トマス・ネルソン・ジュニア

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トマス・ネルソン・ジュニア
トマス・ネルソン・ジュニア
生誕 1738年12月26日
バージニアヨークタウン
死没 1789年1月4日
バージニアハノーバー郡
職業 農園主、軍人、政治家
配偶者 ルーシー・グライムズ
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トマス・ネルソン・ジュニア(Thomas Nelson, Jr.、1738年12月26日-1789年1月4日)は、現在のアメリカ合衆国バージニア出身の農園主、軍人、および政治家である。大陸会議ではバージニアの代表となり、1781年バージニア邦知事となった。バージニア代表団の一員としてアメリカ独立宣言に署名したので、アメリカ合衆国建国の父の一人と見なされている。

生涯[編集]

トマス・ネルソン・ジュニアは、スコットランドからの移民でヨークタウンの初期開拓者であったトマス・"スコッチ・トム"・ネルソンの実際は孫であった。父のウィリアム・ネルソン (1711-1772)はやはり植民地の指導者であり、短期間知事を務めた。ネルソンはヨークタウンで生まれ、当時の多くのバージニアのプランター・クラス英語版と同様にイングランドで教育を受けた。ニューカムズ・スクール英語版に通い、1758年からケンブリッジ大学クライスツ・カレッジで学んだ[1][2][3]1760年に卒業し、翌年故郷に戻った。

1761年には初めてバージニア植民地会議議員に選ばれた。翌年、ルーシー・グライムズと結婚した(ルーシーの母方の叔父はペイトン・ランドルフ)。父方の叔母は"ライトホース・ハリー"・リーの母であった。ネルソン夫妻の息子ヒュー・ネルソン (1768-1836)は後にアメリカ合衆国下院議員を務めた[4]

アメリカ独立戦争が近づいた1774年、バージニア総督ダンモア卿が議会を解散した。ネルソンはこれに反応して作られた革命会議の一員になった。会議ではボストン港法に対する抵抗を支持する動議を支持した。翌年、イギリスの支配やロイヤリストの影響が無いところで民兵の再組織化を積極的に唱えた。第3バージニア連隊の大佐に指名されたが、1775年遅くに大陸会議代表に選出されたときに大佐の職を辞した。

大陸会議におけるネルソンの最初の任期は1777年まで続き、この頃に病気で辞任を余儀なくされた。大陸会議の一員である中で、故郷に帰る時間を見つけて1776年春のバージニア憲法制定会議で重要な役割を演じた。アメリカ独立宣言に署名するときは大陸会議に戻った。

低地バージニア民兵隊の司令官となり、トーマス・ジェファーソンの後を受けてバージニア邦知事になった。ネルソン自身がヨークタウンの最終包囲戦に関わった。伝説によれば[5][6]ジョージ・ワシントン将軍(一説ではラファイエット)に、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が本部に使っているネルソン自身の家にむけて大砲を放つように促し、最初に家に命中させた者には5ギニーを提供した。

死と追悼[編集]

ネルソンはバージニア州ハノーバー郡の息子の家で死に、ヨークタウンのグレイス教会墓地に埋葬されている。

下の賛辞はカーネル・アイネスによってネルソンの記念のために幸福と親しみを込めて捧げられたものである。

傑出した将軍トマス・ネルソンはもう居ない!彼はハノーバーの彼の農園で、今月の4日日曜日に、自然に対する最後の大きな借りを返した。この偉大で善良な男の人生を飾る気高い徳をほとんど話そうとはしなかった彼は、人の性質に対する賛辞を言い切ることを避けられなかっただろう。男、市民、議員そして愛国者として彼は、下劣なあるいは利己的な損得勘定によっては曇らされないまた品位を落とすことのない行動を表した。また、真の信仰、健全な博愛心および自由な原則という誠実な性格で強く際立っていた。市民と信教の自由に対する最も熱心な愛で楽しませ、彼は栄光有る愛国者の部隊の先頭にあって、その活動はイギリス専制政治の陰謀に立ち向かい打ち砕き、アメリカ合衆国に自由と独立の帝国をもたらした。あのアメリカの自由への闘争の中で最も重要な危機にあって、この国が競い合う軍隊の行動の場として指定されようという時に、議会の全会一致でこの国の徳有る農夫の軍隊指揮を執るよう選ばれた。この栄誉有る仕事に彼は終戦まで携わった。軍人として、彼は疲れを知らぬように活動的であり、冷静に対応した。不幸の中でも断固として気落ちすることなく、苦悩の上にも毅然と立ち、彼の状況が課する多くの困難さに忠誠と勇気を持って戦った。あの記念すべき年の1781年、イギリスの南部全軍がこの国の即の征服に向かった時、彼は政府の舵取りに呼ばれた。これは実に「男の魂を試す」時であった。彼は危険の後ろに引っ込んでこの機会を自分のために利用しようとはしなかった。反対に彼の国の者達の先頭に立って戦場に向かった。彼の人生、名声および個人の運に対する危機の時に、その決断と寛大さによって、この国を救っただけでなく、アメリカ全部を全体の破滅からで無くても不名誉から救った。この真に愛国的また英雄的行動について、ヨーク包囲戦に用いられた連合軍の有名な総司令官が勇敢な士官達全てと共に、豊富な証言をするだろう。彼の行動のこの部分は当時ですら妬まれ、羨ましがられ、悪意に満ちて認められ、より公平な子孫がそれを信じられるならば、ほとんど称賛するだろう。彼の性格の素晴らしく英雄的な部分を熟考した後で我々が穏やかな人間性の美徳を探しその人に求めるならば、個人的生活の洗練された、慈悲深いまた社会的な性質を、その形態や組み合わせの中から、彼の中に適切に修正され統合されているのを見出すので、お気に入りの自然詩人の言葉を借りれば、こう言うかもしれない。 彼の人生は穏やかであった。また彼の中にその要素が混ざり合っていたので、自然は立ち上がって世界中に向かい言うかもしれない--これは人間だ。

遺産[編集]

バージニア州ネルソン郡とケンタッキー州ネルソン郡は彼に因んで名付けられた。バージニア州高等教育委員会は1967年にトマス・ネルソンの栄誉を称え、トマス・ネルソン・コミュニティ・カレッジと名付けた。

叔父のトマス・ネルソン (1716-1782)、別名「秘書のネルソン」はトマス・ネルソン大尉の父であり、トマス・ネルソン大尉はサリー・キャリー (1762-1779)と結婚し、サリー・キャリーはジョージ・ワシントンの愛人であったサリー・フェアファックスとは一代離れた従姉妹だった。本稿のトマス・ネルソン・ジュニアは作家で外交官のトマス・ネルソン・ペイジおよび実業家のウィリアム・ネルソン・ペイジの祖先である。

ヨークタウンにトマス・"スコッチ・トム"・ネルソンによって1730年ごろに建てられ、独立戦争中にトマス・ネルソン・ジュニアが使ったネルソン・ハウスはアメリカ合衆国国定歴史建造物となり、アメリカ合衆国国立公園局の植民地国定歴史公園によって維持されている。

脚注[編集]

  1. ^ Brydon, G. Maclaren (1943). “English Education of Thomas Nelson, Jr., of Yorktown”. The Virginia Magazine of History and Biography 51 (4): 347–350. JSTOR 4245255. 
  2. ^ Campbell, Charles (1860). History of the Colony and Ancient Dominion. p. 653. https://books.google.com/books?id=u_9DZ6Yx0oAC&pg=PA653 2013年5月13日閲覧。 
  3. ^ "Nelson, Thomas (NL758T)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  4. ^ http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=N000035
  5. ^ snopes.com
  6. ^ U.S. National Parks Services page on the Nelson House

参考文献[編集]

  • Emory Evans; Thomas Nelson of Yorktown: Revolutionary Virginian; 1975, University of Virginia; ISBN 0-87935-024-5.
  • Emory Evans; Thomas Nelson and the Revolution in Virginia; 1976, Virginias Bicentennial Commission.
  • Nell Moore Lee; Patriot Above Profit: A Portrait of Thomas Nelson, Jr. Who Supported the American Revolution with His Purse and Sword; 1988, Rutledge Press, ISBN 0-934395-68-3.

外部リンク[編集]

先代
ウィリアム・フレミング
バージニア州知事
1781年
次代
ベンジャミン・ハリソン