ノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家

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正確性タグ[編集]

ノート:政教分離の歴史で貼られた正確性タグですが、合意による移動分割によって役目を終えたとみなし、削除します。なお、正確性タグを再び貼る場合は、ノートで提起してください。--121.107.209.16 2017年6月23日 (金) 16:00 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

提案 (提案1)移動後、あらためてこの記事を読み直すと、さすがに良くできた記事だとは思うのですが、やはり「中世ヨーロッパ」という記事名と記事内容が合いません。もともと「政教分離の歴史」というタイトルの記事の一部として書かれたものなので、当然といえば当然ですが。これに社会経済史等を加えて「中世ヨーロッパ」にもっていく方法もないわけではありませんが、それは膨大な作業量を必要とするし、サイズオーバーな状態が亢進してしまいます。それよりかだったら、適切な名前に変えてしまった方がよいと思います。そこで、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」への改名を提案します。言語間リンクは、英語版の "en:Church and state in medieval Europe" とします。(署名忘れを補記)--Greenland4会話2017年6月24日 (土) 12:35 (UTC)[返信]

コメント121.107.209.16さん、TENさん、賛成票ありがとうございます。「中世前期」の存在については私も途中で気づいて「おやっ」と思ったのですが、こちらは意外とスカスカ状態なので社会経済史的内容を盛り込むとしたら、こちらがいいでしょうね。改名後の「中世ヨーロッパ」をどうするのかという問題もあります。「中世」のリダイレクトにもどすのではなくて、とりあえず、「中世」「中世前期」「中世後期」「中世都市」「中世ヨーロッパにおける教会と国家(改名後の本記事)」など関連項目へと誘導するページにしておいてもよいかもしれませんね。妙案あれば御提示ください。--Greenland4会話) 2017年6月24日 (土) 22:00 (UTC)(微修正)--Greenland4会話2017年6月24日 (土) 22:37 (UTC)[返信]

提案 (提案2)改名後の「中世ヨーロッパ」は上記のような中世ヨーロッパに関連する諸項目へと誘導するページとする。これを追加提案とします。--Greenland4会話2017年6月24日 (土) 22:37 (UTC)[返信]

返信 (Yuukin0248さんへ)そのまま作成してもよいはずです。「合意がとれれば」という条件がつくでしょうが、このページで異論が出なければ合意がとれたことになるでしょう。--Greenland4会話2017年6月27日 (火) 00:57 (UTC)[返信]
  • 報告 提案より1週間が経過し、反対意見もありませんでしたので本記事を「中世ヨーロッパにおける教会と国家」に移動しました。「中世ヨーロッパ」の方はリダイレクトを解除し、「曖昧さ回避」のページとします。作業は私がしておきますが、遺漏等があった場合は適宜各自で追加等お願いします(以後、報告不要とします)。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 13:00 (UTC)[返信]

教科書的内容への出典付与について[編集]

情報 以下の議論はノート:キリスト教国家論の歴史より2017年7月8日 (土) 23時頃に移動されたものです。--121.107.209.16 2017年7月9日 (日) 09:17 (UTC)[返信]

要出典タグについて、非常に扱いづらい箇所に張られているものがあり取り扱いに迷います。具体的には例えば以下のものです。

6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。[要出典]

これは東ローマ帝国ユスティニアヌスについて書かれた本であればどの本にでも載っていると言っていい内容だと思います。この記述に出典をつけようと思うと、私の手持ちの本だけでも10冊近くつけることができます。しかし、10冊分ここに脚注番号が付くのは冗長に過ぎますし、かといって10冊の中から1冊を選択しようとすると、その本を選択した理由は「特にありません」ということになります。私としてはこの一文に出典はいらないと思うのですがいかがでしょうか。 とっかかり部分のみの確認なのですが、現状の印象としては、要出典タグについて残念ながら「あまり良く考えて張られていない」というのが私の所感になります。

  • 以下、離れた場所への返信。

私の編集について、一応評価は悪くないということでありがたく思いますが、一応自分の立ち位置としてはGreenland4さんがおっしゃったような元の記述を守る意図はありません。単なる感想としては「読みづらいなぁ」というのが現状です。可読性を考えればやはり書き換えが必要と思います。中世史以降についてあまりまとめて勉強したことがないので、「要出典箇所を各自確認しましょう」という話を受けて読書がてら確認しているというだけになります。 また、私がこの記事(の議論)に関与したのはつとめて興味本位に尽きるのであり、硯箱さんの代わりに記事の更生をするつもりは全くありません。硯箱さんが動ける動けないという話も私には関係のないことであり、原則論として言えば自分で編集できる状況を用意するように自分で努力すべきと思います。参考文献をご紹介いただけるとしたらありがたいですが、読むことは約束できません。タイトルやあちこちのレビューを見て興味がわけば読むことになるでしょう。この巨大な記事について誰であれ一人で最初から最後まで全てどうこうするというのは不可能でしょうし、それぞれが興味のある部分についてゆっくり手を加えていき、全体の整合性についてはノートで議論すればいいかなと思います。--以上の署名のないコメントは、TEN会話投稿記録)さんが 2017年7月7日 (金) 15:52 に投稿したものです(121.107.209.16による付記)。

コメント中世ヨーロッパにおける教会と国家についてユスティニアヌスの例文ですが、それもやはり出典を明記していただきたいです。出典は1つでも10冊でも私は構いません。図書館にない本もありますし、中世史について大学でもない限りは十分所蔵されていなかったりするので、確認可能性が高まります。参考文献に列挙しているといって、脚注形式での記載がなければ、確認は非常に難しいです。そもそも、どの節がどの参考文献に依拠しているのかさえ明記していない箇所もあります。多くの図書館に所蔵されている百科事典や通史(各国史その他)であればそれだけ多くの人が確認できます。出典の明記の仕方については感覚の違いもあるでしょうが、私は、明記されていないのは不親切であると考えます。また、独自研究であるといわれても仕方ないと思います。「独自研究ではない」ということを証明するのは、主観やノートでの発言でなく、実際に出典を明記していくことだけで解決すると私は考えます。私も加筆をゆっくりやっていきます。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 16:25 (UTC)[返信]

コメントそういう教科書レベルのことにも一々出典が必要かということに関していうと、2つの見解があろうかと思います。「通りすがりのガキが悪さする。困ったもんだ」という感想は誰しも持つかもしれませんが、特に対策不要と思う人がいてもいいし、念のため対策をとった方がいいと思う人もいるでしょう。ただ、対策をとらないことで一々喧嘩をするのも大人げない話です。ウィキペディアは、いろんな人が出入りする人通りの多い往来のようなところだと私は思っているので、最低限でいいから対策をとった方がよいでしょう。10冊もつける必要はありません。そのなかから1~2つ選ぶということでよいと思います。どのような概説書・教科書にも書いていてほとんど自明だということに関してならば、有名でその道の権威と思われる人の著作1つでよくないでしょうか。それで安心する読者が1人でもいればよいし、自分の場合も、書いた以上は、あまり勝手に削除されたくないなという気持ちがあるので、1つ付ければ読み手・書き手それぞれ収まるのではないかと思います。多ければ多いほど誤解は少なくなり、削除される危険は少なくなるのでたくさん付けた方がよいという考え方も当然あると思います。そのテーマにとって最重要と思われる記載には多くの出典付けてやってもよいと思います。あまり本筋でないことなら、1つでよいと思います。私の場合は、むかし書いたものについては出典なしタグ貼られても割とそのままにしていますし(さすがに文中に貼られることはほとんどなく、貼られた場合は逐一出典をつけていますけど)、今書くものについてはほとんど全文に出典つけるようにしています。4個になることもあります。複数文献を参照すればそれだけ著作権違反も少なくなる可能性が高まり、記事自体の信頼性も高まりますから2個標準がいいのかもしれませんね。最終的にはお任せしますが、一応私の考えを書いておきました。--Greenland4会話) 2017年7月8日 (土) 04:40 (UTC)(文面修正)--Greenland4会話2017年7月8日 (土) 21:00 (UTC)[返信]

ここでなく向こうのノートでやるべきなので、これで最後にします。 私が加筆する前の文章はこれです。

広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。

私が出典を明記して加筆した文章はこれです。

広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は王国分割令を発布し、長子カールにアーヘンなどを含む帝国中枢であるフランキアを、ピピンにイタリア・バイエルン・アレマニア南部を、ルートヴィヒにアキタニアの支配権と領地分割を確認した[93]。しかし、皇帝権の継承については明記されていなかった[94]。ビザンツ帝国とは806年よりヴェネツィアで軍事衝突を繰り返していたが、810年にフランク王国とビザンツ帝国は和平し、ビザンツ皇帝とカールにお互いに「皇帝」の称号を認めた[95]。ピピンとカールマンは早逝していたので、唯一生き残ったルートヴィヒ(ルイ)をアーヘンにおいて813年9月に共治帝(共同皇帝)とした[96]。共同皇帝制度はビザンツで行われていた制度であった[97]。また、ルートヴィヒの戴冠式に教皇は参列しなかった[98]。翌814年1月に「キリスト教帝国」を夢見たカール大帝は亡くなった[99]。

「東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えて」と「ビザンツ皇帝とカールにお互いに「皇帝」の称号を認めた」とではやはり内容も違います。後者の出典が間違っているのでしょうか。それともウィキペディアが正しいのでしょうか。しかし、ウィキペディアには出典も明記されていない。出典を追加していく作業をしていくと、細かな間違いが見つかります。また、出典の本で間違っていると思われることもあります。「各国史ドイツ史」21ページの「教皇ステファヌス2世」はザカリアスの間違いではないか、など。しかし、それをさらに確認するには他の文献が必要です。やはり、出典はあればあるだけいいと思います。翻訳だと訳語の違いや誤訳の問題もありますし。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 16:42 (UTC)[返信]

返信 確かに記事に付随するノートでやるべきですね。詳細について何かあれば今後は向こうに書き込むようにしたいと思います。流れが途切れてしまうのも何なのでここで返信しますが、後で向こうのノートに移動したほうがいいかもしれません。
この文章に出典が必要ということであればそれはそれでいいかなと思います。ただ、この短い文章に出典を仮に7,8個つけると

6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た[1][2][3][4][5][6][7]。

となり、可読性がいいとはあまり思えません。かといって、そもそも記事が長すぎるという話があった点からすると、主要テーマではないユスティニアヌスの征服の経過はあまり詳述するのも個人的には?なので、ここでは本文に出典をつけるよりも本文の一部を東ローマ帝国#再興と挫折などへのリンクにしてしまい、出来事の詳細や検証可能性についてはそっちの記事に投げてしまうか、或いは注釈で末尾にちょっとした説明文を書いて出典はそこに逃がすという形式などはどうかと思いますがいかがでしょう。文脈としては「ユスティニアヌスが一時的に地中海の大部分を制圧した」という事実が重要なのであり、細かい詳細の正誤は本筋ではないように思います。なので、その検証可能性はそのテーマを本筋とする記事(か、注釈)を見て下さいという感じです。--TEN会話2017年7月7日 (金) 17:45 (UTC)[返信]
脚注の番号が増えたことで可読性を損ねることはないと私は考えます。分量についてはたしかに問題として残っています。他の記事例えばカロリング朝ルネサンスがある場合は、そちらへ移動し、記事には必要最小限の要約を残すという方法もあります。よろしければ、この節はノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家へ移動しませんか?--121.107.209.16 2017年7月8日 (土) 15:36 (UTC)[返信]
とりあえず該当記事のノートでやったほうがいいと思うので、節の議論を移動させることには同意です。ちょっと移動したいと思います。--TEN会話2017年7月8日 (土) 23:18 (UTC)[返信]
報告数はともかく、出典はあったほうがいいという見解が強そうですし、私も出典不要という点についてそこまで強く主張したいはわけではないので、とりあえず当該部分に一つ出典を追加しました。--TEN会話2017年7月9日 (日) 00:37 (UTC)[返信]

概要の目次[編集]

概要の「以降時代順に記述してゆくが、ここでは便宜のために各項の要約を示す。」以下の要約ですが、必要でしょうか?節のタイトルは目次で表示されていますし、要約の内容もどうしても必要なものとは思われません。異論がない場合は削除します。たとえば、「13 中世思想の崩壊:ルネサンスから宗教改革へ」を新しく加筆しましたが、この要約を作る必要もないと私は考えます。もしなにかしらの指示が必要ならば、コロン記号以下で副題を書くといいと思います。--121.107.209.16 2017年7月13日 (木) 14:58 (UTC)[返信]

概要の要約(というか記事内リンク)削除には賛成です。政教分離の方のノートで指摘されていることと同じで、本記事が「論文っぽい」原因であるように思います(ある意味見慣れた構成ではあるのですがw)。--TEN会話2017年7月13日 (木) 16:55 (UTC)[返信]
「要約」というほどの要約ではなく、むしろ「節タイトルの詳しい言い直し」みたいな感じですし、また、「要約」が必要なほど各節に詳しい内容が盛り込まれているわけでもありません。むしろ、加筆を阻害する要因になっていますし、可読性も損なっています。削除した方がよいと思います。--Greenland4会話2017年7月16日 (日) 11:41 (UTC)[返信]

「教会と国家」と言うテーマについて[編集]

報告冒頭部をちょっと変更しました。理由は、「教会と国家」と言う記事名自体が西欧史について知らない場合には不思議に思う人もいる可能性があると思うので、そういう研究領域(テーマ)が西欧史に存在するのだという事を一文追加しました。論拠にはとりあえず『西洋中世史研究入門』を持ってきています。山田欣吾氏の著作でも良い気もしますが、冒頭部の簡易な説明という事で、研究入門と銘打った書籍の方が適当であると考えました。--TEN会話2017年9月7日 (木) 16:33 (UTC)[返信]

コメント たいへんよいと思います。--Greenland4会話2017年9月8日 (金) 03:21 (UTC)[返信]