整合性を持って整備されていきます。ですので本文中の記述は時代背景があまりにも漠然としています。学習院7年制の記述は大変心苦しのですが完全にお間違いです。 :秋の虹様が学術関係者かどうかは無論私の知るよしではありませんが、推論は事実の積み重ねの上、時代背景と矛盾が生じないこと、かつ説得力のあることが肝要です。ではでは、今夜はこの辺で・・・・つるかめ 2007年5月26日 (土) 15:37 (UTC)

現在の表現は私が文章を書いた際の手違いであったと理解できるのですが、まだ合意が得られたわけではないので一旦戻させて頂きました。大変申し訳ないのですが、今回は私もつるかめさんもうっかりも落とされていてそのまま合意になってしまったのだと思いますが、議論の最中にご指摘下さい。さらに合意を得られたばかりのはずである内容をいきなり直すと編集合戦になりませんから、まずはノートでご指摘下さい。それでないとノートで合意を得るというプロセスが崩れます。ご理解頂いているとは思いますが、今一度鑑みて頂くようにお願い致します。反対が付くかどうか今しばらく待ちましょう。--秋の虹 2007年5月26日 (土) 17:05 (UTC)[返信]

わかりましたが、現在事実と異なる記述となっていますので早い時期には訂正するべきかと思います。つるかめ 2007年5月28日 (月) 22:44 (UTC)
誤った内容のまま長期に渡って放置することの方が、問題あるような気がするのですが・・・

つるかめ 2007年5月30日 (水) 16:47 (UTC)

1年間そのままならば問題もありましょうが、ノートで討議をしている状況ですからWikipediaの理念的には現状は問題のある状態ではありません。前回加筆した際のようにプロセスがきちんと満たされての編集ならばそれほど時間も要らないと思いますが、今回はプロセスが満たされていない分、学校関係は関係者がヒートアップして編集合戦になることもありますので慎重に合意形成の時間を取る必要があると思います。私も出来る限り早くどうにかしてしまいたいのですが、ここで原則を崩すと他の記事で「あそこでおまえはこうしていただろう」とすぐにナンセンスな横やりを入れる人が多いので、もう少し待機した方がよいと思います。最後意見を提示したのが私の意見で、それが2007年5月26日 (土) 17:05 (UTC)ですから2007年6月2日 (土) 17:05 (UTC)まで待って反対がなければ完全に合意が出来たと考えても良いと思います。今しばらくお待ちください。--秋の虹 2007年5月31日 (木) 00:40 (UTC)[返信]

修正確認致しました。文章に誤字脱字がありましたので一部のみ修正をしています。--秋の虹 2007年6月3日 (日) 13:08 (UTC)[返信]

訂正しました。繰り返しになりますが、補修科のことについて私はよく存じ上げませんが、高等中学との関連であれば少なくとも明治27年前後には3年制に移行しているものと思います。明治33年には制度的に帝大進学が不完全ながらも可能となっていますので、すくなくともその時点では3年制になっていなければ高等学校制度の抜け道的なものが存在してしまいます。また7年制高等学校の成立は大正期です。その成立に学習院の存在は全く関係ないかと思われます。わたしもさらに一字訂正しました・・・<(_ _)>つるかめ 2007年6月3日 (日) 13:23 (UTC)

複数の課程を内包する旧制教育機関における個別記事のあり方[編集]

学習院も含めて複数の課程を内包する旧制教育機関における個別記事のあり方に関して議論すべきことが多いように思われます。そこでWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 学校#複数の教育機関を内包する旧制教育機関の個別記事検討を立てました。私が気が付いたものだけとりあえず小節を作ってありますが、他にも何かありましたら立てて下さい。また、現時点で思いついたことを適宜書いておりますが、皆様からも是非ご意見をお願い致します。--秋の虹 2007年5月27日 (日) 05:31 (UTC)[返信]

山口高等学校について[編集]

山口高校をナンバースクールにわざわざ追加した方がいますが、正式にも何もあえてナンバースクールとして記述する必要がないような気がしますが。ナンバースクールではないのですから。 たぶん元がナンバースクール群に匹敵するくらいの古い校史をもつという意味で同列にしたいという考えなのかもしれませんが ここの記述(というよりwikipedia全体にそうなわけですが)は格付けが目的ではないのでそういう一面的な理由や誇示と思われるようなわかり難い理由だけでこういう記述をするのは適切ではないとおもいます。 ネームスクールのところにさらに旧制高等中学の欄を追加してそちらで記述することが十分かつ適切だと思うのですが。--陸奥 2007年9月10日 (月) 13:34 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

旧制高等学校」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月6日 (金) 10:29 (UTC)[返信]

統合の提案[編集]

本記事の「戦後特設高校」の項に戦後特設高校を統合することを提案します。戦後特設高校の存続期間が短かったという歴史的事情もありますが、別個に記事を立てて解説する必要性があまり感じられず、1つにまとめた方がわかりやすいのではないかと考えられます。なお、統合後にできる戦後特設高校のリダイレクトは、現在使用しているカテゴリに引き続き収めることを検討しています。--Ihimutefu会話2019年3月12日 (火) 02:34 (UTC)[返信]