ドイツ領トーゴラント

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ドイツ領トーゴラント
Schutzgebiet Togo
1884年 - 1916年 イギリス領トーゴランド
フランス領トーゴランド
トーゴの国旗 トーゴの国章
国旗国章
トーゴの位置
:ドイツ領トーゴラント
:その他のドイツ植民地
:ドイツ帝国
公用語 ドイツ語
言語 エウェ語
カビエ語
テム語英語版
宗教 アカン教
イスラム教
キリスト教
民族宗教
首都 バギダ英語版(1884年 - 1887年)
セベ英語版(1887年 - 1897年)
ロメ(1897年 - 1916年)
元首等
- - - 不明
面積
1913年77,355km²
変遷
アフリカ分割 1884年7月5日
アフリカ戦線1914年8月26日
分割1916年12月27日
通貨金マルク
現在ガーナの旗 ガーナ
トーゴの旗 トーゴ
1885年のトーゴラント
1915年の地図

ドイツ領トーゴラントドイツ語: Schutzgebiet Togo)は、1884年から1916年にかけて、西アフリカに存在したドイツ帝国の植民地である。現在のトーゴに加え、ガーナヴォルタ州の大部分を支配し、面積は7万7355km²であった[1][2]

歴史[編集]

ドイツの侵略[編集]

1884年アフリカ分割の末期にドイツ帝国が侵略した。2月、ドイツ軍がアネホ町の首長を誘拐し、保護条約締結を強制した[3]ロメ地方ではドイツ保護領カメルーンと同様にグスタフ・ナハティガルが侵略を主導した。7月5日、ナハティガルは現地のムラパ3世と保護条約を結び、ベニン湾奴隷海岸に領土を獲得した。

1888年、行政府は25人のハウサ人から成る歩兵隊(Polizeitruppe)を組織し、内陸部の侵略に用いた。

1890年、ドイツ人役人の人口は12人だった。

社会基盤はアフリカの最高水準に達した。内陸の山脈に向かって道路や橋が建設された。

1894年、Polizeitruppeは144人に拡大し、クパンドゥ英語版等の「トーゴ中央の抵抗都市」は完全に破壊された。住民の財産は没収され、200~1110金マルク/人の罰金が科された。

1895年、首都ロメの人口はドイツ人31人と先住民2084人だった。

1899年、ドイツはイギリス帝国からトーゴ中立地域(イェンディ英語版とヴォルタ・トライアングルを獲得し、ドイツ領サモア北ソロモン諸島英語版トンガを割譲した[4]

行政府はカカオ珈琲綿の栽培を導入した。

1901年アメリカ合衆国のタスキーギ研究所から、ジェームズ・キャロウェイをリーダーに4人の綿花栽培指導者が派遣され、現地人を指導した[5]

1905年、ロメとアネホを結ぶ鉄道が開通した。

1907年、ロメとパリメを結ぶ鉄道が開通した。

1910年、建設された道路が1000kmを超えた。

1911年、ロメとアタクパメを結ぶ鉄道(後背地線)が開通した[6]

1913年までに、ロメの人口はドイツ人194人(内女性が33人)と先住民7042人に増加した。 トーゴラント全体ではドイツ人は316人で、その内女性が61人、子供が14人だった[7]第一次世界大戦直前には、ロメは「西アフリカで最も美しい都市」になった[8]

第一次世界大戦と消滅[編集]

1914年8月6日、連合軍はドイツの植民地に降伏を勧告した。8月7日フランス第三共和政イギリス帝国の軍隊がトーゴラントを侵略した。ドイツ軍人は1人もおらず、警察の司令官・副司令官として10人だけ存在した。これに加え、先住民は司令官が1人と警察官が660人おり、彼らが全土に配置されていた[9]。連合国軍はロメを占領し、アタクパメ東部のカミナ・ラジオ局英語版に進軍した。

8月24日夜から25日にかけて、ラジオ局のドイツ人技師が施設を破壊した。

8月26日、植民地政府は降伏した。

フランスとイギリスの分断統治、独立[編集]

1916年12月27日、トーゴラントはフランスとイギリスに分割された。

1922年7月20日ヴェルサイユ条約が批准され、トーゴラントは国際連盟のB級委任統治領となり、フランス領トーゴランドイギリス領トーゴランドに分割された。フランス領が全体の面積の約2/3を占めた[10]

1956年5月、イギリス領で国民投票が行われ、58%がガーナへの統合を望んだ。

1957年3月6日、ガーナがイギリスから独立した。12月13日、イギリス領はガーナに統合された。

1960年、フランス領はトーゴ共和国として独立した。

統治者[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Rank Order – Area”. CIA World Fact Book. 2008年4月12日閲覧。
  2. ^ David Owusu-Ansah. Historical Dictionary of Ghana (4 ed.). Rowman & Littlefield. p. xii.
  3. ^ Laumann, "A Historiography of German Togoland", p. 195
  4. ^ Paul M. Kennedy, "The Samoan Tangle: A Study in Anglo-German-American Relations, 1878–1900", Harper & Row, p 1974.
  5. ^ スヴェン・ベッカート 著, 鬼澤忍, 佐藤絵里 訳『綿の帝国 : グローバル資本主義はいかに生まれたか』紀伊國屋書店、2022年12月、566-584頁。ISBN 978-4-314-01195-2 
  6. ^ Haupt,Deutschlands Schutzgebiete, p. 82
  7. ^ Haupt, p. 81
  8. ^ Haupt, p. 74
  9. ^ Haupt, p. 79
  10. ^ Martin, Lawrence (2007). The treaties of peace, 1919–1923. 2. The Lawbook Exchange, Ltd.. p. 15. ISBN 978-1-58477-708-3. https://books.google.com/books?id=jtyOqiwiDLYC&pg=PR15 2011年7月19日閲覧。 

参考資料[編集]

  • Haupt, Werner (1984). Deutschlands Schutzgebiete in Übersee 1884–1918. [Germany’s Overseas Protectorates 1884–1918]. Friedberg: Podzun-Pallas Verlag. ISBN 3-7909-0204-7 
  • Laumann, Dennis (2003). “A Historiography of German Togoland, or the Rise and Fall of a "Model Colony"”. History in Africa 30: 195–211. 
  • Washausen, Helmut (1968). Hamburg und die Kolonialpolitik des Deutschen Reiches. [Hamburg and Colonial Politics of the German Empire]. Hamburg: Hans Christians Verlag 

外部リンク[編集]